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バッタになった父  作者: 南 春


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13/13

今日は飛ぶぞ


 幸一は、何かに弾かれたように目を覚ました。


 胸の奥では、まだ心臓が激しく打っている。慌てて体を起こして窓の外を見ると、カーテンの隙間から朝のやわらかな光が差し込んでいた。


 まだ朝だった。


 では、あれは夢だったのだろうか。


 草むらを逃げる小さな翔太も、後ろから迫ってきたトカゲも、自分の胸へ向かって懸命に飛んできた姿も、すべて夢だったのかもしれない。


 幸一は息をのみ、隣の布団へ目を向けた。


 そこには、翔太がいた。


 布団を半分蹴飛ばし、いつもと変わらない顔で眠っている。触角もなければ、細い後ろ足もない。見慣れた小さな手を頬の下に置き、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「バッタじゃない……よかった。」


 声にした途端、全身から力が抜けた。


 幸一は翔太の肩へ手を伸ばし、最初はそっと、やがて我慢できずに少し強く揺すった。


「翔太、起きろ。翔太。」


「んん……。」


 翔太は眠そうに顔をしかめ、ゆっくりとまぶたを開いた。


「おはよう、パパ。」


 幸一は返事もせず、翔太の顔から手足までを確かめるように眺めた。どう見ても、いつもの翔太だった。


「翔太、お前、バッタになってないよな。」


 翔太はきょとんとした顔で幸一を見返した。ところが、すぐに眠気が吹き飛んだように目を大きく開いた。


「パパ、なんで分かるの?」


 その言葉に、今度は幸一が目を見開いた。


「なんでって……。翔太もわかるのか?」


 翔太は布団の上に座り直すと、夢の中を探るように首をかしげた。


「夢の中でぼく、バッタになったんだよね。草の中にいて、トカゲに追いかけられて……。すごく速くて、もう捕まると思った。」


 話しているうちに怖さがよみがえったのか、翔太は自分の腕を両手で抱いた。


「それから、大きな段差があって、パパが飛べって言ったんだ。怖かったけど、パパの声が聞こえたら、なぜか飛べる気がした。」


「それで、パパのところまで飛んできたら目が覚めちゃった。」


 二人はしばらく顔を見合わせた。


 同じ夢を、二人で見たのだろうか。それとも、あれは本当に起きたことなのだろうか。


 幸一は、ケースの中でススキを食べていた小さな翔太を思い出した。今でも、手を伸ばせば触れられそうなほど鮮明に覚えている。


「それは、夢じゃなかったのかもな。」


 幸一が真剣に言うと、翔太は少し考えたあと、照れくさそうに笑った。


「夢だよ。人がバッタになるわけないもん。」


「そうか?」


「そうだよ。」


 幸一は翔太の頭へ目を向け、わざと驚いた顔をした。


「でも翔太、まだ頭に触角が生えてるぞ。」


「えっ!」


 翔太は慌てて両手で頭を触り、髪を何度もかき分けた。


「どこ? どこにあるの?」


 必死になって探す姿に耐えられなくなり、幸一は吹き出した。


「ごめん、ごめん。うそだよ。」


「もう!」


 翔太は頬をふくらませ、幸一の腕を軽くたたいた。


 その表情も、声も、ぬくもりも、間違いなくいつもの翔太だった。幸一は笑いながら、その小さな体を引き寄せた。


「本当に、よかった。」


「苦しいよ、パパ。」


 翔太が体をよじったので、幸一はようやく腕を緩めた。


 すると翔太は、お腹を押さえながら言った。


「なんか、すごくお腹すいた。」


 幸一の笑顔が一瞬だけ固まった。


 ススキの葉を夢中でかじる姿が、頭の中によみがえる。


「ススキが食べたい、とか言わないよな。」


「えー、食べないよ。朝ご飯が食べたい。」


 その答えに、幸一は胸をなで下ろした。


「よし。顔を洗って、ご飯にしよう。」


 二人で布団を出て洗面所へ向かいかけたとき、幸一の視線が洗面台の前で止まった。


 そこには、翔太が手を洗うときに使っている子ども用の足置き台があった。高さは四十センチほどしかなく、毎日何気なく上り下りしている小さな踏み台である。


