94. 物理的干渉:扇子
離れのメイドたちが並々ならぬ気合を込めて整えてくれた装いに身を包み、私は本邸の外廊下を歩いていた。
今日のドレスは、先日の晩餐会の時よりも淡い色調で、私のハードウェア――外見年齢に相応しい可憐な仕立てになっているようだ。
「こちらで、ベアトリス夫人がお待ちです」
表情を崩さないメイドたちに案内された先は、立派な温室だった。
重厚な扉を抜けた瞬間、外の凍てつくような冬の空気が嘘のように、肌を撫でるやわらかな温もりに包まれる。
高いガラス天井からは淡い光が降り注ぎ、季節を忘れた花々が咲き誇っていた。
冬であることを思い出させないような色彩が視界いっぱいに広がり、整えられた低木の間を、細い水路が小川のように静かに流れている。
水のせせらぎに導かれるように奥へ進むと、花々に囲まれるようにして白い円形のガゼボが設えられていた。
「――まさか、本当に来るとは思っていなかったわ。貴女は聖女として、教会と夫に厳重に守られている立場でしょうに」
そこには既に、ベアトリス夫人が静かに腰を下ろしていた。
【解析:ベアトリス公爵夫人の発話トーンおよび表情】
【判定:警戒心、および強い敵対的意図を検知】
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
白いクロスのかかったテーブルには紅茶の用意が整えられていたが、並べられた菓子はどれもカトラリーを必要としない、手で摘める簡易的なものだった。
晩餐会の時と同じく、食べやすい食べ物が並んでいて、私は静かに安堵した。
「座りなさい」
ベアトリス公爵夫人の鋭い視線が、私を射抜いた。
メイドが引いた、向かい側の椅子へと腰掛ける。
「失礼いたします」
ベアトリス公爵夫人は、冷たく鼻を鳴らした。
赤い薔薇模様が描かれたレースの扇子を口元に広げ、試すような視線を私に向ける。
「これを見て来たのでしょう? 保護には、今は婚約者という肩書きが必要だものね。やはり、失いたくないのかしら」
ベアトリス公爵夫人は、手元にあった数冊の釣書を、テーブルへ放った。
彼女の後ろに立つメイドも、持ってきた釣書を、私の目の前へと置く。
「こちらの方は持参金が金貨にして数万枚。こちらの方は他国との太い交易パイプを持っているわ。公爵家の血を引くヴィンセントには、それだけの価値があるの。……聖女というものに、この方々以上の価値があるのかしら」
彼女の声は淡々としているが、その奥に、わずかな苛立ちが混じっているように感じた。
「聖女保護のためだけに、夫と教会は……いいえ、貴女はヴィンセントを利用したのかしら」
「利用……とは、なんですか?」
「あの子の情につけ込み、身の安全を確保するための盾として、婚約者の座を奪ったのではないかと聞いているのよ」
扇子の奥から鋭く届く、冷たい声。
だが、その奥には――怒りや苛立ちに、焦りが混ざっている。
「ヴィンセントが自分で選んだ婚約ではないのなら、私は公爵家の女主人として、あなたを追い出さなくてはならないわ。これ以上あの子を、誰かのための道具にさせるわけにはいかないの」
彼女は、教会やハーガン公爵の、聖女保護という目的のために、婚約者としての肩書を利用したくて、私がヴィンセントに近付いたと思っているのだろうか。
夫人の言葉の端々に、昨晩から感じていた違和感を拭えずにいた。
「いいえ」
私は、思わず口を開いていた。
「私がヴィンセント様の婚約者になったのは……誰かに決められたからではありません」
まずこれは、正確に、事実を伝えて、はっきりと否定をしなければならない。
そう考えたはずなのに、言葉を探すうちに、なぜかシステムが熱を持ち、声が少し小さくなる。
「私が、彼のことを……その、……す、すきで……交際をした、その結果、ですので……」
