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第八話 前線の斥候

倒れていたのは、三人だった。


二人は、もう動かない。水に顔を伏せ、鎧の隙間から赤いものが流れている。残る一人が、折れた槍を杖代わりにして後ずさっていた。


その前には――水でできた狼が、四体。


「伏せろ!」


叫ぶと、兵士は反射的に地面へ身を投げた。


俺の剣が頭上を抜け、水狼の一体を両断する。身体は崩れて水に戻ったが、すぐに別の形へ集まり始めた。


斬っても、死なない。


「核があります」


ウトリの声。


「胸部中央の青い結晶を破壊してください」


剣の軌道を低くし、二体目の胸へ突き込む。硬い感触。結晶が砕けると、今度こそ水狼は崩れた。


残る二体が左右から飛びかかる。一本では間に合わない。


俺は左へ転がって一体を避けた。もう一体の牙が腕に食い込む寸前――折れた槍が、横から突き出された。


兵士だ。


槍先が水狼の身体を貫き、一瞬だけ動きを止める。


「今です、勇者様!」


言われるまでもない。


剣を呼び戻し、結晶を二つ続けて砕いた。


水面が、静かになった。


 


残った兵士は、自分より先に倒れた二人のもとへ這っていった。


一人の首元へ指を当て、もう一人の胸へ耳を寄せる。結果は、見れば分かった。それでも彼は、一人ずつ確認した。


「隊長。……オルド隊長。起きてください」


返事はない。


次は、弓を握った女だった。濡れた髪が頬に張りつき、指先には弦を引き続けた跡が残っていた。


「サナ」


兵士の声が、途中で潰れた。


俺は、何を言えばいいか分からなかった。


「……悪い」


意味のない言葉だと自分でも思う。俺が殺したわけじゃない。もっと早く来られたかも分からない。それでも、目の前で誰かが二人を失ったとき、黙っていることのほうが残酷に思えた。


兵士は袖で顔を拭いた。


「勇者様が謝ることじゃありません」


「信号は見えてたのに、遅れた」


「――来てくれました」


彼はサナの弓を拾って弦を外し、隊長の胸から小さな円環章を取って、二人分を自分の首に下げた。


「遺体を、置いていくのか」


「持っては走れません」


「回収隊は?」


「来られれば」


来られない可能性のほうが高い言い方だった。


俺は二本の剣で水辺の土を掘った。廻転させれば速い。兵士が止めようとしたが、続けた。浅い窪みに二人を寝かせ、石を積む。土葬と呼べるほどのものじゃない。それでも、顔に泥水が流れ込まないようには、できた。


兵士は、折れた弓を墓標代わりに立てた。


「隊長は、勇者が来れば全部変わるって言ってました」


「……俺を知ってたのか?」


「顔は知りません。『何度死んでも戻る、魔王を倒す人が来る』って」


「顔を知らない英雄を待ってたのか」


「顔があったら、死んだとき困るでしょう」


冗談では、なかった。


「勇者は一人じゃないのか?」


「歴代勇者様がいるって話は聞きます。けど、前線じゃ全員『勇者様』です」


「名前で呼ばれないのか」


「異世界の名前は難しいからって」


胸の奥に、小さな違和感が刺さった。


――俺には、その「難しい名前」すら残っていないんだが。


 


兵士は立ち上がろうとして、右脚を押さえて崩れた。鎧を外すと、膝の下が大きく腫れている。


「名前は?」


「リオル・セインです。第三水路斥候隊」


「リオル」


声に出して呼ぶ。


名前があるというだけで、その人間がこの世界に固定されるような気がした。


「勇者様のお名前は?」


「ない」


「まさか」


「記憶がなくて、記録にもないらしい」


「じゃあ、俺がつけましょうか」


「急だな」


「助けてもらった礼に」


「お前、命名の才能はあるのか」


「村で飼ってた犬は、茶色かったからチャイロでした」


「断る」


リオルは初めて笑った。死者のすぐ隣で笑ったことに罪悪感が湧いたのか、すぐ口元を押さえる。


「すみません」


「二人は、笑うなって怒る人だったか?」


「隊長は怒ります。サナは、もっと笑わせにきます」


「じゃあ、少しならいい」


俺たちは墓標へ頭を下げた。


 


