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109. 充足感を記録しました

 

 無心にペンを走らせる私の意識は、膨大なアーカイブの深淵へと潜り込んでいるようだった。

 視覚情報を排し、ただ最適解という一点に向かって、設計図を次々と出力していく。

 万年筆のペン先が、紙を削る音だけが室内に響き、数分後、私は最後の一枚を机に置いた。


「――できました」


 最後の一枚を机に置き、意識を現実へと引き戻す。

 ふう、と小さく息を吐いて顔を上げると、そこには呆気に取られた様子のベアトリス公爵夫人の姿があった。


「それが……聖女としての能力なの?」


「見るのは二度目だが、やはり圧倒されるな……」


 アレクシオスは興味深げに、散乱した複数枚の設計図と私を見比べている。

 ソファの端ではジャック副団長が、深く共感するように何度も頷いていた。

 グラードに意見を求めよう改良設計図の一枚を持って振り返ると、彼は石像のように固まっている。


「グラード、大丈夫ですか?」


「す、すまない。思わず設計図を書くエリス様に魅入ってしまっていたよ」


 前髪の隙間から覗くグラードの瞳は、これまでにない畏敬の念を帯びていた。


「今、その設計図を書いていたエリス様は、この世のものとは思えない様子で……聖女っていうのも、なんだか納得だったなあ」


 公爵家の面々に囲まれている緊張すら忘れ、職人としての本能で私を観察していたらしい。

 私は書き上げたばかりの改良設計図をグラードに差し出した。


「缶詰を改良調整するための設計図です。量産可能なラインでの意見をいただけますか」


 受け取ったグラードの目が、瞬時に職人らしい鋭いものになる。

 しかし読み進めるうちに、彼の身体は小刻みに震え始めた。


「……これが、調整だって?」


「はい、改良した缶詰の設計図ですが……」


 やる気を損なってしまっただろうかと心配になり、私が声をかけようとした瞬間、彼は設計図を天にかざすように立ち上がり、満面の笑みを浮かべた。


「素晴らしい!!」


「えっ」


「なんて楽しそうな改良なんだ! 調整なんてつまらないものじゃない。全く違うアプローチで再構成されている!」


「ええっと……はい。酸性が強いトマトへの対策として、内側の焼き付け塗装を採用しました」


 私は困惑しながらも、口頭での補足説明を始めた。


【検索:焼き付け塗装】

【工程:植物性の油に、樹脂を溶かし込み、油性ワニスを作成。これを金属に塗り、高温で長時間焼き上げる】

【反応:熱による酸化重合と架橋反応を誘導】

【結果:熱硬化性樹脂被膜の形成】


「――これにより、油と樹脂は完全に一体化し、二度と熱では溶けず酸にも負けない、巨大分子のポリマー被膜へと生まれ変わります」


「すごい! まったく理解できない! つまり……どういうことだい!?」


 グラードだけでなく、アレクシオスやジャック副団長も首を傾げている。

 私は説明の言葉をできるだけ分かりやすく、語彙へと変換して続けた。


「油と樹脂が、焼き付けによって琥珀のようになる……ということです」


「琥珀? あの、宝石の?」


「はい、人工の琥珀です。……簡単に言えば、ですが」


 ベアトリス公爵夫人も、好奇心で設計図を手に取っている。

 鉄臭さを消し、長期保存を盤石にするために、金属の内側を被膜で覆う。

 これこそが、私が導き出した最適解だ。


「この、缶側面のおうとつの追加と、接合を錫合金への変更は……」


 ヴィンスが机に広がる改良設計図の、別の箇所を指差した。

 私は机の方に向き直り、説明を続ける。


「使用予定の戦場が寒冷地であることに伴う変更です」


【環境対策:極地仕様への最適化】

【横縞のビード加工:内容物が凍結、膨張した際に、金属が破裂するのを防ぐためのバッファとして機能】

