スノウベルの願い
わたしが彼に会ったのは、七つの頃だった。
お城で出会った彼は、人見知りのわたしに話しかけてくれたのだ。
きりりとした眉に、すっと通った鼻筋。
黒い髪の隙間から覗く、藍色の眼差し。
こちらを見る目はどこか鋭くて、最初は怖い人のように思えたけれど、話しているうちに、本当はとてもやさしい人なのだと気づいた。
わたしは悪い子だった。
父親の言うように、打算的にもなれず、けれど彼の企みを知った上で、カインを目で追ってしまう。
わたしは父の言うようないい子にはなれず、だからと言って、話し掛けてくるカインを、突き放すこともできなかった。
初めて会った日に、ハンカチ越しに触れた指。やさしく細められた藍色の瞳。
友達になりたいと告げたわたしに、頷いてくれたあの時のことを、わたしは忘れない。
彼はあの日から何も変わっていなくて、ただただ馬鹿みたいに、時には悲しくなるほどお人好しだった。
彼はわたしの魔力を見ても、嫌いにならないでいてくれた。
このおぞましい力を目の当たりにしても、わたしの味方で居ると言ってくれたのだ。
だからわたしは、選ぶことができた。
父に愛してもらうことを諦め、幼馴染の彼の手を取ることができた。
あの日からわたしは、父の道具として生きることをやめたのだ。
わたしはわたしの好きなように、魔力を使う。
その後自分の正体を知ったけれど、それを受け入れることだってできた。
母は魔女であり、わたしはその血を継いでいるのだと言う。
わたしは魔女だ。
この力は、わたし自身のものだ。
ならば使わないという選択だってできる。
こんな恐ろしい力は――人を殺してしまうような魔力は、二度と使いはしない。
――――そのはずだった。
「――――やっと、終わったか」
背中合わせに、彼は言う。
わたしは頷いた。
「追手はこれで全部みたいね」
夜の街道に、幾人もの騎士達が倒れ込んでいる。
辺りには血の跡と、張り巡らされたガラスの結晶が残されていた。
彼とわたしが、追手の騎士達を返り討ちにしたのだ。
彼らは今、気絶して倒れているだけだ。
追って来られないよう、足には地面から生えた結晶が張り付いているけれど、命に別状はない。
わたしとカインは約束したのだ。
お互いに、騎士達の命は奪わない。相手に血を流させても、峰討ちにすると。
それは敵への情けというよりは、お互いを守るための暗黙の誓いだった。
人殺しの罪を背負うことを、互いが許さなかったのだ。
けれどわたしは気づいている。
カインはその一線を、越える覚悟をしていることを。
彼は時折、わたしを庇って敵に踏み込むときがあった。
手加減をしているけれど、不意にその目が、ぎらりと殺気を帯びる時がある。
もしもわたしの命が危うくなる時が来るなら、彼は人を殺すのだろう。
そして絶対に、わたしの手を汚させないつもりなのだ。
彼は知らない。
わたしがとっくに、同じ覚悟をしていることを。
本当は足が震えそうなほど怖いけれど、でもわたしは、その時になれば、きっとやってみせるだろう。
あの時、書斎で泣いているわたしのところへ、彼は来てくれた。
いつもみたいに笑顔を浮かべて、運命を共にすると言ってくれた。
あの瞬間から、わたしは決めてしまったのだ。
その決意の強さを、彼は知らない。
ねえカイン、わたしは魔女なのよ。
あなたが思うほど、やさしい人間ではないのよ。
「……顔が真っ青だよ、スノウベル」
カインが振り返った。心配そうにわたしを覗き込んでいる。
夜の闇に紛れ、かすかな月の光を浴びて、藍色の瞳がちらりと見えた。
「君、血を見慣れてないだろう。やっぱり俺だけで相手をした方が」
「やめてちょうだい」
わたしはぐっと彼を見据えた。
「わたしは魔女よ。その気になれば、誰の相手だってしてみせるわ」
