序章 二度目の朝、俺だけが死を覚えていた
死ぬ瞬間というのは、思っていたより静かだった。
音が先に消える。次に景色。最後まで残ったのは、腹を貫いた黒い爪の熱さだけだった。
背中から入って、腹から出ていた。鉄とも石ともつかない、黒い爪。声を出そうとした息は、喉の途中で血の泡になった。
握っていた剣が、指から離れる。
それでも剣は落ちなかった。俺の周りを一度だけ、ゆっくり廻った。主人を失った鳥みたいに旋回して、それから地面に突き刺さった。
――ああ、俺の剣は、俺が死んでも廻るのか。
そんなどうでもいいことを、最後に考えた。
目の前で、白い影が手を伸ばしていた。
――勇者様。
女の声だった。耳から聞こえるんじゃない。頭蓋骨の内側から、直接響いてくる。
――戻ってきてください。
無茶を言うな。
もう何も見えない。指一本動かない。俺はいまから死ぬ。身体のどこかが、他人事みたいに冷静にそう理解していた。
それでも声は、確信をもって告げた。
――あなたは、また戻れます。
次に目を開けたとき、俺は白い寝台の上にいた。
天井も、壁も、床も白い。窓はない。継ぎ目のない壁の中を、細い金色の光が円を描いて流れている。
反射的に腹へ手をやった。
傷がない。
服すら破れていない。なのに、貫かれた感覚だけが腹の奥に残っている。冷たい芯みたいに、確かに残っている。
「……生きてる?」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
「はい」
寝台の脇に、女が立っていた。
白い衣。長い髪を後ろでまとめ、穏やかな顔に薄い金色の瞳。胸元には、小さな記録板を提げている。表面を、淡い光の文字がゆっくり流れていた。
「おかえりなさい、勇者様」
その言葉を、俺は知っていた。
死ぬ直前に聞いた声だ。間違いない。
「おかえりって……俺は、どこから帰った?」
「戦場からです」
「俺は死んだ」
女の微笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「――覚えて、いらっしゃるのですか?」
質問に質問で返された。答えになっていない。でもその一瞬の停止が、答えの代わりに多くを教えていた。
俺は寝台から降りた。足の裏に床の冷たさが伝わる。たったそれだけのことが、ひどくありがたかった。
死ぬときは逆だった。身体の輪郭が端からほどけて、腹がどこにあるのか、手がどこにあるのかも分からなくなった。今は違う。指を一本ずつ曲げられる。爪を押せば痛い。舌を噛めば血の味がする。
生きている証拠を集めるように、俺は腕、胸、首の順に触れていった。
傷はどこにもない。
傷跡さえ、ない。
「本当に同じ身体なのか? これは」
「可能な限り、死亡直前の構成を再現しています」
「……可能な限り、か」
「身長、骨格、血液型、指紋、虹彩は、保存記録と一致しています」
「じゃあ、俺が俺だと、誰が証明する?」
訊きながら、嫌な予感がしていた。
女は、すぐには答えなかった。
「魂核の連続性をもって、同一人物と判定します」
「その魂核ってやつを、俺は見られるのか」
「いいえ」
「じゃあ、あんたたちが『俺だ』と言えば、それが俺なのか」
「……制度上は、そうなります」
正直すぎる答えだった。嘘をつかれるより、なぜか背中が冷えた。
白い部屋の隅には、寝台のほかにいくつか器具があった。透明な筒。人の頭ほどの金属の輪。細い管が束になった棚。どれも綺麗に洗い上げられているのに、近づくと、鉄錆に似た匂いがした。
壁に嵌め込まれた白板の下から、赤黒い染みが、ほんの少しだけ覗いている。
「ここで、何人戻した?」
女の視線が、染みの方へ流れた。
「記録の閲覧権限がありません」
「代行者なのに?」
「代行者だからこそ、知らないほうがよい情報もあります」
「便利だな、それは」
皮肉のつもりだった。なのに女は、傷ついたように目を伏せた。
