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第七話 水の荒野

森を抜けると、空の色が変わった。


雲一つないはずなのに、世界全体が水の底に沈んだような青。地面には浅い水が広がり、最初の百歩で靴の中までずぶ濡れになった。


浅いところを選んでも、地面は柔らかく沈む。剣を低く廻して水を押し分けると、一時的に道ができた。通り過ぎれば、すぐ流れが戻る。


「ここ、昔からこんな場所なのか?」


「記録では、大部分が乾燥地帯でした」


「じゃあ、精霊が水害を起こしてるって話は、本当なんだな」


「人類圏へ流れ込む水量は、過去十年で約三倍に増加しています。下流の集落が、複数放棄されました」


ウトリの声に、迷いはなかった。


「――何人死んだ」


「確認できた範囲で、四千二百名以上」


数字を聞いた途端、足元の水が急に重くなった。


森で、逃げる妖精を見た。種を運ぶ姿も見た。だから精霊側にも暮らしがあるんだと、思い始めていた。


それでも、人類側に四千の死者がいる事実は消えない。


どっちかが嘘なら、楽だったのに。


「魔王が命じたのか?」


「精霊領の大規模な流路変更には、高位個体の承認が必要と考えられています」


「『考えられてる』、か」


「直接の命令記録は、ありません」


「じゃあ、勝手にやった精霊がいるかもしれない」


「可能性はあります」


「……人類側にも、勝手に精霊を襲ったやつがいるか?」


ウトリは、一拍だけ黙った。


「います」


明確な答えだった。


「罰したのか」


「戦時法により処分された者もいます。――功績として扱われた者も、います」


「同じことをして?」


「結果が人類に利益を与えたかどうかで、評価が分かれました」


「正しいかどうか、じゃなくて?」


「戦争中の制度は、多くの場合、そうなります」


彼女が制度を肯定しているのか、ただ説明しているだけなのか、分からなかった。ただ、都合の悪いことを全部隠すわけではないらしい。それだけは分かった。


 


道の脇に、沈んだ家々があった。


人間の建物だ。石の壁。鉄の蝶番。円環を刻んだ祈り板。二階の窓から藻が伸び、屋根の上を魚が泳いでいる。


一軒だけ、入口に名前が残っていた。


>ラウ村・共同倉庫


扉を開けると、水が胸まで溜まっていた。浮かんでいた木箱を剣で引き寄せる。


中身は、腐った穀物と――子ども用の、小さな靴だった。


「……避難は、できたのか」


「村民百八十二名のうち、避難確認百三十七名」


残りの数を、計算したくなかった。


壁には、水位を示す線が何本も刻まれていた。最初は床の近く。次は腰。最後は天井近く。


日付を見て、息が詰まった。数日しか離れていない。


一年ごとに上がったんじゃない。ここの住人は水が来ると知りながら、荷物をまとめる時間もないまま、飲み込まれたのだ。


「精霊の暮らしを見たからって、人類の被害が嘘になるわけじゃない」


「はい」


「……逆も、だな」


「はい」


俺は子どもの靴を、棚の上へ戻した。


 


倉庫の裏に、傾いた鐘楼があった。


鐘そのものは外され、太い綱だけが水に垂れている。柱には避難手順が刻まれていた。


>一度鳴れば、家畜を高地へ。

>二度鳴れば、子どもと老人を舟へ。

>三度鳴れば、すべてを捨てよ。


鐘がないのに、綱の表面だけは新しい。


「鐘は、誰かが持っていったのか?」


「人類軍が、金属資源として接収した記録があります」


「いつ」


「――水害の、二年前」


俺は刻まれた文字を見直した。


「警報を鳴らす鐘を、戦争のために溶かしたのか」


「当時は、水位上昇が予測されていませんでした」


「だから必要ないと思った」


「はい」


水害を起こしたのが精霊だとしても、被害を大きくしたのは人類側の判断だった。


原因が一つなら、怒りは簡単だ。


原因がいくつもあると――誰を斬ればいいのか、分からなくなる。


 


