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第九話 水精霊王

安全な場所は、どこにもなかった。


俺たちは崩れた堤防の内側に身を隠し、ほんの数分だけ休んだ。


リオルの脚へ添え木を当て、包帯を巻く。俺は医者じゃない。巻き方なんて知らないはずなのに――手が勝手に、手順を覚えていた。


「上手ですね」


「昔やったことがあるのかもな」


「元の世界で兵士だったとか?」


「だったら、もう少し剣をまともに振れた気がする」


「剣を手で振らない人が言っても説得力ないですよ」


リオルは痛みに顔をしかめながらも、軽口を返してきた。


ウトリの投影は堤防の外を見ている。周辺の水流を地図に重ね、最短経路を計算していた。


「水精霊王の核は、三重の流れで守られています」


光の図が浮かぶ。


外側は、水狼を生む環流。中央は、攻撃を逸らす渦。内側は、核の周りを高速で回る薄い水膜。


「過去の戦闘記録は?」


「人類軍は二度、遠距離砲撃を試みました。いずれも流れを突破できず撤退しています」


「勇者は?」


「――到達記録が、ありません」


俺が、最初。


その言葉に、高揚する自分がいた。怖い。怖いのに、誰もできなかったことを自分ならできると思うと、胸の奥が勝手に熱くなる。


「外側の水狼は俺が相手する。渦は?」


「廻転を逆向きに当てれば、一時的に乱せる可能性があります」


「内側の膜は」


「核へ複数回、同じ軌道で攻撃を重ねてください」


「つまり三周」


「最低でも」


剣一本で、水狼を防ぎながら、同じ場所へ三度当てる。


「……無理じゃないか?」


「撤退も選択肢です」


ウトリは本気で言っていた。


リオルが首を振る。


「撤退したら、あいつは俺たちを追います。前哨所まで水路を変えられたら、負傷者が逃げられません」


「だからって、お前を連れては戦えない」


「石塔まで行けば信号弾を上げられます。精霊王の注意を引くくらいは」


「囮になるってことだろ」


「斥候ですから」


「斥候は死ぬ仕事じゃない」


リオルは少し笑った。


「勇者様に言われると変ですね」


「俺だって死にたくない」


「でも、戻れるんでしょう」


その言い方に、わずかな羨望が混じっていた。


言い返しかけて、やめた。当然だ。リオルは戻れない。俺は――一応、戻れるらしい。


「……戻った俺が、本当に俺かは分からないぞ」


「どういう意味です?」


「身体は作り直される。魂は同じだってウトリは言うけど、俺には確かめようがない」


「記憶があるなら、同じじゃないですか」


「記憶を持った別人かもしれない」


リオルは少し考えて、折れた槍の柄を握り直した。


「じゃあ、俺が決めます」


「何を」


「戻ってきた人が、今と同じように人を助けようとするなら――同じ勇者様です」


「雑だな」


「名前も分からないんです。中身で決めるしかないでしょう」


その答えは、思ったより、ずっと嬉しかった。


「次の俺が、お前を見捨てようとしたら?」


「殴ります」


「脚折れてるのに?」


「槍で」


「頼もしいな」


堤防の外で、水が大きく持ち上がった。


休憩は、終わりだった。


 