その顔に、見覚えがある気がした。
死ぬ直前に声を聞いた、だけじゃない。もっと前に、同じ顔が寝台の上から俺を覗き込んでいたような。冷たい光の中で「次は大丈夫です」と言われたような――
記憶をつかもうとした瞬間、頭の奥が白く弾けた。
「っ……!」
「無理に思い出そうとしないでください」
女が近づく。反射的に、その腕をつかもうとした。
指が、彼女の袖を通り抜けた。
冷たさも温かさもない。ただ、光の像がわずかに乱れただけだった。
「……何だよ、これ」
「私は、この場所へ投影された像です」
「本物はどこにいる」
「安全な場所に」
「俺だけ危ない場所へ戻したのにか」
責めるつもりで言った。けれど女は、言い返さなかった。
「はい」
その一言に、弁解できない罪悪感が滲んでいた。
俺は急に、自分の怒りを持て余した。この白い箱の中に、話せる相手はこの女しかいない。目の前の女を敵だと決めたら、俺は本当の一人になる。
「……悪い」
「謝る必要はありません」
「触れると思ったんだ」
「そう見えるように投影していますから」
「紛らわしいな」
「孤独を軽減するための仕様です」
触れられない人間を隣に置くことが、孤独を軽くするのか。
訊こうと思って、やめた。代わりに、寝台の下へ目を向けた。
床には細い排水溝が走っていた。落ちた水を流すにしては、ずいぶん大きい。溝の縁に、爪で引っかいたような細い傷が幾つも刻まれている。
誰かがここで目を覚まして、逃げようとした痕に見えた。
自分の指を重ねると――傷の幅が、妙に合った。
「俺は前にも、ここで目を覚ましたことがあるんじゃないか」
女の表情が固まった。
「いいえ」
早い。
考えるより先に、決めてあった答えだ。
「黒い獣がいた。爪でやられた。剣が廻って落ちた。あんたが俺を呼んでた。――全部覚えてる。これは何なんだ」
女は胸元へ手を当て、静かに頭を下げた。
「私はウトリ。女神の代行者です。あなたはこの世界を救うため、異なる世界から召喚された勇者様。そして今――女神の力によって、転生されました」
「転生」
「死亡した肉体を捨て、新しい身体へ魂を戻す、祝福です」
祝福。
その言葉と、腹を貫かれた熱さが、どうしても結びつかなかった。
「じゃあ俺は、何度でも生き返るのか」
「原則としては」
「原則って何だ」
「転生には個人差があります。記憶を失う方も、技能を失う方もいます。ですが――」
ウトリは俺をまっすぐ見た。手にした記録板の表面を、光の文字列がかすかに走る。
「あなたは、記憶を保持している」
「珍しいのか、それは」
「極めて」
その声には、喜びよりも――警戒が混じっていた。
「魔王を倒せば」
ウトリが言った。
「女神の中枢へ、より深く接続できます。あなたの失われた記憶を、復元できる可能性があります」
「魔王を倒せば、俺が誰か分かるのか」
「お約束はできません。ですが、可能性はあります」
可能性。
名前もない。故郷も分からない。家族がいたかどうかさえ、誰も教えてくれない。
そういう人間には、可能性で十分だった。
俺は腹に手を当てた。傷はない。けれど、死んだ記憶だけは消えていない。
「分かった。戦う」
ウトリは笑った。
ほっとしたように。
――それとも、予定どおりだと確認したように。
「ありがとうございます、勇者様」
白い壁の向こうで、何かが低く唸った。円環の光が、ぐるりと一周する。
視界の端に、一瞬だけ、文字が浮かんだ。
>記憶継承率:規定値超過
>対象個体:再分類
>次回転生時:追加処置を予約
瞬きをすると、消えていた。
「今、何か――」
「どうかなさいましたか?」
「……いや」
死んだ直後だ。幻くらい見るだろう。そう思うことにした。
このときの俺は、まだ知らなかった。
俺が覚えているあの死が、最初の死ではなかったことを。
そして――次に死んだとき、この部屋へ戻ってくるのが、本当に「俺」なのかどうかを。