【錫ペストの防止:純粋な錫は低温下で結晶構造が変化し、脆く崩壊するため、他の金属を微量に混入させることで、寒冷下での強度を担保】


 グラードはそれだけの説明でなるほどと深く納得し、設計図を握りしめて何事かぶつぶつと呟き始めた。

 その様子を見て、問題なさそうだと胸を撫で下ろす。


「それではグラード、改良版の開発を三日でお願いします」


「三日!?」


 驚いた声を上げたのはアレクシオスだ。

 それを余所に、勢いよく顔を上げたグラードは、きらきらとした瞳を髪の間から覗かせた。


「今すぐ開発を始めます!!」


 そう大きな声で宣言すると、彼はそのまま、嵐のように応接室から駆け出していってしまった。


「――ふふ。昔のダリオを見ているようだわ、よく似てる。職人っていうのは、無茶な注文ほど燃えるのかしらね」


 ベアトリス公爵夫人は飛び出していったグラードを咎めるでもなく、どこか懐かしむような眼差しで、小さく笑った。

 久しぶりに見る母親の笑顔だったのか、アレクシオスもヴィンスも、目を瞬かせて彼女を見ている。


「では私は、量産可能な改良品が出来次第、すぐに稼働できるよう工場を手配するわ」


 ベアトリスは切り替えるようにすぐに立ち上がり、退室の準備を始めた。


「量産は父上の許可をとってからなのでは……」


「この缶詰は素晴らしい商品だわ、軍事としても商売としても。量産形態まで整えておけば、あの人は頷くしかできないでしょう。本当に次の戦場に使用するのならば、急がなくてはいけないわ」


 ベアトリス公爵夫人の抜かりない様子に、またもアレクシオスは苦笑いをしている。

 細かい調整は今まで通り手紙で行うことを全員に確認すると、夫人は机の上に置いていた量産に関する資料を全て手に取った。


「これはいただいていくわね」


「金属加工と食品加工の工場が隣接していなければなりません。今から工場を建てるのでは時間がかかるのでは……」


「いえ、すでに廃業予定の金属加工工場を二棟買いとりましたから、片方を食品用に改築すれば問題ないでしょう」


 すでに工場を改築する手配まで済ませていると、ベアトリス公爵夫人は続けて語った。

 工場を食品用に整えるには、クリアすべき課題が多い。

 私は事前に用意していた衛生管理マニュアルをカートから取り出し、ベアトリス公爵夫人に手渡した。


「では……こちらは食品工場の資料です。衛生管理が重要ですので、重点的に記載しています」


 受け取り、少し目を通したベアトリス公爵夫人は、軽く頷くと私に背を向けた。

 彼女はそれ以上語らず、見送り不要と部屋を去っていく。


(さすがは公爵家の夫人です。理解が早く、手際も良い)


 後を追うアメリアを従えて、廊下を進み去っていくベアトリス公爵夫人の背中にもう一度礼をし、扉を閉める。

 残された応接室を振り返ると、アレクシオスとヴィンスが、強度テストや戦後の商品化について議論を交わしていた。


 白紙だった紙には、アレクシオスの文字で次々と計画が記されていくが、話が一段落したところで、アレクシオスがふと、紙を置いて黙り込んだ。


「……ヴィンセント。お前のような優秀な弟が継ぐべき家を、不甲斐ない兄が汚してしまって……すまない」


「そんなことは、一度も思ったことはありません」


 初めて直接漏らされた、兄の本音。

 ヴィンスは、真っ直ぐに兄を見据えて首を振った。


「兄上こそが次期公爵にふさわしいと、父上や周囲に分からせるために俺は本邸を出たのです。……俺は、この家の騎士でありたい」


「……ああ。これからは、お前が誇れるような兄になると誓うよ」


 二人の間に流れる、静かで、けれど揺るぎない言葉。

 それは、長年の不和と誤解が解けた瞬間のようだった。


 私は二人の兄弟の邪魔しないよう、音もなくそっと部屋を出る。

 廊下は寒い空気で満たされていたが、私のシステムはかつてないほどの充足感を記録していた。



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