第五話 初めての森
一体目は、簡単だった。
簡単すぎて――それが一番、怖かった。
剣が獣の横腹を切り裂き、返す軌道で首を落とす。自分の腕で振ったわけではないからか、手応えがない。目の前で起きたことなのに、遠くの事故を眺めているようだった。
二体目も、三体目も同じだった。
剣は俺の周囲を廻り、近づくものを切る。俺は歩き、避け、軌道だけを考える。獣の爪が届くより先に、刃が届く。
「強いな、これ」
「油断しないでください」
ウトリの注意と同時に、頭上から影が落ちた。
枝に張りついていた獣が飛びかかってくる。剣は前方に出ていた。間に合わない。
俺は地面を転がった。爪が肩をかすめ、服が裂ける。熱い痛みが走った。
「っ、痛い!」
「負傷を確認。出血は軽微です」
「見れば分かる!」
振り返りざま、剣を呼び戻す。刃が獣の背を貫いた。
倒れた獣は、しばらく脚を動かしていた。呼吸に合わせて身体が痙攣し、やがて、止まった。
俺は傷口を押さえながら、そいつを見た。
ゲームなら、倒した敵は消える。
ここでは、残る。
血の匂いも。濡れた毛も。最後の息も。
一体、まだ息のあるやつがいた。
六本の脚が不自然な角度で折れ、口の端から泡が出ている。俺が近づくと、最後の呼吸のように胸が一度だけ膨らんだ。
「……まだ生きてる」
「致命傷です」
「苦しんでる」
剣を向ける。
終わらせるために刃を落とすのは、戦っている最中よりずっと難しかった。
獣の目が俺を見た。敵意なのか、恐怖なのか、ただ光を映しているだけなのか、分からない。
「やってください」
ウトリが静かに言った。
「俺が?」
「あなたが負わせた傷です」
冷たい言葉に聞こえた。
けれど、放置するよりは正しい。
俺は剣を首へ通した。短い痙攣のあと、獣は動かなくなった。
直後、胃が裏返った。木の根元で吐いた。朝の乾燥肉と飴の甘さが、酸っぱい液と一緒に出ていく。
ウトリは何も言わず、投影のまま近くに立っていた。
「……勇者って、みんな最初は吐くのか」
「多くの方が」
「慣れるのか」
「慣れたように、振る舞えるようになります」
「同じじゃないのか」
「違うと、思います」
水で口をすすぐ。森の匂いに血の匂いが混ざった。一度知ってしまうと、どこにいても分かる匂いだった。
そこから先は、少しずつ戦いになった。
進路には爪痕が幾つもあり、獣が群れで巡回しているのが見て取れる。俺は無闇に前へ出ず、廻転する剣で草を揺らし、敵を先に誘い出した。
三体が左右から来る。一体へ剣を飛ばし、残る二体には木を盾にする。刃を直接当てず、幹の周りを回して背後から入れる。一体目が倒れる前に軌道を戻し、二体目の前脚を切る。
三体目の爪が頬を掠めた。
痛い。
だが、身体はもう固まらなかった。怖さの中に、次の一手を考える余地ができている。
「右後方、二体追加!」
「数が多い!」
「走ってください。剣は周囲へ!」
森の狭い道を駆けた。剣を身体の近くで高速回転させると、飛び込んだ個体から順に弾かれる。倒木を越えたところで振り返り、輪を一気に広げた。
刃が、五体の脚をまとめて薙いだ。
二体は逃げた。追おうとした瞬間、ウトリが止める。
「深追いは不要です」
「敵を残していいのか?」
「作戦経路の確保が目的です。すべてを討伐する必要はありません」
「じゃあ、逃げるやつは放っておけるんだな」
「戦闘能力と、再襲撃可能性によります」
「俺が判断しても?」
ウトリは少しだけ迷って、頷いた。
「最終判断は、勇者様にあります」
その言葉が、思いのほか嬉しかった。
俺は殺すための道具じゃなく、選べる人間なんだと――認められた気がしたからだ。
少し先で、また六本脚の獣を見つけた。
今度は、向こうも襲ってこなかった。
倒木の下に身体を伏せ、低く唸っている。脇腹には、俺の剣がつけたものとよく似た傷。さっき逃げた個体かもしれない。
獣は立とうとして、崩れた。
それでも逃げず、倒木の奥を隠すように前脚を広げた。
「負傷個体です。今なら安全に処理できます」
「……奥に、何かいる」
剣を高く上げ、光を反射させる。
倒木の根元に、小さな影が二つ。
同じ六本脚。まだ爪も短い。親の腹に顔を押しつけ、息を潜めている。
「子どもか」
「幼体と推測されます」
親獣が歯を見せた。飛びかかる力は残っていない。ただ、近づけば噛む。その意思だけは、はっきりしていた。
「こいつを倒せば、幼体はどうなる」
「生存率は大幅に低下します」
「幼体も将来の脅威か?」
「可能性は、あります」
可能性。便利な言葉だ。
