第四話 タウンの外は、すぐ戦場だった
出発口は、城門ではなかった。
町の北端。壁に埋め込まれた、黒い円だった。
直径は三メートルほど。表面には空も景色も映らない。底のない穴のように、光だけを吸い込んでいる。
円の手前に、小さな台があった。靴跡が幾重にも重なり、床の一部だけが擦れて白くなっている。
「みんな、ここから出たのか」
「はい」
「戻った?」
「戻った方も、います」
「……戻らなかった方も」
ウトリは、否定しなかった。
出発前、宿屋に戻って日記帳へ一行だけ足した。
>これから最初の森へ行く。死にたくない。
格好いい言葉は思いつかなかった。これが本音なんだから、仕方ない。
鍛冶場の男にも声をかけた。
「行ってくる」
男は槌を止めた。
「武器の強化を行いますか?」
「いや。帰ってきたら頼む」
「必要素材が不足しています」
「会話にならないな……」
道具屋の老婆には、包帯と回復薬をもらった。彼女も決まった台詞しか返さない。それでも、飴を一つ、余分に袋へ入れてくれたように見えた。
「なあ、今の、あんたが指示した?」
「いいえ」
「じゃあ、この人にも意思があるのか」
ウトリは老婆を見た。
「役割の範囲内で、限定的な判断が可能です」
「限定的でも、自分で選んだなら礼を言わないとな」
「回復薬を購入しますか?」
「――ありがとう」
老婆の顔は動かなかった。
だが、俺が背を向けたあと、小さく首が傾いた気がした。
広場を通ると、勇者像の足元に花が一輪、置かれていた。
昨日はなかった。誰が置いたのか訊いても、ウトリは「分かりません」と言った。
像の台座には、削り取られた銘板がある。元は、名前が刻まれていたらしい。
「歴代勇者の名前か?」
「個人名を刻むと、像が特定の一人を象徴してしまいます」
「だから消したのか」
「勇者は、すべての人類の希望です」
「人間一人の名前より、『希望』って記号のほうが大事か」
「戦時下では、象徴が必要になります」
俺は、自分の名のない胸元を見下ろした。
「……俺が死んだら、この像に混ぜられるのか」
「あなたは戻ります」
「戻らなかったら?」
ウトリは一歩、近づいた。
「戻します」
静かな断言だった。
それが励ましなのか――それとも別の何かなのか、このときの俺には判断できなかった。
出発口の前で、光の枠が現れた。ウトリが装備を読み上げる。
「剣一。回復薬二。包帯一。携帯食三日分。帰還標識、正常」
「帰還標識?」
「あなたの魂核をタウンへ誘導する目印です」
「死んだときに、か」
「作戦完了時にも使用します」
「身体ごと戻るのか?」
「現在の身体情報を走査し、拠点側で再構成します」
「……じゃあ、向こうに残った身体は?」
ウトリの説明が、一瞬止まった。
「回収されます」
「どうやって」
「帰還時に説明します」
また「後で」だ。後で、が増えていく。
俺は黒い円へ手を近づけた。指先が沈む。冷たさも抵抗もない。腕を引くと、ちゃんと戻ってきた。
「怖いですか」
「怖くないように見えるか?」
「いいえ」
「正直だな」
「嘘をつくよりは」
その言葉に、俺はウトリを見た。彼女は視線を外さなかった。
――今のところ、彼女が何を「嘘」に数えているのかは、分からない。
「戻ったら、甘いものを増やしてくれ」
「検討します」
「約束じゃないのかよ」
「確保できる物資には限りがあります」
「魔王を倒す勇者への報酬が飴一個って、夢がないな」
「では、二個を目標に」
「よし。生きて戻る理由ができた」
円へ入る直前、床の光が足元から俺の身体をなぞった。
靴。脚。腰。胸。頭。
半透明の文字が宙に浮かぶ。
>投入個体:一。
>回収対象:一。
>同行生命:零。
>許容損耗――
最後の行だけ、ウトリが手を振って消した。
「今のは?」
「作戦用の内部表示です」
「『許容損耗』って見えたぞ」
「装備の耐久損失を示します」
「本当に?」
「……人員を、含む場合もあります」