石塔までの道は、地図で見るより長かった。


水位が膝まで上がり、流木や壊れた柵が何度も脚に絡む。リオルを背負ったまま転べば、二人とも沈む。


「降ろしてください」


「脚が使えないだろ」


「左脚は動きます。槍もあります」


「折れてる」


「半分あれば、杖にはなります」


「半分の槍で格好つけるな」


「勇者様が全部背負うよりは」


彼は俺の肩から降りた。右脚に体重をかけないよう、折れた槍を水底へ突く。顔は痛みで歪んだが、「歩けない」とは言わなかった。


俺たちは一本の縄を、互いの腰に結んだ。流れに片方が取られても、もう片方が引ける。


「これ、どっちかが沈んだら共倒れじゃないか」


「そのときは縄を切ってください」


「先に言っておく。切らない」


「作戦の意味がないでしょう」


「離れないための縄だ」


リオルは呆れた顔をして――それから、結び目を二重にした。


「なら、俺も切りません」


「頑固だな」


「勇者様に言われたくないです」


前方で、水面が円形に沈んだ。外側の環流が近い。


水狼が生まれる直前、中心には必ず小さな泡が集まる。俺は剣の先で泡を散らした。一体目は形になる前に崩れる。


二体目は、別の場所から出た。読みが外れた。牙がリオルへ向く。


俺は腰の縄を引き、彼を自分の後ろへ滑らせた。剣で核を割る。


「今のは助かりました」


「縄、便利だな」


「だから、切る判断も必要なんです」


「まだ言うか」


「隊長なら言います」


オルドの名前を出されると、笑って流せなかった。


「隊長は、お前を庇って死んだ」


「はい」


「それを、間違いだったと思うか」


リオルはしばらく歩きながら考えた。


「俺が生きたことは、間違いじゃないと思いたいです。でも、隊長が死んでよかったとは思えません」


「両方、同時に思っていいのか」


「そうじゃないと――残ったほうは、生きられません」


水音の中で、その言葉だけが妙に近く聞こえた。


俺が誰かを助けて死んだら、残された相手は同じことを考えるんだろうか。


まだ死ぬつもりはない。だから、深く考えないことにした。


――考えておくべきだった。


 


石塔の手前で、縄を解いた。


リオルは自分の首から円環章を一つ外した。オルド隊長のものだ。


「持っていてください」


「形見だろ」


「戻ってくる理由が増えます」


「飴だけで十分だ」


「飴より重いでしょう」


確かに、重かった。


金属の円環を首に下げる。ひやりとした感触が胸に触れた。


「必ず返す」


「生きて返してください」


「分かってる」


 


「リオル、あの石塔まで行けるか」


「あそこなら、波を防げるかもしれません」


「走れるか?」


「走ります」


「無理なら言え」


「言ったら置いていきます?」


「背負う」


リオルは苦笑して、折れた槍を杖に走り始めた。


俺は精霊王へ向き直る。


「俺が引きつける」


「単独戦闘は危険です」


ウトリが言う。


「他に誰がいる」


「撤退を推奨します」


「撤退したら、リオルは?」


「――勇者様だけなら、帰還できます」


一瞬、聞き間違えたと思った。


「何だって?」


「帰還処理は、あなたにのみ適用されます」


「リオルは置いていけと?」


「このまま交戦すれば、あなたも死亡する可能性が高い」


「俺は戻れるんだろ」


「痛みを軽視しないでください」


「軽視してない」


腹を貫かれた感覚は、今も残っている。死ぬのは怖い。水に沈んで息ができなくなる想像だけで、喉が締まる。


それでも――俺だけ帰るという選択は、もっと嫌だった。


「リオルは戻れない。だったら、俺が残る」


「命令に従ってください」


初めて、ウトリがはっきりと「命令」という言葉を使った。


俺は彼女を見た。


「嫌だ」


ウトリの瞳が、揺れた。


 


精霊王の腕が振り下ろされる。


水の槍が数十本、空から降った。


俺は走った。剣を頭上へ回し、槍を弾く。一、二、三。四本目が肩を掠め、五本目が太腿に刺さった。痛みに脚がもつれる。


それでも止まらない。


精霊王の足元へ飛び込み、剣を上へ射出する。刃は水の身体を通過した――が、核まで届かない。


「もっと近くへ!」


ウトリの声。


「さっき撤退しろって言っただろ!」


「戦闘継続を選んだのなら、支援します!」


怒っているように聞こえた。


いや。――泣きそうなのかも、しれなかった。


精霊王の身体から水狼が生まれる。三体。五体。十体。


剣を廻す。一本では、足りない。核へ届く前に囲まれる。


水狼の牙を避け、結晶を砕き、もう一体の爪を肩で受けた。視界の端が赤くなる。


「勇者様!」


リオルの声。


振り返ると、石塔の側面が波で崩れかけていた。


精霊王が、腕を向けている。


次の一撃は――俺じゃない。リオルを狙っていた。


「やめろ!」


俺は走った。


間に合わないと、分かっていても。


身体より先に、剣を飛ばす。刃は水の槍を、一本だけ弾いた。


残りが、空を覆った。

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