鐘楼の足元に、石を積んだ小さな墓が並んでいた。名前ではなく、道具の形が刻まれている。


鍬。針。杓子。小さな靴。


最後の墓だけ、円環章と、波の印が並んで刻まれていた。


「これは?」


「人類軍の工兵と、精霊側の水路守が、同じ場所へ埋葬されています」


「……一緒に?」


「洪水時、残った住民を高台へ逃がすため、共同で堤を切ったようです」


「敵同士だったんじゃないのか」


「記録上は」


墓石の裏に、短い文章があった。


>最後の夜、敵という呼び方は役に立たなかった。


俺は指で、文字の泥を落とした。


「この記録、人類側にも残ってるのか?」


「公式戦史には、ありません」


「どうして」


「工兵隊は命令なく精霊と協力し、軍用堤防を破壊しました。規定上――反逆行為です」


「百人以上を助けても?」


「結果は確認されています」


「それでも反逆者か」


「命令系統を維持する制度では、例外を英雄として扱うことが、危険になる場合があります」


「……俺は例外じゃないのか」


ウトリは俺を見た。


「あなたは、制度によって許可された例外です」


その言い方が、気に入らなかった。


誰かを助けることに、許可がいる。


許可された俺は英雄になり、許可されなかった工兵は反逆者になる。結果だけ見れば、同じことをしたのに。


俺は倉庫から持ってきた子どもの靴を、墓の脇へ置いた。


「勝手に動かすのは、よくなかったか」


「所有者は確認できません」


「じゃあ、ここにいることにする」


水面を風が撫でた。


鐘のない綱が揺れ――どこにもない鐘の音が、一度だけ、聞こえた気がした。


振り返ったが、ウトリは何も言わなかった。


聞こえなかったのか。それとも、聞こえていて、記録しなかったのか。


 


「なあ、ウトリ。俺が決めるには、知らないことが多すぎる」


「だからこそ、任務があります」


「任務が代わりに決めてくれるってか」


「少なくとも、迷って立ち止まっている間に失われる命を、減らせます」


その理屈は強かった。


迷うことにも、犠牲が出る。だから何かを選ばなければならない。


――選ばされている、とも言えるんだけどな。


 


しばらく進むと、石塔の陰から矢が飛んだ。


剣で弾く。二本目、三本目。


射手は精霊兵だった。人間に似た姿で、下半身が水に溶けている。向こうは堤防の上、俺は低地。地形を知っている相手に正面から近づけば、水流に押し戻される。


「左の排水路を閉じれば、水位が下がります」


「壊したら、下流はどうなる」


「流れが変わります」


「どこへ」


「予測不能です」


なら使えない。


俺は剣を水面すれすれに飛ばした。刃の軌道で水を巻き上げ、幕を作る。矢が水に入って速度を失う間に、石塔の反対側へ走った。


射手の足場だけを長剣で削り、崩れたところへ刃を回り込ませる。


首ではなく――弓を、切った。


精霊兵は水へ飛び込み、そのまま逃げた。


「追跡しますか?」


「しない。信号を上げられたら困るが、殺す理由には足りない」


「判断を記録します」


また、記録。


俺が助けた数も、見逃した数も、殺した数も、どこかで誰かに数えられている。


その記録が何のためなのか。


訊こうとしたそのとき――赤い光が、空へ上がった。


「人類軍の信号弾です」


ウトリの表情が変わった。


「前線部隊が交戦しています」


「近いのか?」


地図に赤い光点が浮かぶ。


「東へ八百メートル」


「行くぞ」


「主経路ではありません」


「助けを求めてるんだろ」


「勇者様の任務は、水精霊王への到達です」


「そこへ行く途中で人が死んだら、『人類を救う』って話と合わないだろうが」


ウトリは何か言いかけて、やめた。


「……分かりました。経路を再設定します」


俺は水を蹴った。


速度を上げると、剣も俺の周囲を速く廻る。青い荒野の向こうに、倒れた人影が見えた。


人間だ。


この世界で目を覚ましてから――初めて見る、俺と同じ、血の通った人間だった。

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