リオルは二人の装備を丁寧に並べた。


オルド隊長の短刀。サナの弓弦。それから、水に濡れた小さな笛。


「笛は、どっちのだ」


「サナです」


「弓兵なのに笛?」


「歌が下手だったので、せめて音程の出る道具を持てって隊長が」


「ひどいな」


「本人が一番笑ってました。夜営すると絶対に吹くんです。水鳥が逃げるくらい下手で」


「笛で下手ってあるのか」


「サナには、ありました」


リオルは笑った。今度は口元を隠さなかった。


笑い終えると、笛を墓標の間に置いた。


「オルド隊長は、右脚が悪かったんです」


「さっき走ってたぞ」


「昔の傷です。雨の日は痛むって。俺が行軍で弱音を吐くと、自分の脚を叩いて『こっちは文句を言わず動くぞ』って」


「文句を言えない脚を引き合いに出すなよ」


「でしょう? でも――隊長が死ぬ直前まで右側をかばって歩いてたの、俺、気づかなかった」


声が、また細くなった。


俺は何も言わず、右脚を水に踏み込んだ。地面の感触を確かめる。訓練でウトリに教わった、戻るための目印。


「オルド」


名前を呼ぶ。次に、笛を見る。


「サナ」


リオルも、二人の名を呼んだ。


少し離れた場所で、ウトリが言った。


「記録しますか」


「する。――階級じゃなく、名前で」


「オルド・バルク。第三水路斥候隊長。サナ・ウェル。第三水路斥候」


「死因だけじゃなくて、右脚と笛も」


「軍務記録には不要です」


「俺の記録には必要だ」


ウトリの記録板に、光の文字列が流れた。


「……追記しました」


リオルが不思議そうに俺を見る。


「勇者様は、死んだ人を全部覚えるつもりですか」


「できるだけ」


「何人いると思ってるんです」


「知らない」


「きっと無理ですよ」


「だから最初から覚えないのか?」


「そうじゃないですけど」


「じゃあ、無理になるまではやる」


リオルは墓へ視線を戻した。


「隊長も、似たことを言ってました。全部の部下を生きて帰すのは無理だ。でも、無理だからって人数で見るようになったら終わりだって」


「それで、お前を庇ったのか」


「俺を蹴飛ばして、自分が水狼に噛まれました」


「口より右脚が先に動いたんだな」


「――最後まで、文句を言わない脚でした」


今度の笑いには、涙が混ざっていた。


 


俺は袋から包帯を出し、リオルの膝に巻いた。


「勇者様の分は」


「俺は戻れば直るらしい」


「戻るって、死ぬってことですよね」


「作戦完了でも戻せるって聞いた」


「その言い方、嫌じゃないですか」


「どの言い方」


「『戻す』『回収する』。まるで人じゃなくて、投げた武器みたいだ」


胸の奥に、剣の軌道と同じ円が浮かんだ。


俺は、投げられた武器なのかもしれない。


それでも――どこを斬るかまで、他人に決められたくはなかった。


「リオル。俺が変なことを言い始めたら、教えてくれ」


「変なことなら、もう言ってます」


「そうじゃなくて。俺が、俺じゃないみたいになったら」


リオルは、冗談をやめた。


「……どうやって確かめます?」


「普通に話せば分かるだろ」


「普通って難しいですよ」


「じゃあ、飴の味でも聞け」


「何味です?」


「まだ食べてない」


「それじゃ確認にならない」


「次にもらったら覚えとく」


リオルは頷き、俺の右脚を軽く叩いた。


「あと、ここ。隊長の話を忘れてたら、蹴ります」


「怪我人に蹴られる勇者か」


「同じことを繰り返すなって意味です」


リオルは笛を墓標の間へ戻した。


風もないのに、一度だけ、小さな音が鳴った。


音程は確かに――少し、外れていた。


 


水精霊王の気配が近づくまでの短い時間、リオルは故郷の話をした。


下流の農村。母と妹。毎年水位が上がり、畑が減っていること。斥候に志願すれば、家族の移住権が得られること。


「魔王を倒せば、戻れると思ってたんです」


「家へ?」


「畑へ。水が引けば、また麦を植えられる」


俺には、戻る場所がない。


だから、戻りたい場所を持っている彼が、少しだけ羨ましかった。


「――必ず帰す」


つい、言ってしまった。


リオルは困ったような顔をした。


「勇者様って、会ったばかりの相手にもそういう約束をするんですか」


「覚えてない」


「じゃあ、今回からの悪い癖ですね」


「悪いのか?」


「守れなかったら、ご自分を責めるでしょう」


「守ればいい」


このときの俺は、本気でそう思っていた。


自分が死んでも戻れると、知ったばかりだったから。


約束というものが、この世界でどれほど高くつくか――まだ、何も知らなかったから。


ウトリは反対しなかった。ただ、俺たちの背後を見ながら言った。


「急いでください。水精霊王が、こちらを認識しました」


遠くで、水路が持ち上がった。


壁のような波が、ゆっくりと――俺たちのほうへ、向きを変えた。

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