飛べない理由
その日の夕食は、いつもより静かだった。
翔太は好きなハンバーグを前にしても、おしゃべりをほとんどしない。
幸一も、昼間のことが頭から離れなかった。
食事を終え、翔太が歯磨きへ向かう。
幸一は翔太の通園バッグを開き、洗濯した体操服をたたみながら妻の春へ声を掛けた。
「今の保育園って、跳び箱もするんだな。」
春は食器を片づける手を止めずに答えた。
「どこでもじゃないけど、するところはあるみたいよ。」
「危ないから、もうやらないものだと思ってた。」
「そうだよね。でも、運動に力を入れている園はするみたい。うちの保育園もその一つなんじゃないかな。」
「そうか……。」
幸一は体操服をバッグへ入れながら、うなずいた。
昼間の翔太の言葉がよみがえる。
――ぼくだけ飛べない。
その一言が胸から離れない。
「家で練習できたらいいんだけどな。」
そうつぶやくと、幸一は部屋の真ん中にあったクッションを二枚重ねた。
「翔太。おいで」
歯磨きを終えた翔太が顔を出す。
「ちょっと、この上を飛んでみるか。」
翔太は座布団を見ると、首を横に振った。
「んー、やめとく。怖いから。」
幸一は無理に笑った。
「大丈夫、大丈夫。」
「ほんの少し跳ぶだけだから。」
翔太は一歩も近づかなかった。
その様子を見ていた春が口を開く。
「こういうのは、家でするのはやめたほうがいいと思うよ。」
「え?」
「跳び箱って、ちゃんと補助する人がいないと危ないから。」
「それに怖いまま跳ばせても、もっと苦手になるかもしれない。」
幸一は黙って座布団を見下ろした。
「……そうか。」
春は翔太の頭をそっとなでた。
「今日はもうおしまい。」
「また先生たちが教えてくれるから、大丈夫。」
翔太は軽くうなずいた。
幸一は重ねた座布団を元の場所へ戻した。
何かしてあげたかった。
けれど、何をすればいいのか分からない。
その夜。
布団へ入ると、翔太はいつものように幸一の腕へ顔を寄せてきた。
「おやすみ、パパ。」
「おやすみ。」
部屋の明かりが消える。
静かな寝息が聞こえ始めても、幸一だけはなかなか眠れなかった。
昼間の翔太の寂しそうな横顔。
飛ぶことを怖がった姿。
そして「ぼくもバッタになれたらいいのにな。」
あの言葉だけが、何度も胸の中で繰り返されていた。




