見失った翔太
「パパ……。」
翔太の声は、さっきまでよりさらにかすれていた。
幸一はケースを両手で包み込むように持ち上げると、耳をそっと近づけた。
「なんて言った?翔太、もう一回言ってごらん。」
ケースの中で翔太が小さく触角を揺らす。
何かを伝えようとしているのは分かる。
けれど、聞こえてくるのは言葉ではなく、羽をこすり合わせる乾いた音ばかりだった。
ギチ……。
ギチ、ギチ……。
「翔太?どうした?話せなくなったのか」
幸一は聞き取ろうと、ケースのふたをほんの少しだけ開けた。
その瞬間だった。翔太は開いた隙間を見逃さず、一気に外へ飛び出した。
「あっ!翔太、待て!」
幸一も慌てて追いかける。
しかし、小さな体はススキの根元をすり抜けるように走り、次の瞬間には草むらの中へ消えてしまった。
幸一は夢中で草をかき分けた。葉が腕を切り、土で靴が汚れる。そんなことはどうでもよかった。
「翔太!返事をしてくれ!」
必死に呼びかける。
だが返事はない。
風が吹くたびにススキが揺れ、その音に混じって、あちらこちらからバッタが飛び跳ねる気配だけが伝わってくる。
そのとき、一匹のトノサマバッタが幸一の目の前を跳ねた。
「翔太!こっちだよ」
反射的に手を伸ばす。
だが、そのバッタは何事もなかったようにさらに奥へ飛んでいった。
違う。翔太じゃない。
今度は右からもう一匹。さらに左からも。
幸一は立ち止まった。
よりによってこの草むらには、こんなにもたくさんのトノサマバッタがいるのか。
目を凝らせば凝らすほど、草の隙間から次々と姿を現す。
どれも同じような大きさで、同じような緑色をしている。
人間だったら、誰一人見間違えることなどない。
草をかき分けるたび、一匹、また一匹とバッタが跳ね上がる。
そのたびに、希望はすぐ打ち砕かれた。
幸一は立ち尽くした。
この中から、たった一匹の翔太を探さなければならない。
そんなことが本当にできるのだろうか。
「翔太!」
声の限りに呼び続ける。
また、目の前を一匹のトノサマバッタが跳ねた。
思わず目で追う。
しかし、その姿を見た瞬間、違うと分かった。
また別の一匹が草の陰から飛び出す。
これも違う。
さらに奥でも、左右でも、小さな影が次々と跳ね回る。
幸一は一匹一匹を目で追い続けた。
どれも翔太ではない。
理由は自分でも分からない。
色が違うわけでも、大きさが違うわけでもない。
それでも胸のどこかが、「違う」と教えてくれる。
姿が変わっても、父親は我が子だけは見失わないものなのだろうか。
そんなことを考える余裕もないまま、幸一は空を見上げた。
(まずい、このままじゃ本当に離れ離れになってしまう)
(頼む!もう一度、自分がバッタになってもいい。)
(だから翔太だけは……。あの過酷で不自由な世界から、元の姿に戻してください。)
幸一は祈るように目を閉じた。