カインは分かり易く眉を下げた。いつもはきりりとした表情なのに、こういう時は子どもみたいに見える。わたしにしか見せない顔だ。
彼は黙って、やさしくわたしの手を取った。
「この先を進んだら、次の町があるんだ。――とりあえず宿へ行こう。追手だって、すぐには来られないさ」
「……そうね」
わたしが頷けば、彼はわざとらしく明るい声音で言った。
「今日は安い宿だといいなあ。この前はぼったくられたから。所持金だって限りがあるのに」
「野宿でも構わないのよ」
「君がよくても俺が駄目だ」
「なぜ?」
「なぜもなにも。君を危険に晒す訳にはいかないよ。この辺には夜盗が出るって話だしね」
「あなたはずいぶんと紳士なのね」
「そりゃあどうも。――君、なにもわかっちゃいないな」
「そうかしら」
彼は笑った。ちょっと困ったような表情をしていた。
黒騎士カイン・エーベルトは、学園の女の子の間でもよく噂に上がる人物だった。
爽やかな王子アルフレッド、やさしく真面目な白騎士ノーティス、そして冷ややかな目をした黒騎士カイン。
学園の女の子たちは、よくこの三人ついて、誰が一番かっこいいかを話し合っていた。もちろん学園には、他にも話題に上る人はいるようだったけれど、この三人が特に女子生徒の目を引いていたのだ。
わたしといえば、教室でノートを読み返しながら素知らぬふりをしていたけれど、カインの名前が挙がるたびぎくりとしていたのだった。
――――カイン様もいいわよね。あの黒髪と綺麗な瞳。
――――いつも冷ややかな目をして……きっとお城でもきびきび働いているのよ。
――――家に帰っても、あの凛とした佇まいでいるんでしょうね。
それを聞くたび、わたしはこっそりと安堵し、肩の力を抜いたものだった。
なぜって、彼らはカインの本当の姿を知らないからだ。
カインは本当はきびきびなんてしてないし、お城でも王子と適当に話をしているばかりのようだ。ああ仕事面倒くさい、とぼやいているところも度々目にしたことがある。それでいて、ちょっとヘタレだったり、やけに感情的だったり、とにかく人間らしい人だった。
つまるところ、そういった表情はわたししか知らないもので、それがわたしには、とても大切なことのように思えた。
女の子たちが彼を見るたび、ちょっと心配になるのだけれど、そのたびわたしは彼のたくさんの表情を思い出した。
彼が騎士になりたての頃、調子に乗って道端の段差につまずいたことも、熱を出した時にすがるような目をすることも、わたししか知らない事実なのだ。
それを知っているというだけで、わたしはちょっとした優越感にひたり、ほっとすることができた。
かっこつけ屋で、剣をふることばかり考えていて、やけに正義感が強くて、――馬鹿みたいにお人好しな彼が、わたしはとても愛おしかった。
「……顔色が、戻ったみたいだ」
こちらを見ていた彼が、不意に言った。
どうやらわたしのことを心配してくれていたらしい。
「お陰さまでね」
わたしがそう返せば、カインは「俺のお陰なの?」と不思議そうな顔をする。
素直に頷いて見せれば、彼はぱっと笑みを浮かべた。
「そっか。なんだか今日は、いい日だな」
「追手に追われたのに?」
「物は考えようさ。俺は君とこうして一緒にいられる。この時間が嬉しいんだよ」
などと彼は、恥ずかしくなるようなことを平気で言ってのけて、明るく笑った。
ああ、その顔。
なんの淀みも無い、くったくのない笑顔。
わたしはあなたの、その笑顔が一番好き。
ねえカイン、もっと笑ってよ。
わたしはわがままだから、あなたの悲しい顔なんて見たくないの。
あなたが微笑んでいることが、わたしの何よりの望みなの。
カインが差し出してくれた手に、わたしはそっと手を乗せる。
夜空には月が輝いている。
二人ぼっちのわたし達は、それでも十分に満たされていた。




