第一話 異世界から来たらしい
白い部屋を出ると、そこは町だった。
少なくとも――町の、形をしていた。
空は本物に見えた。雲が流れ、鳥らしい黒い点が横切り、太陽の光が石畳に落ちている。
けれど十分ほど歩いて、気づいた。
雲の形が、変わっていない。
広場の噴水に落ちる影も、一寸も動いていない。
「なあ。今、何時だ?」
「午前です」
「何時何分」
「作戦標準時、零七三二」
「太陽の位置と合ってなくないか」
ウトリは空を見上げた。悪びれもせず、言う。
「前線拠点では、兵士の体調を安定させるため、照明環境を固定しています」
「つまり、この空は偽物か」
「空を模した環境です」
言い方を変えただけだった。
「町だけじゃなくて、空まで俺用か」
冗談めかして言ったのに、うまく笑えなかった。
道具屋に入ると、老婆が机の向こうに立っていた。薬瓶、乾燥肉、包帯、色の違う石。棚は整然として、どれにも値札がない。
「腹が減った」
俺が言うと、老婆は一拍置いてこちらを向いた。
「回復薬を購入しますか?」
「いや、食べ物。普通の飯」
「回復薬を購入しますか?」
「……その瓶、飲めば腹も膨れるのか?」
「回復薬を購入しますか?」
同じ声。同じ抑揚。同じ長さの間。
人の形をした何かと話している。そう思った瞬間、うなじの毛が逆立った。
机の端に乾燥肉があった。取っていいのか迷っていると、ウトリが頷く。
「勇者様へ支給される物資です」
噛むと、塩辛くて硬かった。
味は、分かる。舌が味を知っている。どこかで似たものを食べたはずなのに、その「どこか」だけが出てこない。
「俺、好き嫌いとかあったのかな」
「召喚前の食習慣は不明です」
「甘いものが好きだったかもしれない」
「用意しましょうか?」
「あるのか?」
ウトリが老婆に指示すると、棚の奥から小さな飴が一つ出てきた。透明な、黄色い飴。
口に入れると、蜂蜜に似た甘さが広がった。
――胸の奥が、理由もなく痛んだ。
誰かの手。
小さな包み。
雨の音。
そこまで浮かんで、記憶は白く千切れた。
「……思い出しました?」
ウトリの声が、いつもより柔らかかった。
「分からない。甘いものを、誰かにもらった気がする」
「誰から?」
「そこまでは」
「そうですか」
残念そうに聞こえた。
「何であんたが残念がるんだ」
「あなたが自分を取り戻すことを、望んでいるからです」
「仕事として?」
「――それだけでは、ありません」
何がそれ以上なのかは、言わなかった。
広場の端に宿屋があった。使われている部屋は一つだけ。寝具は新品で、机には白紙の日記帳と鉛筆が置かれている。
「これは?」
「記憶を失わないため、毎日の出来事を書き残すことを推奨します」
「……次に転生したら、読むためか」
「はい」
「記憶を継承できる俺にも必要か?」
「継承できると判明したのは、今回が初めてです。次も同じとは限りません」
さらりと言われた。
その言い方の中に、転生が「何度もある前提」で組み込まれていることに、俺は気づいてしまった。
日記帳の最初の頁を開く。
何を書けばいいか分からない。名前すらないのだ。
しばらく迷って、こう記した。
>目を覚ました。死んだことを覚えている。
>ウトリという女がいる。触れない。
>俺は勇者らしい。今のところ、信じ切ってはいない。
書いた文字には見覚えがあった。跳ねる癖まで自分のものだと分かるのに、この字を覚えた場所だけが、どうしても思い出せない。
「これ、あんたも読む?」
「必要があれば」
「読むのかよ」
「機密情報や、精神状態の異常が記載された場合、確認が必要です」
俺は一行追加した。
>ウトリは人の日記を勝手に読む。
彼女は肩越しに覗いて、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「まだ読んでいません」
「今読んだだろ」
「視界に入りました」
そのやり取りが妙におかしくて、俺は目を覚ましてから初めて、自然に笑った。
ウトリも、少し遅れて笑った。
空は偽物だった。店の老婆は同じ言葉しか返さなかった。
それでも、あの半拍遅れた笑いだけは、作り物じゃないと思いたかった。
広場の中央に、勇者の像が立っていた。
兜で顔は分からない。ただ、背格好は俺と違う。像のほうがずっと大きく、肩幅も広い。
「これ、俺?」
「歴代の勇者を象徴した像です」
「……歴代?」
「あなた以前にも、女神に選ばれた方々がいました」
「そいつらは、今どこにいる」
ウトリは、少しだけ間を置いた。
「使命を、終えました」
死んだ、とは言わなかった。
台座に文字が刻まれている。
>異界より来たりし者、命を廻し、人を救わん。
命を、廻す。
救う、じゃなくて――廻す。
「異世界召喚って、よくあるのか?」
「多くはありません」
「俺の世界のことは何も分からないのに、異世界から来たことだけは分かるんだな」
「魂の構造が、この世界の人間と異なります」
「魂の構造、ね」
自分の口で繰り返すと、急に怪しい宗教の勧誘みたいに聞こえた。
ウトリは広場の中央で立ち止まり、こちらへ向き直った。
「この世界には、人類、精霊、魔族の三種族が存在します。現在、人類は精霊派の侵攻を受けています。その頂点にいるのが――魔王チユーです」
「魔王なのに、精霊?」
「『魔王』は種族名ではありません。敵勢力の首魁を示す呼称です」
「魔族の王じゃないんだな」
「はい。魔族は別の勢力です。現在は大規模な介入を控えています」
三つの種族。二つの敵。
自分の名前も思い出せない人間に振るには、いくらなんでも話が大きすぎた。
「人類は、どれぐらい追い詰められてる?」
ウトリが手をかざすと、広場の上に光の地図が浮かんだ。森、水の荒野、空に浮かぶ島、火山、沼地が順に灯り――その先は、黒く塗りつぶされていた。
「この前線が突破されれば、人類圏まで障害はありません」
「軍隊は?」
「消耗しています」
「他の勇者は?」
「戦線へ投入済みです」
「なら、俺一人でどうにかしろと」
「一人ではありません」
ウトリは自分の胸へ手を当てた。
「私が、あなたを支えます」
心強い言葉のはずだった。
けれど、彼女の手は胸元の布に沈まず――ほんの少し、透けた。
目を凝らすと、すぐ元に戻る。
「ウトリ」
「はい」
「触っていいか」
「……なぜでしょう」
「あんたがそこにいるか、確かめたい」
手を伸ばすと、ウトリは一歩下がった。
「今は、戦闘準備を優先しましょう」
答えになっていなかった。
それでも俺は追及しなかった。名前も過去もない俺にとって、この女は唯一、こちらの言葉に言葉を返してくれる存在だったからだ。
「魔王を倒したら、記憶を戻す方法を探してくれる。そうだな?」
「はい」
「約束はできない、んだっけ」
「それでも、力を尽くします」
信じたい、と思った。
信じる理由があったわけじゃない。
――他に信じられるものが、何ひとつなかっただけだ。
そしてこのときの俺は、広場の勇者像が「歴代」と呼ばれた意味を、まだ数として理解していなかった。
その数を知るのは、もっとずっと、後のことになる。




