僕は飛ぶ
気がつくと、翔太は草むらの中にいた。
そんなつもりじゃなかった。
パパがケースを開けてくれた瞬間、体が勝手に跳ねたのだ。
止まろうと思っても止まれなかった。
気づいたときには、もうパパの姿は遠くにあった。
「パパ……。」
翔太は振り返り、そこに広がる景色に言葉を失った。
いつもの草むらだったはずなのに、今はまるで別の世界だった。
背の高いススキが空まで伸び、一本一本の葉は大きな木の枝のように揺れている。
地面には折り重なるように草が生え、その隙間は暗く、まるで森の中に迷い込んだようだった。
ただ、人間だった頃と一つだけ違うことがあった。
目の前にある草が、どれもおいしそうに見えたのだ。
風に揺れるススキを見るだけで、お腹がきゅっと鳴る。
葉っぱの匂いをかいだだけで、よだれが出そうになる。
花の上では、ミツバチがぶんぶんと羽音を響かせながら飛び回っていた。
葉っぱの裏からは、ダンゴムシがのそのそと顔を出す。
赤いてんとう虫が羽を広げると、小さな体がふわりと宙に浮かんだ。
「虫って、こんなふうに暮らしていたんだ……。」
翔太はしばらく見とれていたが、やっぱり空腹には耐えられない。
「お腹……すいた。」
さっきまであんなにパパのところへ戻りたかった。
なのに今は、それより先に何か食べたいという気持ちが、どんどん大きくなっていく。
翔太は恐る恐るススキの葉をかじった。
シャクッ。
口いっぱいに甘い汁が広がる。
「おいしい……。」
夢中になって、頬張った。さっきパパが撮ってくれたススキと同じではあったが、生えてる生のススキはなんとも言えない風味だった。
食べれば食べるほど、お腹だけでなく体中に力が戻ってくる気がした。
そのときだった。
夢中でススキを食べていると、足元がぶるっと震えた。
(地震かな?)
翔太は辺りを見回す。
しかし、揺れは一度で終わらなかった。
ドスッ。
ドスッ。
何かが歩くたびに、地面が震えている。
翔太は息をのんだ。
草が大きく左右へ開き、その奥から巨大な影がゆっくりと姿を現した。
緑色のごつごつした体。ぎょろりと光る目。
長い尻尾をゆっくりと左右へ振りながら、地面を這うように近づいてくる。
翔太は息をのんだ。
まるで恐竜のようだ。
図鑑で見た恐竜よりずっと小さいはずなのに、今の翔太には山のように大きく見えた。
その黒い目が、ぴたりと翔太をとらえる。
次の瞬間、恐竜は勢いよく地面を蹴った。
「ひっ……!」
翔太の体は考えるより先に動いていた。
草から草へ、葉から葉へと夢中で逃げる。
けれど、思うように前へ進めない。
(なんで……。)
翔太は走るのが得意だった。
幼稚園でも、鬼ごっこなら誰にも負けない自信がある。
まっすぐ走れば、きっと逃げ切れる。
そう思うのに、体は言うことを聞かなかった。
一歩踏み出そうとするたび、大きく宙へ跳ね上がり、着地するとまた跳ねる。
まるで自分の体ではないようだった。
その間にも、後ろから地面を踏み鳴らす音は少しずつ近づいてくる。
草の中では何とか姿を隠しながら逃げられたが、その先で景色がぱっと開けた。
背の高い草は途切れ、目の前には土だけの地面が広がっている。
隠れる場所はどこにもない。
跳ぶたびに自分の姿があらわになり、恐竜との距離はみるみる縮まっていった。
そのときだった。
「翔太ー!」
遠くから、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。
聞き間違えるはずがない。
パパだ。
翔太は触角をぴくりと動かした。
草むらの向こうで、幸一が必死に辺りを見回しながら、自分の名を呼び続けている。
「パパ!」
翔太は声の限りに叫んだ。
けれど、自分の口から聞こえたのは、かすかな羽音のような小さな声だけだった。
「パパ!ここだよ!」
もう一度叫ぶ。
幸一には届いていない。
翔太は夢中で跳ね続けた。
その先で、ぴたりと足が止まる。
目の前には高い縁石が立ちはだかっていた。
振り返ると、恐竜は草をかき分けながら、もうすぐそこまで迫っている。
前へ行くしかない。
けれど今の翔太には、その縁石は切り立った崖のように見えた。
幼稚園の跳び箱に、そっくりだった。
怖くて、何度も手前で止まってしまった。
こんなの飛べないよ――。
後ろでは草をかき分ける音が、もうすぐそこまで迫っていた。
振り返ると、恐竜が大きく口を開けている。
迷っている時間はない。
翔太は力いっぱい地面を蹴った。
小さな体が、高く宙へ舞う。
必死に前足を伸ばし、縁石の向こうへ転がり落ちた。
「はぁ……はぁ……。飛べたぁ」
助かった、そう思った。
だが、その安心は一瞬だった。
ガリッ。
鋭い爪が縁石をつかむ音がした。
翔太は振り返る。
恐竜が縁石によじ登ってくる。
長い爪を引っかけ、大きな体を持ち上げると、そのまま軽々と縁石を乗り越えてきた。
「うそ……。」
翔太の体から力が抜けた。もう逃げられない。
「翔太!こっちだ」
顔を上げると、少し先にパパが立っていた。
必死に手を伸ばし、翔太から目を離さなかった。
「パパ!助けて」
翔太は声を振り絞る。
しかし、その声は小さすぎて届かない。
恐竜はもう目の前まで迫っていた。
パパが叫ぶ。
「翔太!飛べー!」
「大丈夫だ!パパが受け止める!」
両腕が大きく広がる。
その姿を見た瞬間、翔太の中から恐怖が少しだけ消えた。
(パパなら……。)
(パパなら、絶対に受け止めてくれる。)
翔太は力いっぱい地面を蹴った。
小さな体が宙へ舞う。
恐竜は大きく口を開け、翔太へ飛びかかった。
「翔太!飛び込めー!」
幸一の叫びが響く。
翔太は大きく息を吸った。
怖い。怖くてたまらない。それでも、振り返らなかった。
翔太は力いっぱい地面を蹴った。
後ろ足がぴーんと伸び、小さな体が宙へ舞う。
「パパ!」
涙があふれ、その涙の粒が陽の光を受け、七色の虹のように見えた。
翔太はそのまま幸一の胸へ飛び込んだ。




