95. 共有された秘密
温室内には、陶器が砕ける乾いた音の余韻と、溢れた紅茶の華やかな香りがわずかに残っている。
落ちたカップの破片を素早く片付け、テーブルの上のティーセットを入れ替える侍女たちに囲まれながら、私は動けずにいた。
「ドレスに汚れやカップの欠片がないか、細かく確認してあげてちょうだい」
全ての指示を出し終え、ようやく腰を下ろしたベアトリス公爵夫人の声には、先ほどまでの刺々しさは消えていた。
侍女に足元を点検されながら、私は恐る恐る、胸に生じた問いを口にする。
「あの……ベアトリス公爵夫人は、私が食事が下手なことをご存知だったのですか?」
「……アメリアに報告させていたわ。公爵家で保護している聖女、それに息子の婚約者のことですもの、動向を把握しておくのは当たり前でしょう」
アメリア――たしかに、元々ベアトリス公爵夫人の侍女を元々やっていたのだと、ここに来る前に言っていた。
彼女は強く言い放ち、薔薇の扇を広げてふいと横を向いた。
だが、その隙間から覗く耳の先端が、わずかに赤くなっているのを私は見逃さなかった。
【解析:対象の顔面部における毛細血管の拡張】
【判定:羞恥心、あるいは困惑に伴う赤面】
【定義:感情表現における『照れ』と推測される】
――ようやく、彼女の感情がわかってきた。
彼女はヴィンスが、教会や父親の思惑で無理矢理に、聖女を押し付けられたのではないかと危惧し、我が子を守るために私を排除しようとしていたのだ。
一方で、もし本当に息子が選んだ相手であれば歓迎したい――だからこそ、私にも細心の配慮をしてくれていた。
「もしかして、晩餐会の時も……」
あの時用意されていたメニュー。
妊婦であるリリアンに対する配慮のあるメニューだと思っていたが、小さく切って出されていたことは、私に対する彼女なりの気遣いだったのではないだろうか。
「……客人に対する最低限の礼儀です。変な深読みはしないでちょうだい」
ベアトリス公爵夫人はなおも冷たく突き放すが、耳の赤みは引いていない。
【推論:対象の行動原理と性格属性の照合】
【結論:表面的には冷淡を装い、内面に好意的感情を保持する性質。旧世界で一般に『ツンデレ』と称される属性と合致】
氷のような冷徹さを装いながら、その実、温かな体温を持って届く彼女の言葉。
その不器用な優しさを垣間見て、私の中にあった警戒心は完全に霧散していた。
「あの子が貴女の部屋をすべて整え、服も自ら選んだということも知っているわ。父親や教会からの圧力、あるいは義務感かとも思っていたけれど……あの子自身の意思でそうしていたのなら、貴女はヴィンセントに、相当愛されているのね」
その視線には、孤独から解放された息子への安堵が滲んでいるように見えた。
慈しむように目を細める彼女に、私は確かな確信を持って問いかける。
「やはり、ベアトリス公爵夫人はヴィンセント様のことを深く愛しているのですね」
それを聞いた瞬間、彼女は悲しそうに長いまつげを伏せた。
温室内を流れる小川のせせらぎが、静まり返った外界の雪景色との境界をより鮮明にする。
「そう……そうね、愛しているわ。私の子だもの。子供の頃からあえて冷たく接してきてしまったけれど……あの子が離れに住むと言い出した時も、不自由がないように整えさせたのも、私なのよ」
あの一貴族の邸宅かのような離れ。
公爵家の隔離先にしてはあまりに豪華に整っていた理由は、ベアトリス公爵夫人の、息子への愛ゆえの贈り物だったのだ。
だが、彼女はすぐに表情を固くした。
「……ここだけの話にしてもちょうだい」
「え?」
「ヴィンセントにも、アメリアにも、今まで通り。私は冷たい母であったと、嘘をついてくれるかしら」
愛しているからこそ、憎まれ役を演じ続ける――非効率で非論理的な選択だ。
困惑する私を制するように、彼女は言葉を続ける。
「私があの子を愛していると公になれば、ハーガンは一層、ヴィンセントこそが後継に相応しいと確信してしまう。そうなれば、アレクシオスはまた、耐え難いほどの劣等感に苛まれるでしょう」
ベアトリス公爵夫人は、自らが悪役を引き受けることで、家族の危ういバランスをたった一人で繋ぎ止めている。
その献身は、誰にも理解されない戦いだろう。
「貴女たちも、いいわね?」
ベアトリス公爵夫人が背後の侍女たちに視線を送ると、彼女たちは全てを察した様子で深く頷いた。
「無論です」
「存じ上げております」
「今まで通りに」
ベアトリス公爵夫人に仕える彼女たちは、この主人の孤独な戦いを誰よりも理解し、共に歩んでいるようだ。
温室の外から戻ってきた侍女たちが、新たなティーセットをワゴンで運んできていた。
改めてテーブルへ置かれたのは、以前よりも持ち手が太く、手に馴染む形状のカップだった。
「それなら、落とさないかしら?」
少し意地悪に微笑むその顔は、以前私に資料を放り投げた時のヴィンスに酷く似ていた。
血の繋がりがもたらす無意識に似通る仕草が、私の目には、少し愛おしく映る。
いただきますと言い、今度は慎重に紅茶を飲むと、華やかで、心が解けるような味がした。
「おいしいです」
「そう」
少し嬉しそうな、穏やかな表情で私を見る、ベアトリス公爵夫人。
彼女の不器用な愛をこのままにしてはおけない――そう考えを巡らせた、その時だった。
温室の重い扉が勢いよく開かれ、外の凍てつく冷気と共にメイドが血相を変えて温室へ駆け込んできた。
「し、失礼いたします! 旦那様とアレクシオス様が、また衝突されておられて……!!」
「なんですって?」
がたっと椅子を蹴立てて立ち上がるベアトリス公爵夫人の声に、温室の静寂は砕け散る。
テーブルの上、飲み干されることのなかった紅茶が、カップの中で小さく波紋を描いていた。