俺は剣を構えたまま、動けなかった。
今ここで親を殺せば、背後を突かれる危険は減る。幼体まで処理すれば、将来の敵も減る。戦争の計算では、正しい。
でも――その計算を一度呑んだら、終わりだ。逃げるやつも、武器を持たないやつも、子どもも、全部「将来の脅威」の一言で殺せるようになる。
「迂回路は」
「北へ二百メートル。作戦時間が約十八分増加します」
「そっちへ行く」
「背後から追跡される可能性があります」
「歩けるようになったら、子どもを連れて逃げるだろ」
「断定はできません」
「なら、俺が決める」
剣を下ろす。親獣は動かなかった。
俺は、老婆がくれたあの布を袋から出した。傷に近づくのは無理だ。代わりに回復薬を染み込ませ、届く位置へ投げる。
獣は匂いを嗅ぎ、前脚で布を引き寄せた。
薬が効くかは分からない。獣には毒かもしれない。何もしないほうが正しかったかもしれない。
それでも、何かをしたかった。
「それは任務用の予備物資です」
「知ってる」
「勇者様が負傷した場合――」
「そのときは、痛いって文句を言う」
ウトリは俺を見たあと、地図の矢印を北へ変えた。
「迂回経路を表示します」
「怒らないのか」
「効率は低下しました」
「やっぱり怒ってるだろ」
「同時に、幼体二体と負傷個体一体の生存可能性が上昇しました」
「……それ、評価してるのか?」
「記録しています」
倒木を大きく回った。背後から追ってくる音はなかった。
しばらくして、一度だけ低い鳴き声が聞こえた。威嚇ではなく、子を呼ぶ声のように聞こえた。
そう聞こえたのは、俺が自分の選択を正しいことにしたかったからかもしれない。
それでも――殺さなかった、という結果だけは残った。
森を進むうち、視界の端に淡い文字が浮かんだ。
>肉体成長を確認。
>筋力補正:上昇。
>廻転半径:拡張可能。
「これ、何だ?」
「女神が、成長を数値化して表示しています」
「敵を倒したから強くなった、と」
「戦闘経験と、回収した魔力が身体へ適応しました」
「回収?」
見れば、倒れた獣の身体から、細い光が剣へ吸い込まれていた。
今まで、気づかなかった。
「これも祝福か」
「戦場で生き残るための、仕組みです」
腕の奥が熱い。筋肉が一段強くなった感覚がある。
喜びが湧いた。
同時に、死んだものから力をもらうことへの嫌悪もあった。
二つの感情は、どちらも本物だった。俺はその両方を抱えたまま、森の奥へ進んだ。
木漏れ日の中に、何かが浮かんでいた。
掌ほどの大きさの人影。透明な羽。淡い緑の髪。絵本に出てくる妖精、そのものだった。
妖精は俺を見ると、目を見開いた。
「敵性個体です」
ウトリが言う。
妖精は、攻撃してこなかった。
胸に小さな袋を抱え、背を向けて飛び去ろうとする。
「逃げたぞ」
「仲間へ警告するつもりです」
「追うのか?」
「可能なら、排除してください」
俺は剣を浮かせた。妖精は遅い。今なら簡単に届く。
だが、逃げる背中に刃を向けることに、身体がためらった。
「襲ってきてない」
「敵勢力に属しています」
「それだけで殺すのか」
「見逃せば、次の戦闘で敵が増える可能性があります」
理屈は通っている。戦争なら、斥候を逃がすべきじゃない。
妖精が木々の間へ消えかける。
俺は目を閉じ、剣へ命じた。
刃が飛んだ。
短い悲鳴。
地面へ落ちた小さな身体から、袋が転がった。中身が土へ散らばる。
黒く、小さな粒。
「……何だ、これ」
しゃがんで、指で一つ摘まむ。
「補給物資でしょう」
粒を割ると、中から白い芽が覗いた。
種だった。
「武器じゃない」
「食糧になる植物かもしれません」
「こいつは――種を運んでただけか?」
「勇者様」
ウトリの声が少し強くなった。
「敵がどのような姿をしていても、役割を忘れないでください」
俺は種を握った。地面の妖精はもう動かない。獣と違って血はほとんど出ていなかった。それがかえって、人形を壊したみたいで気持ち悪かった。
「俺の役割は?」
「人類を救うことです」
「こいつを殺すことが?」
「結果として、多くの命を救います」
俺は答えず、種を土へ戻した。
その場を離れてしばらくして、剣の軌道がわずかに重くなった気がした。
もちろん、浮かんだ武器に重さなんて感じるはずがない。
だから重かったのは、きっと、別のものだ。
――斥候は警告を運ぶ。なら、あの種は、誰の元へ運ばれるはずだったんだろう。
その答えを知るのは、ずっと後のことになる。
知ったとき、俺はこの日の自分を、殴りたくなる。




