今日は飛ぶぞ
幸一は、何かに弾かれたように目を覚ました。
胸の奥では、まだ心臓が激しく打っている。慌てて体を起こして窓の外を見ると、カーテンの隙間から朝のやわらかな光が差し込んでいた。
まだ朝だった。
では、あれは夢だったのだろうか。
草むらを逃げる小さな翔太も、後ろから迫ってきたトカゲも、自分の胸へ向かって懸命に飛んできた姿も、すべて夢だったのかもしれない。
幸一は息をのみ、隣の布団へ目を向けた。
そこには、翔太がいた。
布団を半分蹴飛ばし、いつもと変わらない顔で眠っている。触角もなければ、細い後ろ足もない。見慣れた小さな手を頬の下に置き、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「バッタじゃない……よかった。」
声にした途端、全身から力が抜けた。
幸一は翔太の肩へ手を伸ばし、最初はそっと、やがて我慢できずに少し強く揺すった。
「翔太、起きろ。翔太。」
「んん……。」
翔太は眠そうに顔をしかめ、ゆっくりとまぶたを開いた。
「おはよう、パパ。」
幸一は返事もせず、翔太の顔から手足までを確かめるように眺めた。どう見ても、いつもの翔太だった。
「翔太、お前、バッタになってないよな。」
翔太はきょとんとした顔で幸一を見返した。ところが、すぐに眠気が吹き飛んだように目を大きく開いた。
「パパ、なんで分かるの?」
その言葉に、今度は幸一が目を見開いた。
「なんでって……。翔太もわかるのか?」
翔太は布団の上に座り直すと、夢の中を探るように首をかしげた。
「夢の中でぼく、バッタになったんだよね。草の中にいて、トカゲに追いかけられて……。すごく速くて、もう捕まると思った。」
話しているうちに怖さがよみがえったのか、翔太は自分の腕を両手で抱いた。
「それから、大きな段差があって、パパが飛べって言ったんだ。怖かったけど、パパの声が聞こえたら、なぜか飛べる気がした。」
「それで、パパのところまで飛んできたら目が覚めちゃった。」
二人はしばらく顔を見合わせた。
同じ夢を、二人で見たのだろうか。それとも、あれは本当に起きたことなのだろうか。
幸一は、ケースの中でススキを食べていた小さな翔太を思い出した。今でも、手を伸ばせば触れられそうなほど鮮明に覚えている。
「それは、夢じゃなかったのかもな。」
幸一が真剣に言うと、翔太は少し考えたあと、照れくさそうに笑った。
「夢だよ。人がバッタになるわけないもん。」
「そうか?」
「そうだよ。」
幸一は翔太の頭へ目を向け、わざと驚いた顔をした。
「でも翔太、まだ頭に触角が生えてるぞ。」
「えっ!」
翔太は慌てて両手で頭を触り、髪を何度もかき分けた。
「どこ? どこにあるの?」
必死になって探す姿に耐えられなくなり、幸一は吹き出した。
「ごめん、ごめん。うそだよ。」
「もう!」
翔太は頬をふくらませ、幸一の腕を軽くたたいた。
その表情も、声も、ぬくもりも、間違いなくいつもの翔太だった。幸一は笑いながら、その小さな体を引き寄せた。
「本当に、よかった。」
「苦しいよ、パパ。」
翔太が体をよじったので、幸一はようやく腕を緩めた。
すると翔太は、お腹を押さえながら言った。
「なんか、すごくお腹すいた。」
幸一の笑顔が一瞬だけ固まった。
ススキの葉を夢中でかじる姿が、頭の中によみがえる。
「ススキが食べたい、とか言わないよな。」
「えー、食べないよ。朝ご飯が食べたい。」
その答えに、幸一は胸をなで下ろした。
「よし。顔を洗って、ご飯にしよう。」
二人で布団を出て洗面所へ向かいかけたとき、幸一の視線が洗面台の前で止まった。
そこには、翔太が手を洗うときに使っている子ども用の足置き台があった。高さは四十センチほどしかなく、毎日何気なく上り下りしている小さな踏み台である。
