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第六話 逃げる魔物、追う勇者

森の奥へ進むほど――敵は、逃げるようになった。


最初は妖精が一体。次は三体。その次は、子どもほどの大きさの、角を生やした生物が二体。


誰も、俺に向かってこない。見つけると身を伏せ、荷物を抱えて、奥へ走る。


おかしいだろ。


魔王軍ってのは、人類を滅ぼしかけてる連中じゃなかったのか。


「なあ。こいつら全部、敵なのか?」


「魔王領に生息する個体です」


「質問を変える。全部、俺を殺そうとしてるのか?」


ウトリは、すぐに答えなかった。


「……将来的な脅威に、なり得ます」


「今は?」


「戦闘意思を確認できない個体も、います」


初めて、認めた。


俺は剣を下げた。角のある二体が、木の根の向こうへ消えていく。追わなかった。


「任務違反か?」


「推奨行動ではありません」


「罰は?」


「ありません」


「なら、俺が決める」


そう言うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。


俺は自分の名前も過去も知らない。けれど「逃げる相手を斬りたくない」と思うこの気持ちだけは、確かに自分のものだと思えた。


 


道の先で、森が急に開けた。


小さな集落があった。


入る前に、俺は剣を鞘へ戻した。廻転させたままでは、どれだけ「襲わない」と言っても信じてもらえない。ウトリは警戒を解かないよう勧めたが、聞かなかった。


家々の扉は、開いたままだった。


食事の途中だったらしい。木の器に薄い緑色の汁が残っている。火は、まだ消えていない。床には小さな足跡が幾重にも重なり、集落の奥へと続いていた。


――逃げたんだ。俺から。


中央の泉には、見覚えのあるものが浮いていた。


あの種子だ。昨日、俺が土へ埋めたのと同じ。


一粒拾うと、指の熱に反応して殻が開き、透明な芽が伸びた。芽はすぐ水に溶け、泉の濁りを少しだけ澄ませる。


「……補給物資じゃない」


「水質を維持する植物の種と、推測されます」


「あの妖精は、これを運んでた」


「はい」


「俺が、殺した」


ウトリは、否定しなかった。


 


家の一つから、かすかな泣き声がした。


中へ入ると、棚の裏に小さな妖精が隠れていた。最初に倒した個体より、幼く見える。片方の羽根が傷つき、青い布を肩に巻いている。布の端には、種を入れる小袋が縫いつけられていた。


俺を見た途端、妖精は木片を拾って構えた。


剣でも槍でもない。折れた、ただの匙だった。


「……大丈夫だ」


言葉が通じるかは分からない。俺は両手を見せ、ゆっくり膝をついた。


「殺さない」


妖精は震えている。


その後ろの壁に、炭で描かれた絵があった。


何体もの妖精が泉の周りに種を撒いている。その上を――白い服の人間が、大きな輪を連れて歩いている。輪から伸びた線が、家々を赤く塗り潰していた。


白い服。廻る輪。


俺たちのことだ。


この集落で、勇者は、そういう絵で描かれている。


「勇者様、接近しすぎないでください」


「武器は匙だぞ」


「毒や、精神干渉の可能性があります」


「全部疑ってたら、誰とも話せないだろ」


袋から包帯と飴を取り出し、床へ置く。


妖精は飴を知らないらしく、警戒しながら匂いを嗅いだ。


「俺も昨日食べた。毒じゃない」


自分の分の飴がもうないことに気づき、仕方なく袋の端を舐めて見せる。背後でウトリが、呆れたように息をついた。


妖精はしばらく迷って、飴を拾った。


口に入れた瞬間、目が真ん丸になった。


その表情があまりに人間くさくて、俺は吹き出しそうになった。


「甘いだろ」


妖精は返事をしない。


代わりに、自分の小袋から種を一粒取り出して、俺の前に置いた。


――交換、らしい。


受け取ると、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「これで、敵じゃないってことにしないか」


意味は通じなかったはずだ。それでも妖精は、匙を下ろした。


 


外で、地面が揺れた。


集落を囲む根の壁が動き始める。避難した住民たちが、俺を閉じ込めるつもりなのかもしれない。


「経路が閉鎖されます。脱出してください」


俺は立ち上がり、妖精に出口を指した。


「奥へ行け」


妖精は動かない。青い布の端を握り、俺と泉を交互に見ている。


「……ここを、守りたいのか」


泉の水位が下がっていた。根が閉じれば光も入らず、水が腐るのかもしれない。


俺はもらったばかりの種子を、泉へ投げた。


透明な芽がいくつも伸び、水が淡く光る。


手持ちの種はあの一粒だけだった。何が変わるかも分からない。それでも、何もしないよりはよかった。


妖精は俺をじっと見て、それから、両手を胸の前で重ねた。


礼の形だと、なぜか分かった。


「行くぞ」


出口へ走る。根の隙間が閉じる直前、青い布の妖精が奥へ飛んでいくのが見えた。


 


集落を抜けてから、ウトリが言った。


「任務に不要な物資を使用しました」


「罰するか?」


「いいえ」


「なら、記録だけしておいてくれ。――俺が、一人助けたって」


「記録します」


「殺した数だけじゃなくて、だぞ」


「はい」


彼女の声は静かだった。


その記録が、最終的にどの欄へ分類されたのか。俺は今も知らない。


 


集落を離れようとしたとき、頭の内側に、声が響いた。


『――帰れ』


女とも男とも分からない声だった。怒りよりも、長く眠れていない者の疲れが滲んでいた。


『これ以上、こちらへ来るな』


「……お前が、魔王か?」


返事の代わりに、集落を囲む根がゆっくり持ち上がり、俺と家々の間を閉ざした。


攻撃ではなかった。


ただ、境界を引く動きだった。


――来るな。それだけだ。


侵攻してきているのは人類のほうだと言われたら、今の光景は、そのまま筋が通ってしまう。


その考えを、俺は頭の隅へ押し込んだ。ウトリは「精神干渉です」と言った。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。


集落を抜けると、森の先に青い光が見えた。水の匂いがする。次の戦場が近い。


一度だけ振り返った。根の壁は閉じ、あの妖精の姿はもう見えない。


それでも、少なくとも一人は殺さずに済んだ。


その小さな満足を、俺は大切にしようと思った。


――後になって思えば。


あれはきっと、俺がまだ、自分の選択を自分のものだと信じていられた、最後の時間の一つだった。

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