僕もバッタになれたら
あの不思議な出来事から、いくつかの週末が過ぎた。
あれ以来、幸一は「また今度」と約束を先延ばしにすることはなくなった。
休みの日になると、翔太と二人で虫取りへ出かける。
草むらを歩きながらチョウを追いかけたり、トンボを探したりしてどちらが先に見つけられるか競争をするのも、いつの間にか親子の恒例になっていた。
「パパ!こっち、なんかいる!」
少し離れた草むらから、翔太が手を振る。
幸一は笑いながら近づいた。
「どれどれ。」
しゃがみ込むと、葉っぱの陰に小さなショウリョウバッタが一匹、じっと身を潜めていた。
「おっ見つけたな。」
「うん!」
翔太はうれしそうに目を細める。
小さなバッタが葉っぱを渡っていく様子を、親子で並んで眺める。
その姿を見ながら、幸一はふと思った。
(やっぱり……あれは夢だったのかな。)
数週間前、自分はバッタになった。
そう思うには、あまりにも出来事が鮮明すぎた。
ネズミから逃げ、カマキリに追われ、雨に震え、鳥から必死に逃げた。
それでも、人がバッタになるなんて、信じられるはずがなかった。
今となっては、長い夢を見ていただけだったようにも思える。
それでも、ときどき草むらへ来ると、胸の奥がざわつく。
ススキを見るたび、あのあまい味まで思い出せそうになるのだ。
「ねえ、パパ。」
翔太が草を見つめたまま、没そっと言った。
「ん?」
「ぼくも、バッタになれたらいいのにな。」
幸一の心臓がどくんと鳴った。
「え?」
思わず聞き返す。
翔太は草を一本抜きながら続けた。
「バッタだったら、のんびり草を食べてるだけでいいでしょ。それに高くも飛べるし」
幸一は苦笑いを浮かべた。
「いやいや。バッタもバッタで大変なんだぞ。」
「そうなの?」
「ああ。」
幸一は笑いながら指を折る。
「すぐお腹減るから毎日ご飯を探さないといけないし、ネズミやカマキリに食べられそうになるし、雨が降ったら大騒ぎだ。」
「それに――。」
少し考えてから付け加えた。
「バッタには保育園もない。」
翔太はうつむき、草をちぎり始める。
「ぼく、あんまり保育園行きたくないんだ。」
その声は、風に消えそうなくらい小さかった。
幸一は驚いて翔太を見た。
「どうした?先生に怒られた?」
翔太は黙ったまま首を振る。
「お友達とけんかしたか?」
翔太はもう一度、小さく首を振った。
しばらく沈黙が続いた。
セミの鳴き声だけが、夏の空へ響いている。
やがて翔太は、足元の草を目をやったままつぶやいた。
「……跳び箱。ぼくだけ飛べないんだ。」
幸一は黙って耳を傾けた。
「みんな三段飛べるし。けんちゃんなんて五段も飛べるけど。」
翔太は草を一本抜いては捨て、また一本抜いた。
「ぼくだけ飛べないから……保育園行きたくない。」
胸の奥にしまい込んでいたものが、一つずつこぼれていくようだった。
幸一は翔太の肩をそっと抱いた。
「翔太はまだ小さいんだから、大丈夫。」
「練習すれば、きっと飛べるようになるよ。」
そう言ってみた。
けれど、その言葉が翔太の心に届いていないことは、すぐに分かった。
翔太は返事をしなかった。
ただ、遠くで跳ねる一匹のショウリョウバッタを、ぼんやりながめていた。
その日は、それ以上虫を探すことはなく、虫かごは最後まで空っぽだった。
帰り道も、翔太はほとんど話さなかった。
幸一も何を言えばいいのか分からず、ただ隣を歩いた。
夕暮れの風が草を揺らし、小さなバッタが一斉に跳ねる。
その姿を見つめながら、幸一の胸には、言いようのない気持ちだけが残っていた。
──あのとき、どんな言葉をかけてやればよかったのだろう。
その答えは、まだ見つからなかった。




