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バッタになった父  作者: 南 春


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12/13

僕は飛ぶ


 気がつくと、翔太は草むらの中にいた。


そんなつもりじゃなかった。


パパがケースを開けてくれた瞬間、体が勝手に跳ねたのだ。


止まろうと思っても止まれなかった。


気づいたときには、もうパパの姿は遠くにあった。


「パパ……。」


翔太は振り返り、そこに広がる景色に言葉を失った。


いつもの草むらだったはずなのに、今はまるで別の世界だった。


背の高いススキが空まで伸び、一本一本の葉は大きな木の枝のように揺れている。


地面には折り重なるように草が生え、その隙間は暗く、まるで森の中に迷い込んだようだった。


ただ、人間だった頃と一つだけ違うことがあった。


目の前にある草が、どれもおいしそうに見えたのだ。


風に揺れるススキを見るだけで、お腹がきゅっと鳴る。


葉っぱの匂いをかいだだけで、よだれが出そうになる。


花の上では、ミツバチがぶんぶんと羽音を響かせながら飛び回っていた。


葉っぱの裏からは、ダンゴムシがのそのそと顔を出す。


赤いてんとう虫が羽を広げると、小さな体がふわりと宙に浮かんだ。


「虫って、こんなふうに暮らしていたんだ……。」


翔太はしばらく見とれていたが、やっぱり空腹には耐えられない。


「お腹……すいた。」


 さっきまであんなにパパのところへ戻りたかった。


 なのに今は、それより先に何か食べたいという気持ちが、どんどん大きくなっていく。


 翔太は恐る恐るススキの葉をかじった。


 シャクッ。


 口いっぱいに甘い汁が広がる。


「おいしい……。」



 夢中になって、頬張った。さっきパパが撮ってくれたススキと同じではあったが、生えてる生のススキはなんとも言えない風味だった。


 食べれば食べるほど、お腹だけでなく体中に力が戻ってくる気がした。


そのときだった。


 夢中でススキを食べていると、足元がぶるっと震えた。


 (地震かな?)


 翔太は辺りを見回す。


 しかし、揺れは一度で終わらなかった。


 ドスッ。


 ドスッ。



 何かが歩くたびに、地面が震えている。


 翔太は息をのんだ。


 草が大きく左右へ開き、その奥から巨大な影がゆっくりと姿を現した。


 緑色のごつごつした体。ぎょろりと光る目。


 長い尻尾をゆっくりと左右へ振りながら、地面を這うように近づいてくる。


 翔太は息をのんだ。


 まるで恐竜のようだ。


 図鑑で見た恐竜よりずっと小さいはずなのに、今の翔太には山のように大きく見えた。

 その黒い目が、ぴたりと翔太をとらえる。


 次の瞬間、恐竜は勢いよく地面を蹴った。


「ひっ……!」


 翔太の体は考えるより先に動いていた。


 草から草へ、葉から葉へと夢中で逃げる。


 けれど、思うように前へ進めない。


(なんで……。)


 翔太は走るのが得意だった。


 幼稚園でも、鬼ごっこなら誰にも負けない自信がある。


 まっすぐ走れば、きっと逃げ切れる。


 そう思うのに、体は言うことを聞かなかった。


 一歩踏み出そうとするたび、大きく宙へ跳ね上がり、着地するとまた跳ねる。


 まるで自分の体ではないようだった。


 その間にも、後ろから地面を踏み鳴らす音は少しずつ近づいてくる。


 草の中では何とか姿を隠しながら逃げられたが、その先で景色がぱっと開けた。


 背の高い草は途切れ、目の前には土だけの地面が広がっている。


 隠れる場所はどこにもない。


 跳ぶたびに自分の姿があらわになり、恐竜との距離はみるみる縮まっていった。


そのときだった。


「翔太ー!」


 遠くから、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。


 聞き間違えるはずがない。


 パパだ。


 翔太は触角をぴくりと動かした。


 草むらの向こうで、幸一が必死に辺りを見回しながら、自分の名を呼び続けている。


「パパ!」


 翔太は声の限りに叫んだ。


 けれど、自分の口から聞こえたのは、かすかな羽音のような小さな声だけだった。


「パパ!ここだよ!」


 もう一度叫ぶ。


幸一には届いていない。


翔太は夢中で跳ね続けた。


その先で、ぴたりと足が止まる。


目の前には高い縁石が立ちはだかっていた。


振り返ると、恐竜は草をかき分けながら、もうすぐそこまで迫っている。


前へ行くしかない。


けれど今の翔太には、その縁石は切り立った崖のように見えた。


幼稚園の跳び箱に、そっくりだった。


 怖くて、何度も手前で止まってしまった。


 こんなの飛べないよ――。


 後ろでは草をかき分ける音が、もうすぐそこまで迫っていた。


 振り返ると、恐竜が大きく口を開けている。


 迷っている時間はない。


 翔太は力いっぱい地面を蹴った。


 小さな体が、高く宙へ舞う。


 必死に前足を伸ばし、縁石の向こうへ転がり落ちた。


「はぁ……はぁ……。飛べたぁ」


 助かった、そう思った。


 だが、その安心は一瞬だった。


 ガリッ。


 鋭い爪が縁石をつかむ音がした。


 翔太は振り返る。


 恐竜が縁石によじ登ってくる。


 長い爪を引っかけ、大きな体を持ち上げると、そのまま軽々と縁石を乗り越えてきた。


「うそ……。」


 翔太の体から力が抜けた。もう逃げられない。

 

「翔太!こっちだ」


 顔を上げると、少し先にパパが立っていた。


 必死に手を伸ばし、翔太から目を離さなかった。


「パパ!助けて」


 翔太は声を振り絞る。


 しかし、その声は小さすぎて届かない。


 恐竜はもう目の前まで迫っていた。


 パパが叫ぶ。


「翔太!飛べー!」


「大丈夫だ!パパが受け止める!」


 両腕が大きく広がる。


 その姿を見た瞬間、翔太の中から恐怖が少しだけ消えた。


(パパなら……。)


(パパなら、絶対に受け止めてくれる。)


 翔太は力いっぱい地面を蹴った。


 小さな体が宙へ舞う。


 恐竜は大きく口を開け、翔太へ飛びかかった。


「翔太!飛び込めー!」


 幸一の叫びが響く。


 翔太は大きく息を吸った。


 怖い。怖くてたまらない。それでも、振り返らなかった。


 翔太は力いっぱい地面を蹴った。


 後ろ足がぴーんと伸び、小さな体が宙へ舞う。


「パパ!」


 涙があふれ、その涙の粒が陽の光を受け、七色の虹のように見えた。


 翔太はそのまま幸一の胸へ飛び込んだ。

 


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