正直に言うだけ、ましなのかもしれない。ましだと思いたかった。
袋を開いて、包帯を確認する。一本だけ。
「もう一本ないのか」
「勇者様の予測負傷量には十分です」
「俺以外が怪我するかもしれないだろ」
「今回の経路に、人類部隊は配置されていません」
「敵が怪我したら?」
ウトリは、答えなかった。
俺は道具屋へ引き返し、棚の奥の古い布を指した。
「これを買う」
「必要通貨が不足しています」
「飴を返す」
「食品は買い取り対象外です」
「じゃあ剣の鞘」
「作戦装備の売却は禁止されています」
見事に融通が利かない。
困っていると――鍛冶場から、槌の音が一度だけ響いた。
老婆がそちらを見る。次に、俺の袋を見る。
そして棚の布を取り、回復薬の下へ、押し込んだ。
「回復薬を購入しますか?」
「それ、会計に入ってないだろ」
「回復薬を購入しますか?」
同じ言葉。同じ抑揚。
けれど、布を引っ込めようとはしなかった。
俺は小さく頭を下げた。
「購入する。――ありがとう」
「回復薬を購入しました」
老婆の声は、最後まで変わらなかった。
ウトリは一連のやり取りを、黙って見ていた。
「限定的な判断、だったか」
「はい」
「命令されたことしかできなくても、隙間で選べることはあるんだな」
「……あります」
その答えは、店の老婆についてだけではないように――聞こえた。
出発口へ戻る。
ウトリは俺の剣帯を確認し、袋の口を閉じ、それから、触れられない手で襟元を整えるふりをした。
「何してる」
「装備確認です」
「襟、曲がってたか?」
「いいえ」
「じゃあ何で」
「人を送り出すとき、そうするものだと、記録にありました」
「誰に教わった」
「――覚えていません」
俺は襟を自分で直した。
「帰ってきたら、またやってくれ」
「触れられません」
「ふりでいい」
ウトリは、返事まで少し時間をかけた。
「はい。帰還時に」
黒い円の奥には、何も見えない。
怖さをごまかすため、右脚で床を二度、踏んだ。
ここにいる。戻る場所がある。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃいませ、勇者様」
その言葉だけは、作戦命令には聞こえなかった。
俺は息を吸い、円へ踏み込んだ。
最後に見えたのは、手を伸ばしかけて――止めた、ウトリだった。
触れられないと分かっているのに。それでも見送る人間のように。
全身がばらばらになる感覚がした。
痛くはない。ただ、身体の各部分を一度ずつ名前で呼ばれ、順番に確認されていくような気持ち悪さがあった。
骨。血。皮膚。眼球。記憶。恐怖。命令。
――最後の一つだけ、聞き取れなかった。
今、「命令」って言わなかったか?
次の瞬間、足元が消えた。
俺は湿った土の上へ落ちた。
「うおっ!」
受け身も取れず、顔から転ぶ。剣だけは優雅に俺の周囲を一周して止まった。腹が立つくらい優雅だった。
見上げると、深い森だった。
タウンの空は昼だったのに、ここは薄暗い。巨大な木々が光を遮り、地面には青白い苔が淡く光っている。背後に黒い円はない。代わりに、細い石柱が一本、立っていた。
ウトリの姿が隣に現れる。
「転送成功です」
「着地まで面倒見ろよ」
「次回から補正します」
「次回がある前提なんだな……」
立ち上がり、服の泥を払う。
そのとき、遠くで枝が折れた。
剣が勝手に動き、俺の右側へ浮かんだ。
茂みの奥から、小型の獣が現れる。灰色の身体。六本の脚。頭の両側から伸びる、黒い爪。
――黒い、爪。
記憶の中の獣とは違う。大きさも形もまるで違う。
それでも、頭より先に身体が震えた。腹の奥の、あの冷たい芯が疼いた。
「敵性個体です」
ウトリの声が、低くなる。
「勇者様。戦闘を、開始してください」
獣が地面を蹴った。
俺は剣へ命じた。
「――行け!」
刃が走る。
森に、最初の血が散った。
それが誰にとっての「最初」なのか、俺はまだ、数え方すら知らなかった。




