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92. 家族システム不全

 

 馬車の扉が閉まり、御者の合図と共に車体が揺れる。


 動き出した馬車の後方に備えられた小さな窓から、遠ざかっていく本邸の玄関先を振り返ると、見送りに玄関まで出てきてくれていたアレクシオスとリリアンの姿があった。

 リリアンはアレクシオスの腕に、縋り付くようにしてその細い身を預けている。

 アレクシオスもまた、彼女の肩を壊れ物を扱うかのように柔く抱き寄せ、冷たい夜風から守っていた。


 暖かに寄り添う2人が曲がり角で消えると、車内を支配する冬の冷気が改めて刺すように感じる。

 豪華で温かな食事を口にしたはずなのに、私の身体は芯から冷え切っているようだった。


【生体モニタリング:ストレス指数、急速な低下を確認】


 公爵邸の石畳を鳴らす車輪の音と、雪を噛む重い振動が、静まり返った夜の闇に響き始める。

 私は重苦しいドレスの締め付けを逃れるように、深く、長く、溜め息を吐き出した。

 隣に座ったヴィンスは、窓の外を流れる夜景を見つめたまま、晩餐会で見せていた鉄仮面を少しだけ緩めている。


「――父上は、昔からああなんだ」


 静かに沈黙を破ったヴィンスの声は、公爵邸よりももっとどこか遠い場所を眺めているように瞳を細めていた。

 白い吐息が冷え切った車内に漂い、窓ガラスをさらに白く曇らせていく。


「父上自身が剣の名手で、軍事に長けた領主だからこそ、俺の方を評価しがちだ。どれほど兄上が勉学で努力をしても、父上は戦場での現実を知る者こそが、跡継ぎにふさわしいと考えている」


 ヴィンスは自嘲気味に、固く口角を上げた。

 その笑みは、自らが意図せず兄を追い詰めてしまうことへの、拭いきれない罪悪感に満ちている。


「軍略を語れば父上は喜ぶ。だが、俺がその期待に応えれば応えるほど、兄上の立場はなくなる……父上の前では、俺の存在そのものが兄上への否定になる。……それを理解していながら、俺はあの場では騎士団長として振る舞うことしかできない」


(……だから、アレクシオス様はあんなに自信がなさそうだったのですね)


 アレクシオスが常に纏っていた、あの消え入りそうなほどの自信のなさ。

 あれは、父親に高く評価される優秀な弟という、あまりに眩い光に長年焼かれ続けた結果だったのだろう。


「兄上は聡明な人間だ。領地経営だって、俺よりもずっと、向いているはずなんだが……。兄上の繊細な気遣いも、慎重な試算も、すべて臆病の一言で切り捨てられてしまう」


 窓の外、街灯に照らされた粉雪が、風に煽られて複雑な幾何学模様を描きながら舞い踊っている。

 その一瞬で消えてしまう儚い光景が、今のヴィンスの心境と重なって見えた。


「母上も、それを分かっているからこそ、俺を疎む」


「ベアトリス公爵夫人も、ですか?」


「ああ。兄上の劣等感を刺激する俺が本邸にいるのを、母上は疎んでいた。だから俺は、騎士団に入ってからは、ずっとあの離れで暮らしている」


 実力主義の父親と、自信のない嫡男、そしてその嫡男を守ろうとする母親。

 兄の自尊心をこれ以上削らず、母の疎ましげな視線を避けるため、彼は本邸を追われるようにして離れでの暮らしを選んだ。

 それが、公爵家の脆い均衡を保つために、彼が捻り出した唯一の手段だったのだろう。


「……すまない、エリス」


 不意にヴィンスがこちらを向き、申し訳なさそうに眉を下げた。

 その瞳には、ただ私への痛切な想いだけが揺れている。


「守ると言ったのに、俺自身が家のことに、君を巻き込んでしまっている」


「いいえ。大丈夫ですよ、ヴィンス。……それに、晩餐会でのヴィンスは、とても新鮮でした」


「新鮮?」


「はい。立ち居振る舞いが、いつもよりずっと洗練されていました。あの場でなければ、ずっと見惚れていたと思います」


 私の率直な言葉に対し、ヴィンスは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。

 やがて、喉の奥でくすぐったそうに音を立てて笑うと、彼を縛り付けていた公爵家の呪縛から一時的に解放されたかのような、穏やかな空気が馬車を満たしていく。


「そうか。まあ確かに……よかったことも、ひとつはあったな」


「よかったこと、ですか?」


 ヴィンスは私の手をそっと握り、その指先を慈しむように見つめた。

 握り込まれた手のひらから、彼の熱が脈打つように伝わってくる。


「家族に、君を婚約者として紹介できた。これで君は、誰に憚ることもなく、家族公認の俺の婚約者だ」


 暗い馬車の中、彼の瞳だけが確かな熱を持って私を映し出していた。

 ヴィンスが少しだけ身を乗り出し、空いた方の手で私の頬を包み込んだ。

 冷え切った指先が私の肌に触れ、そこから急速に彼の体温が流れ込んでくる。


「エリス、君は俺の隣にいてくれ。……それだけでいい、どうか、守らせてくれ」


 至近距離で見つめ合う視線が絡み合い、馬車という密室の温度がわずかに上昇したように感じる。

 胸を締め付けるほどの切実さを孕んだその声に、私はただ、静かに頷くことしかできなかった。



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