 幸一はしばらくそれを見つめたあと、翔太へ顔を向けた。


「なあ、翔太。」


「なに?」


「これ、飛んでみるか?」


 翔太は、足置き台と幸一の顔を交互に見た。


「それ飛んでいいの?ママが家でやるのはダメよって言ってたけど」


「大丈夫、こっちでパパが受け止めるから。やってみるか。」


 翔太の表情から笑みが消えた。足置き台をじっと見つめ、少しだけ唇をかむ。


 幸一は無理に勧めるつもりはなかった。怖いなら、今日でなくてもいい。そう言おうとしたとき、翔太が真剣な顔でうなずいた。


「やってみる。飛んでみたい。」


 二人は足置き台をリビングへ運んだ。


 幸一が動かないようにしっかりと押さえ、翔太は少し離れた場所から踏み台を見据えた。


いつもは簡単に上っているだけの台なのに、飛び越えようと思った途端、急に大きな障害物になったように見えた。


 翔太は何度か足踏みをしたものの、なかなか走り出せなかった。


「パパが押さえているから、絶対に動かない。」


 幸一は足置き台の向こう側へ回り、腰を落として両腕を広げた。


「飛び越えたら、パパが受け止める。」


 翔太は幸一の顔を見た。


「夢でも、パパがいたから飛べたんだよ。」


幸一は頷いた。


 翔太はゆっくりと息を吸い込み、足置き台へ向き直った。


怖さが消えたわけではない。それでも、夢の中で自分が父親の胸へ向かって飛んだことを、確かに覚えていた。


「いくよ。」


「こい。」


 翔太は勢いよく走り出した。


 足置き台の直前で床を強く蹴り、両手を台の上へ置く。そのまま腕で体を支え、小さな足を左右へ大きく広げた。


 ほんの一瞬、翔太の体が足置き台の上に浮かんだ。


 次の瞬間、翔太は台を越え、待っていた幸一の胸へ飛び込んでいた。


 幸一は勢いごと受け止め、二人でそのまま床へ座り込んだ。


 翔太は自分でも信じられないような顔をしていたが、やがて大きな笑顔になった。


「飛べた!見たー?」


「ああ、飛べてたぞ。」


「ぼく、本当に飛べた!」


 翔太は立ち上がると、足置き台を振り返った。つい先ほどまで大きく見えていた台が、今はいつもの小さな踏み台に戻っている。


「これなら、今日の跳び箱も飛べるかもしれないな。」


 幸一が言うと、翔太はしばらく黙っていた。


「跳び箱は、これより高いよ。」


「ああ。」


 幸一はうなずき、翔太の頭へ手を置いた。


「でも、怖くても前へ飛べたことは、もう翔太が一番よく知っている。」


 翔太はもう一度、足置き台を見つめた。


 跳び箱と踏み台では、高さも形も違う。保育園では友達も見ているし、失敗したら恥ずかしいと思うかもしれない。


 それでも、飛ぶ前に感じる怖さは同じだった。


 怖くても足を踏み出し、後ろではなく前へ体を投げ出す。昨日の翔太はそれができた。そして今、人間の姿でも、もう一度飛ぶことができた。


「今日、頑張ってみる。」


 翔太が力強く言った。


「飛べるかどうかは分からないけど、やってみる。」


 幸一は笑顔でうなずいた。


「その意気だ。頑張れ。」


 二人は急いで顔を洗い、朝ご飯を口いっぱいに詰め込んだ。翔太はいつもより食べるのが速く、幸一に何度も「よくかんで食べろ」と注意された。


 支度を終えて玄関へ向かうと、翔太は自分で靴を履き、勢いよく扉を開けた。


 外には、まぶしい朝の光が広がっていた。


 翔太は空を見上げ、大きく息を吸い込む。


「今日は飛ぶぞー!」


 その声は、家の前の道を越え、青い空へ吸い込まれていった。


 幸一も翔太の隣へ並び、同じ空を見上げた。


「おう、飛んでこい。」


 翔太は元気よく走り出した。


 その背中を追いかけながら、幸一は思った。


 跳び箱を飛べるかどうかは、まだ分からない。


 けれど、翔太はもう、怖いから逃げるためにバッタになりたいとは思っていない。


怖くても、自分の足で前へ跳ぼうとしている。


それは、小さなジャンプかもしれない。けれど、その一跳びは、翔太の未来へ確かに続いていた。


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