幸一はしばらくそれを見つめたあと、翔太へ顔を向けた。
「なあ、翔太。」
「なに?」
「これ、飛んでみるか?」
翔太は、足置き台と幸一の顔を交互に見た。
「それ飛んでいいの?ママが家でやるのはダメよって言ってたけど」
「大丈夫、こっちでパパが受け止めるから。やってみるか。」
翔太の表情から笑みが消えた。足置き台をじっと見つめ、少しだけ唇をかむ。
幸一は無理に勧めるつもりはなかった。怖いなら、今日でなくてもいい。そう言おうとしたとき、翔太が真剣な顔でうなずいた。
「やってみる。飛んでみたい。」
二人は足置き台をリビングへ運んだ。
幸一が動かないようにしっかりと押さえ、翔太は少し離れた場所から踏み台を見据えた。
いつもは簡単に上っているだけの台なのに、飛び越えようと思った途端、急に大きな障害物になったように見えた。
翔太は何度か足踏みをしたものの、なかなか走り出せなかった。
「パパが押さえているから、絶対に動かない。」
幸一は足置き台の向こう側へ回り、腰を落として両腕を広げた。
「飛び越えたら、パパが受け止める。」
翔太は幸一の顔を見た。
「夢でも、パパがいたから飛べたんだよ。」
幸一は頷いた。
翔太はゆっくりと息を吸い込み、足置き台へ向き直った。
怖さが消えたわけではない。それでも、夢の中で自分が父親の胸へ向かって飛んだことを、確かに覚えていた。
「いくよ。」
「こい。」
翔太は勢いよく走り出した。
足置き台の直前で床を強く蹴り、両手を台の上へ置く。そのまま腕で体を支え、小さな足を左右へ大きく広げた。
ほんの一瞬、翔太の体が足置き台の上に浮かんだ。
次の瞬間、翔太は台を越え、待っていた幸一の胸へ飛び込んでいた。
幸一は勢いごと受け止め、二人でそのまま床へ座り込んだ。
翔太は自分でも信じられないような顔をしていたが、やがて大きな笑顔になった。
「飛べた!見たー?」
「ああ、飛べてたぞ。」
「ぼく、本当に飛べた!」
翔太は立ち上がると、足置き台を振り返った。つい先ほどまで大きく見えていた台が、今はいつもの小さな踏み台に戻っている。
「これなら、今日の跳び箱も飛べるかもしれないな。」
幸一が言うと、翔太はしばらく黙っていた。
「跳び箱は、これより高いよ。」
「ああ。」
幸一はうなずき、翔太の頭へ手を置いた。
「でも、怖くても前へ飛べたことは、もう翔太が一番よく知っている。」
翔太はもう一度、足置き台を見つめた。
跳び箱と踏み台では、高さも形も違う。保育園では友達も見ているし、失敗したら恥ずかしいと思うかもしれない。
それでも、飛ぶ前に感じる怖さは同じだった。
怖くても足を踏み出し、後ろではなく前へ体を投げ出す。昨日の翔太はそれができた。そして今、人間の姿でも、もう一度飛ぶことができた。
「今日、頑張ってみる。」
翔太が力強く言った。
「飛べるかどうかは分からないけど、やってみる。」
幸一は笑顔でうなずいた。
「その意気だ。頑張れ。」
二人は急いで顔を洗い、朝ご飯を口いっぱいに詰め込んだ。翔太はいつもより食べるのが速く、幸一に何度も「よくかんで食べろ」と注意された。
支度を終えて玄関へ向かうと、翔太は自分で靴を履き、勢いよく扉を開けた。
外には、まぶしい朝の光が広がっていた。
翔太は空を見上げ、大きく息を吸い込む。
「今日は飛ぶぞー!」
その声は、家の前の道を越え、青い空へ吸い込まれていった。
幸一も翔太の隣へ並び、同じ空を見上げた。
「おう、飛んでこい。」
翔太は元気よく走り出した。
その背中を追いかけながら、幸一は思った。
跳び箱を飛べるかどうかは、まだ分からない。
けれど、翔太はもう、怖いから逃げるためにバッタになりたいとは思っていない。
怖くても、自分の足で前へ跳ぼうとしている。
それは、小さなジャンプかもしれない。けれど、その一跳びは、翔太の未来へ確かに続いていた。