ただ否定をしたかっただけなのに、言葉がしどろもどろになってしまう。
羞恥か照れか、少し赤らんだ私の目元を見て、ベアトリス公爵夫人は長いまつげをぱちぱちと瞬かせた。
「貴女とヴィンセントは、想いあっているとでも?」
「そ、そう……思います」
【...エラー:伝達目的の語彙選択が困難です】
【...エラー:ハードウェアの温度上昇を確認】
「……貴女は、ヴィンセントを幸せにできるというのかしら」
「それは……分かりません。」
幸せにする、というのは抽象的であまりに不確定だ。
けれど。ヴィンスのことを想い、すこしだけ、顔が柔らかく綻んだ。
「でも……ヴィンスと一緒にいられたら、私は幸せです」
しばらくの沈黙。
やがて、夫人はふっと力を抜いたように目を細めた。
扇子を閉じ、膝の上に置くその手から、先ほどまでの攻撃的な硬さが消えていく。
「……そう」
その顔は先ほどまでの試すような冷たいものと違う。
安堵と、かすかな困惑が混じり合った、愛情深い母親の顔だった。
「それなら、いいのよ。ヴィンセントが選んだ女性だと言うのなら。あの子がようやく自分から手を伸ばしたというのなら……、私が差し出す釣書など、ただのゴミでしかないわ。……釣書は回収するわ。離れに帰りなさい」
息子の幸せを願う、母親としての言葉。
もしかしたらこの人は――
「……ヴィンセント様は、ベアトリス公爵夫人から疎まれていると思っています。しかし、今お話をした貴女は、ヴィンセント様の幸せを願っているように見えます。なぜ、こんなにも公爵家の方々はすれ違っているのでしょうか」
私の言葉に、夫人の眉がぴくりと動く。
惑うように視線を逸らした彼女の指先は、微かに震えている。
【視覚解析:対象の末梢部における微細な振戦】
【推論:極度の『緊張』、あるいは『動揺』】
長い沈黙。
私は考えを整理しようとして、目の前の湯気が立ち上る紅茶に手を伸ばした。
だが、そのカップの持ち手は驚くほど細く、繊細な造りになっていた。
「あっ」
【警告:安定性低下を検知】
【補正提案:握力の再配分――失敗】
持ち上げた瞬間、指先から感覚がすり抜ける。
陶器の冷たさと、重量バランスの崩れを認識した時にはすでに遅く、カップは私の制御を離れ、重力に従って落下を開始していた。
【エラー:微細動作制御に遅延発生】
【分析:過熱したハードウェアによる、制御系への一時的な負荷】
「危ない!!」
瞬間、ベアトリス公爵夫人が鋭い声を上げると同時に、手に持っていた扇子を突き出しカップを払った。
落下しかけていたカップは、夫人の扇子によって向こう側へ弾かれ、熱い紅茶が私にかかるのを防いだようだ。
「……え?」
温室のタイルに落ちて割れたカップを見る。
呆気にとられる私に、夫人は椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、詰め寄ってきた。
「ケガはない? どこにも、かかっていないわね?」
「は、はい……」
必死な様子に、私は目を丸くする。
私のドレスに紅茶がかかっていないことを確認すると、彼女はくるりと振り返った。
「だから言ったでしょう、このカップは細すぎたのよ、最初から気になっていたの。お菓子ももっと食べやすいものに。すぐ取り替えなさい」
夫人は背後に控えていた侍女たちに向かって、声を張り上げて命じていた。
閉じた扇で割れたカップや菓子を示して、交換を急かしている。
【解析:対象の発言内容および行動原理】
【判定:対象はエリスの身体的特性を事前に把握し、負担軽減を意図した環境を構築していた】
矢継ぎ早に指示を出すベアトリス公爵夫人を見つめながら、私は確信した。
この人は、あまりに不器用な方法で、この歪な家族全員を、そして私さえも守ろうとしているのだと。




