116. 論理対話不能な乱心
「使用人は全員、出て行って頂戴」
静まり返った大広間に、大理石を削る不快な金属音と共に、リリアンの冷え切った声が響き渡った。
戸惑う使用人たちは、彼女が引きずる剣の不気味な金属音に圧され、動くことができない。
執事が縋るような視線をこちらへ向けたが、ハーガン公爵の静かな頷きを確認すると、即座に他の使用人たちを促し退室が始まった。
「リ、リリアン……?」
アレクシオスは、目の前の異常な光景が飲み込めない様子で、唖然と立ち尽くしている。
グラードとアメリアも、給仕をしていた使用人もすべて立ち去り、公爵家の面々のみが残された大広間。
重い扉が閉められた音と共に、リリアンがこちらへと歩みを進める。
「下がっていろ、エリス」
小さな声でそう言ったヴィンスが、私の視界を完全に塞ぐようにして、その広い背中の後ろに私を隠した。
ヴィンスは癖のように無意識に腰へ手をやったが、今は晩餐会の礼装であり帯剣しておらず、小さく舌打ちを漏らす。
「甲冑の剣、か……」
【スキャン:リリアンが携えた長剣】
【詳細:ヴァレリウス家、大広間前の廊下に並んでいた甲冑の持つ長剣と合致。定期的な研磨により殺傷能力は実戦級と判定】
【警告:対象の保持状態が不安定なため、予測不能な軌道を描く可能性あり】
「リリー……どうしたんだ、なぜこんな……」
アレクシオスの問いに、リリアンはようやく顔を上げた。
充血し焦点が定まっていないうつろな瞳を夫へと向け、振り乱された髪が頬に張り付き、可憐な面影を無残に削ぎ落としたその形相は、見る者に生理的な戦慄を覚えさせた。
「なぜ!? なぜだなんて……貴方が言うの!? 私を捨てようとしている貴方が!!」
「は……?」
唐突な物言いに、広間にいる全員の動きが止まった。
困惑の視線がアレクシオスへと集まる。
「な、なにを言っているんだ、リリー……?」
「言い訳は聞きたくないわ!!」
悲鳴にも近い絶叫が大広間の空気を震わせた。
ヴィンスの背越しに見えるリリアンは今にも壊れてしまいそうなほど悲痛な形相で、重い剣を両手で握りしめ、自分を守る最後の砦のように構え直した。
「リリアン、重いものを持つのは身体に障るわ。それを置いて、落ち着いて話をしましょう」
ベアトリス公爵夫人が、夫婦の間を取り持つように一歩進み出た。
努めて穏やかな声で宥め、彼女の着席を促すが、リリアンの拒絶はそれを上回る激しさだった。
「お義母様もでしょう? お義母様も、私をこの家から追い出そうとされていらっしゃる……!!」
「ええ? そんなこと……」
「いいえ!!」
ベアトリス公爵夫人の説得も虚しく、リリアンは激昂して剣を構え、声を張り上げた。
【生体スキャン:リリアン・ヴァレリウス】
【分析:瞳孔の散大、呼吸数の過度な上昇を確認。極度の被害妄想、あるいは強い情緒不安定状態にあると推測。論理的対話の成立確率は現在12%未満】
見るからに不安定なリリアンの様子に、むやみに刺激するのは得策ではないと、その場の全員が口をつぐんだ。
そんな中、静寂を破ったのは、あくまで冷静沈着なハーガン公爵の声だった。
「――知っての通り、私は本日戻ったばかりだ。不在の間になにがあったか知らないが、君がそのように乱心している理由と目的を、聞かせてもらえるだろうか」
極めて冷静で落ち着き払った声。
その公平な物言いがリリアンの高ぶった神経をわずかに鎮めたのか、彼女はこの館の主へと恭しく向き直った。
「お騒がせして申し訳ありません、お義父様。しかし、お義父様も今、お聞きになったのではないのですか?」
「なにをだ」
「夫が……アレクシオスが私を捨てて、新たな妻を迎えようとしている話ですわ!!」
広間にいる全員が、同時に目を瞬かせた。
予想だにしていない話の方向性に、誰もが言葉を失っている。
「そんな話はしていな――」
「貴方は黙っていて!!」
アレクシオスの反論に再び激昂したリリアンが、鋭い咆哮と共に剣を叩き下ろした。
激しい破壊音と共に、傍らにあった椅子が一脚、無残に砕け散る。
「毎日……毎日、毎日毎日、毎日毎日毎日毎日!! 愛人のところに通い詰めているのを、私が気が付かないとでも思って!?」
「な、なんの話を……」
「お義母様も、アレクがその愛人と身を固めてくれればと思っていらっしゃるんでしょう!?」
「アレクシオスに愛人だなんて……」
「もうそちらを本妻にとお認めになったのですか!? 私の方こそが愛人だとでも!? おなかの子が妾の子として扱われるなんて、耐えられない!! 追い出されたって、実家には……!! もう帰る場所もないのに!! 私には、アレクシオスとこの家しかないの!!」
身に覚えがないといった様子のアレクシオスと、困惑を隠せないベアトリス公爵夫人。
宥めようとする二人も、もはや取り付く島もないといった様子だ。
もはや言葉を届ける余地はないように思われたが、静かに聞いていたハーガン公爵が、再び問いかけた。
「私はまだ、なにも聞いていない。君の言うその愛人とは、誰のことだ」
「そこの悪女に決まっているでしょう!!!」
リリアンが絶叫と共に振り上げた剣先。
それがピタリと示したのは、ヴィンスの背後――。
「――はい?」
その切っ先は、私へと向けられていた。




