110. 人為的ノイズの再検知
三日という驚異的な速度でグラードが作り上げた改良版の缶詰は、私の設計図を完璧に具現化していた。
量産ラインへの落とし込みも、ベアトリスとアレクシオスの迅速な手配により滞りなく進み、数日後には製品版として遜色のない量産試作がグラードの工房へと届けられた。
工場のテスト稼働も、私の想定した範囲内の滞りしか発生していない。
現在は、届いたばかりの量産缶詰の試作品を、工房でグラードと共に最終検査している。
【スキャン:量産試作の工場産缶詰】
【分析:密封状態の目視確認】
【異常検知:容器の膨張を確認】
【判定:細菌によるガス発生。殺菌不完全、または密封不全と定義】
「グラード、このように蓋が膨らんでいるものは中身が腐っています。迷わず破棄してください」
「ああ。……しかし、最初の頃に比べたら、随分と品質が安定したもんだ。これなら不良品も少なく済むだろうなぁ」
私は細かい調整点をリストアップし、工場の職人たちへの要望書をまとめていく。
一通り作業を終えたところで、グラードが魂が抜けたような声を出しながら、ソファへと身を投げ出した。
つまらなくなった、と全身で語る職人に対し、私は用意していた一束の紙を取り出す。
「そうです、グラード。約束していたものです」
グラードがソファからのそのそと身を起こし、私の手元を覗き込んだ。
手渡したのは、以前話していたマニキュアやそろばんといった、新しい開発品の設計図だ。
「おお! これは……!!」
「こちらの開発は急ぎませんので、納得がいくまで、好きなだけこだわってください」
「好きなだけ、こだわりを……!?」
グラードは子供のような無邪気な表情で、設計図の束を食い入るように見つめ始めた。
だが、ある一枚の図面で、彼の指が止まった。
「うん? これは、この間作った缶切りだが、えらく意匠が凝ってるな。缶にやった、焼付塗装も……」
「あの、それは……ヴィンスに、贈りたいと思いまして」
グラードは髪の隙間から大きな目をぱちぱちと瞬かせ、それからニッと悪戯っぽく笑った。
「なるほどなぁ! よし、これは最優先にしてやろう!」
彼が最優先で動いてくれるのならば、ヴィンスが戦地へ向かうことになっても、間に合うかもしれない。
グラードは設計図を二、三度めくり返し、ふと不思議そうに私を見上げた。
「……ところでエリス様。君自身のものはないのかい?」
「え? それは先ほど、ヴィンスへの……」
「いやいや、それはプレゼントだろう。そうじゃなくて、君が欲しいものだよ。ないのかい?」
私の欲しいもの。
思ってもみなかった問いに演算が停止しかけた時、工房の扉が控えめにノックされた。
音がしてすぐに扉を開いたのは、外套にうっすらと雪を積もらせたアレクシオスだった。
「やあ、いいかな?」
最近のアレクシオスは、缶詰の進捗を把握するために、頻繁にこうして工房を訪れている。
扉まで駆け寄った私に、彼は軽く手を上げた。
「今日は様子を見に来ただけなんだ。すぐに戻るよ。……それで、どうだい?」
「ずいぶん品質が安定してきました。このまま工場を稼働させても問題ありません」
「それはよかった」
私の言葉に、アレクシオスは目に見えて安堵の溜息を吐いた。
「父上が港町の視察から戻るまで、あと一週間ほどだろう? ある程度、製品化の目処がついていないと、気が気でなくてね……」
「ハーガン公爵が戻られたら……」
私の言葉に、アレクシオスの表情が引き締まる。
「……その日のうちに晩餐会が開かれるだろう。その時に、許可をもらうつもりだ」
形になった成果はある。
だが、これまでの父との確執を思えば、彼の不安は拭いきれないのだろう。
無意識に自分の腹部を擦る彼の手は、ひどく震えていた。
「大丈夫です」
私はそっと、その冷え切った彼の手に自分の手を重ねた。
「ヴィンスも、ベアトリス公爵夫人も、アレクシオス様の判断を信じてここまで動いています。ご家族を信じて良いと私は思います」
ぎゅっと力を込めると、アレクシオスは安心したように笑った。
その細められたブルーグレーの瞳は、やはりどこかヴィンスの灰色の瞳に似ている。
「あ、そうでした」
思い出したように、私は慌ててアレクシオスの手を離した。
彼がきょとんとした顔をする。
「どうしたんだい?」
「ヴィンスに、また叱られるところでした。……他の男に、と」
一瞬の静寂の後、アレクシオスは声を上げて笑い始めた。
「ははっ! あいつは兄にまで嫉妬するのか。弟がそんなに嫉妬深いとは、初めて知ったよ!」
肩を揺らして笑う姿を見て、今度は全然ヴィンスと似ていないと感じる。
ヴィンスが笑うときは、ほんの少しだけ口元を緩ませて、静かに耐えるように肩を揺らし、低く喉を震わせて――。
【――警告:心拍数が上昇傾向にあります】
思い出しているうちに、なぜか心拍数が高まってしまう。
無意識に赤くなってしまった顔を冷やすように、顔を左右に振って、頭の中のヴィンスに支配されそうな考えを振り払った。
「……さて、そろそろ戻らないと、父上の使用人たちに怪しまれるな。また来るよ」
アレクシオスは手を振り、薄い雪を踏みしめる足音を響かせながら本邸の方へと帰っていった。
私は庭園の木々に消えていく彼の背中を見送り、扉を閉めようとした。
その時――。
ガサリ、と凍てついた静寂を破り、遠くの庭園で不自然に葉が揺れる音がした。
【ログ:環境ノイズの検知】
【分析:庭園方向から低木の摩擦音を確認】
【分析:風速2.0m/sに対する減衰率が不自然】
【推論:風による自然現象ではなく、人為的な物理接触の可能性72%】
以前も感じた、なにかがいるような気配。
私はその音のした方向へ足を向け、音の正体を突き止めようとした。
「エリス様!」
背後から届いたアメリアの鋭い声に、私ははっと振り返る。
「エリス様、急ぎお越しくださいませ!」
不確定な不安要素に後ろ髪を引かれながらも、庭園に背を向ける。
慌てた様子のアメリアに促され、私は庭園を抜け、離れの中央玄関へと駆けた。
そこに止まった馬たちの激しい呼吸が白く渦巻く一台の馬車から降りてきたのは、外出着を身に纏ったベアトリス公爵夫人だった。
「急な訪問になって悪いわね。忙しいかしら?」
「いえ、今は缶詰の検査をしておりました。ベアトリス公爵夫人、どうされましたか」
アメリアに急いでストールを肩にかけられながら、私はベアトリス公爵夫人に駆け寄る。
彼女は手元の扇子を、音を立てて閉じた。
「では、私についていらっしゃい」
「ええっと、どこへでしょうか」
ベアトリス公爵夫人は、今降りたばかりの馬車の方へと踵を返しつつ、私を横目に見た。
「騎士団詰所よ」




