父だけが知っている世界
「……翔太なのか。」
幸一は震える声で尋ねた。
窓辺のトノサマバッタは、触角を揺らした。
「うん。パパ。」
「ぼく、バッタになっちゃったみたい。」
幸一はその場から動けなかった。
夢ではない。
翔太の声だった。
虫の鳴き声ではない。
自分には確かに翔太の言葉として聞こえている。
「どうして……。」
「わからない。」
翔太は少し申し訳なさそうに触角を下げた。
「でも、昨日バッタになりたいって言ったからかな。」
幸一の胸が締めつけられる。
昨日、翔太は確かにそう言った。
保育園へ行きたくない。
跳び箱を飛びたくない。
そして、「ぼくもバッタになれたらいいのにな。」
あの何気ない一言が頭をよぎる。
(まさか……。そんなことって)
幸一は自分の額を押さえた。
じゃあ、数週間前、自分は本当にバッタになったのか。
あれは夢だったのか。
もし夢だったのなら、翔太に同じことが起こるはずがない。
でも、夢ではなかったのなら――。
考えれば考えるほど、現実と夢の境目が分からなくなる。
「ねぇパパ。お腹すいた。」
翔太が弱々しく鳴いた。
その一言で、幸一は我に返った。
そうだ。
考えている場合じゃない。
翔太は今、バッタなのだ。
自分もバッタになったとき、目が覚めた瞬間から耐えられないほど腹が減っていた。
あの空腹を思えば、一刻も早く食べさせなければならない。
幸一は部屋を見回した。
棚の上に、小さな昆虫ケースが置いてある。
去年、クワガタを飼っていたときのものだった。
「翔太。悪いけど、少しだけそこへ入ってくれるか。」
「うん。分かった。」
翔太はぴょんと跳び上がると、自分からケースの中へ入った。
幸一はふたを閉める。
「すぐご飯食べさせてあげるからな。」
靴を履くと、そのまま家を飛び出した。
向かった先は、家のすぐ近くの空き地だった。
その空き地の端あたりに夏になるとススキが一面に伸びる一角があった。
風に揺れるみずみずしいススキを見て、幸一はほっとした。
(せっかくなら、おいしいススキを食べさせてやりたい。)
ここなら好きなだけ食べられる。
翔太も少しは元気になるだろう。
そう思いながら、幸一はケースのふたを開けた。
「翔太、ほら。食べてごらん。」
外へ出ようとする翔太を見下ろした、その瞬間だった。
(待てよ……。)
幸一の手が止まる。
目の前に広がる草むらは、青々とした葉が風に揺れ、どこまでも気持ちよさそうに見える。
けれど、その景色は見た目ほど穏やかな場所ではない。
幸一だけは知っていた。
小さな命は、この草むらでは決して安心して生きられないことを。
(ここで放したら……。)
一度跳ねてしまえば、もう翔太を見つけられないかもしれない。
それどころか、二度と会えなくなるかもしれない。
幸一はゆっくりとケースのふたを閉じた。
「ごめんな、翔太。」
「もう少しだけ、我慢してくれ。」
そう言うと、ススキを二、三本根元から抜き取り、ケースの中へそっと入れた。
「これなら、とりあえずお腹は満たせるはずだ。」
翔太はうれしそうに葉へしがみつくと、小さな口で夢中になってかじり始めた。
その様子を見て、幸一は胸をなで下ろした。
だが同時に、別の不安が膨らみ始めていた。
翔太は、このまま人間に戻れるのだろうか。
ケースの中へ入れたススキに、翔太はためらうことなくかじりついた。
シャリ、シャリと小さな音を立てながら、夢中で葉を食べている。
幸一はその様子をじっと眺めていた。
「おいしいか?」
翔太は口いっぱいにススキを頬張ったまま、こくりとうなずく。
「うん。すごくおいしい。」
「さっきまで、ススキなんて食べようと思ったこともなかったのに。」
そう言って首をかしげる。
「どうしてこんなにおいしいんだろう。」
幸一は数週間前を思い返した。
「それが、バッタだからなんだろうな。」
「え?」
