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バッタになった父  作者: 南 春


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11/13

見失った翔太



「パパ……。」


 翔太の声は、さっきまでよりさらにかすれていた。


 幸一はケースを両手で包み込むように持ち上げると、耳をそっと近づけた。


「なんて言った?翔太、もう一回言ってごらん。」


 ケースの中で翔太が小さく触角を揺らす。


 何かを伝えようとしているのは分かる。


 けれど、聞こえてくるのは言葉ではなく、羽をこすり合わせる乾いた音ばかりだった。


 ギチ……。


 ギチ、ギチ……。


「翔太?どうした?話せなくなったのか」


 幸一は聞き取ろうと、ケースのふたをほんの少しだけ開けた。


 その瞬間だった。翔太は開いた隙間を見逃さず、一気に外へ飛び出した。


「あっ!翔太、待て!」


 幸一も慌てて追いかける。


 しかし、小さな体はススキの根元をすり抜けるように走り、次の瞬間には草むらの中へ消えてしまった。


 幸一は夢中で草をかき分けた。葉が腕を切り、土で靴が汚れる。そんなことはどうでもよかった。


「翔太!返事をしてくれ!」


 必死に呼びかける。


 だが返事はない。


 風が吹くたびにススキが揺れ、その音に混じって、あちらこちらからバッタが飛び跳ねる気配だけが伝わってくる。


 そのとき、一匹のトノサマバッタが幸一の目の前を跳ねた。


「翔太!こっちだよ」


 反射的に手を伸ばす。


 だが、そのバッタは何事もなかったようにさらに奥へ飛んでいった。


 違う。翔太じゃない。


 今度は右からもう一匹。さらに左からも。


 幸一は立ち止まった。

 

 よりによってこの草むらには、こんなにもたくさんのトノサマバッタがいるのか。


 目を凝らせば凝らすほど、草の隙間から次々と姿を現す。


どれも同じような大きさで、同じような緑色をしている。


人間だったら、誰一人見間違えることなどない。


草をかき分けるたび、一匹、また一匹とバッタが跳ね上がる。


そのたびに、希望はすぐ打ち砕かれた。


幸一は立ち尽くした。


この中から、たった一匹の翔太を探さなければならない。


 そんなことが本当にできるのだろうか。


「翔太!」


 声の限りに呼び続ける。


 また、目の前を一匹のトノサマバッタが跳ねた。


 思わず目で追う。


 しかし、その姿を見た瞬間、違うと分かった。


 また別の一匹が草の陰から飛び出す。


 これも違う。


 さらに奥でも、左右でも、小さな影が次々と跳ね回る。


 幸一は一匹一匹を目で追い続けた。


 どれも翔太ではない。


 理由は自分でも分からない。


 色が違うわけでも、大きさが違うわけでもない。


 それでも胸のどこかが、「違う」と教えてくれる。


 姿が変わっても、父親は我が子だけは見失わないものなのだろうか。


 そんなことを考える余裕もないまま、幸一は空を見上げた。


(まずい、このままじゃ本当に離れ離れになってしまう)


 (頼む!もう一度、自分がバッタになってもいい。)


 (だから翔太だけは……。あの過酷で不自由な世界から、元の姿に戻してください。)


 幸一は祈るように目を閉じた。


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