「パパも同じだった。」
翔太は食べる手を止めた。
「パパも?なんで」
幸一はうなずく。
「実は、パパも一度だけバッタになったことがあるんだ。」
翔太は目を丸くした。
「えっ!本当に?」
「ああ。多分」
「最初は夢だと思ってた。でも、今の翔太を見てると……あれは夢じゃなかったのかもな。」
翔太はしばらく黙っていたが、おそるおそる尋ねた。
「じゃあ……。」
「パパはどうやって元に戻ったの?」
「ぼくも人に戻れる?」
幸一は答えようとして、言葉を飲み込んだ。
「戻れたのは確かなんだ。」
「でも……。何がきっかけで戻ったのか、それが思い出せない。」
翔太に尋ねられ、幸一はしばらく答えられなかった。
確かに、戻れたことは覚えている。
けれど、その方法が思い出せない。
まるで大事な一ページだけが抜け落ちた本を読んでいるようだった。
幸一は目を閉じ、数週間前の出来事をゆっくりと思い返した。
「あの日も、朝起きたら突然バッタになっていた。」
翔太はケースの中から、じっと父を見つめている。
「家を飛び出して、夢中で草を食べて。確かクローバーだった。」
幸一は苦笑いを浮かべる。
「最初に襲われたのはネズミだったな。人間のときはかわいいと思っていたのに、あのときは化け物みたいだったな。」
その光景を思い出したのか、肩が震えた。
「必死で逃げて助かったと思ったら、今度はカマキリだ。鎌を振り上げて向かってくる姿は、本当に怖かった。」
翔太は息をのむ。
「カマキリが襲ってくるの?食べるってこと?」
「ああ。バッタの世界は毎日が命懸けなんだ。」
幸一は静かにうなずいた。
「そのあと雨が降ってきた。人間なら少し濡れるだけの雨なのに、バッタの体では一粒一粒が重くて、流されそうになるくらいだった。」
「それに、一度体が冷えると動けなくなって、太陽で温めないといけないんだ」
そこで幸一は言葉を止めた。
記憶はそこまでは鮮明なのに、その先だけが霧に包まれている。
「それから……。」
幸一は眉間にしわを寄せた。
「確か、鳥に追われた。」
その瞬間、ぼんやりしていた景色が少しだけ輪郭を取り戻す。
「そうだ。鳥から逃げて、もう駄目だと思ったとき……。」
幸一は窓の外へ目を向けた。
「空に虹が見えた気がする。」
「気がする?ってどういこと」
「そこだけは、はっきり思い出せないんだ。」
幸一は首を振った。
「虹に向かって思い切り跳んだような気もするし、夢だったような気もする。」
翔太は少し考え込むように触角を揺らした。
「じゃあ、そのときと同じことが起これば……ぼくも元に戻れるのかな」
「どうだろうな」
幸一は考え込んだ。
「パパと同じことをすれば戻れるのか、それとも、ほかにきっかけがあるのか。パパにも分からないんだ」
「動物に襲われて、雨が降って、虹が出るなんて、同じことがもう一度起こるとは思えないしな」
翔太はケースの中で、話を聞きながらススキをかじっていた。
幸一はその姿を見つめながら、大きく息をつく。
思い出せたことはある。
けれど、それが本当に元へ戻る方法だったのかは分からない。
偶然だったのかもしれない。夢だったのかもしれない。
もう一度同じことをすれば、翔太が人間に戻れる保証など、どこにもなかった。
「大丈夫かな……。」
翔太が弱々しくつぶやく。
幸一は迷わず答えた。
「大丈夫だ。」
そう言ったものの、その言葉には何の根拠もなかった。
それでも父親は、不安をそのまま子どもに見せるわけにはいかない。
幸一はケースをそっと持ち上げ、翔太と目を合わせた。
「パパが必ず元に戻してやる。」
翔太は安心したように、うなずいた。
しかし、その返事はどこか弱々しかった。
「……うん。」
その声は、さっきより少しだけ虫の鳴き声に近づいているような気がした。
幸一は気づかないふりをした。
気づいてしまえば、それが現実になってしまう気がしたからだ。




