第十五話 空の島
空の島は、最初の一歩から俺を殺しにきた。
転送先の浮島には、鳥の巣のような集落があった。
岩の縁に細い枝を組み、透明な膜で覆っている。住民はすでに逃げたあとで、風に揺れる道具だけが残されていた。軽い木の器。羽根を編んだ寝具。石に刻まれた渦巻きの模様。
「……こんなところにも、暮らしてるんだな」
「飛行能力を持つ精霊系個体の居住域です」
「俺たちが来る前に避難したのか」
「守衛が警告したと考えられます」
木の器の一つに、透明な実が半分だけ残っていた。かじった跡がある。慌てて食事を中断したんだろう。
俺は器を、元の場所へ戻した。
「中央島まで、集落を通らずに行ける道は?」
「大きく迂回します。転落危険が上昇します」
「家の上を戦場にするよりいい」
ウトリは経路を再計算した。
遠回りの道は、道と呼べるものではなかった。
数十メートル離れた岩の間を、風の流れだけがつないでいる。
最初の跳躍で、俺は風に乗り損ねた。
身体が、落ちる。
長剣を上の岩へ刺し、短剣を反対方向へ回して振り子の勢いを作る。腕が抜けそうな衝撃。長剣の刃が、岩から少しずつ滑っていく。
「右上に小島があります!」
見えない。雲と空しかない。
「どこだ!」
「三時方向、上方十二メートル!」
時計の三時がどっちか、頭より先に身体が分かった。
短剣を投げる。何かに刺さる音。
二本の武器の間で身体を引き上げ、どうにか小島の縁へ転がり込んだ。
――そこに、飛行守衛が一体、倒れていた。
片翼が折れ、仮面にも亀裂がある。俺を見ると槍へ手を伸ばしたが、持ち上げられない。
「敵性個体です」
ウトリが警告する。
俺は剣を構えたまま近づいた。
守衛は槍を――俺ではなく、島の端へ向けた。
下を見ると、小さな浮籠が岩に引っかかっている。中に、幼い個体が二体。風で揺れ、今にも落ちそうだった。
守衛は、あれを守っていたのか。
「……助けろってことか」
返事はない。
俺は長剣を籠の紐に絡め、ゆっくり引き上げた。短剣で風を逸らし、揺れを抑える。
幼い二体は、俺の白い服を見ると籠の奥へ縮こまった。
――白い服を見ると、だ。もう覚えられてるんだ、俺たちは。
守衛が這って近づき、自分の翼で二体を覆った。
「行けるか?」
通じない。俺は中央島と反対方向を指した。
守衛はしばらく俺を見て、それから、槍を地面に置いた。敵意を捨てる合図に見えた。
「見逃しますか?」
「見逃すんじゃない。こいつらは、俺と戦ってない」
「守衛は、回復すれば再び武装する可能性があります」
「そのとき戦えばいい」
「将来的な危険を――」
「未来の可能性だけで今殺すなら、全員敵になる」
ウトリは黙った。
回復薬を置こうとしたが、人間用が効くか分からない。代わりに、透明な実を一つ、籠の近くへ置いた。
守衛が、仮面を少し下げた。
その下の顔は――人間と、ほとんど変わらなかった。
傷ついて、疲れて、子どもを心配している顔だった。
俺は目を逸らした。
その顔を見たまま中央島へ進んだら、刃を振れなくなる気がした。
次の浮島へ渡る途中、背後から風が吹いた。
追い風だった。
そして追い風は、次の島までは続かなかった。
中間地点で、空の色が急に濃くなった。島と島の間を結んでいた風の道がねじれ、巨大な渦になる。雲の壁が下からせり上がり、視界を白く塗り潰した。
「風精霊王の領域変動です!」
ウトリの声が途切れ途切れになる。
「戻る道は」
「消失しました。前方の岩棚まで十九メートル」
「見えない!」
「座標を送ります」
頭の中に、点だけが浮かぶ。そこまで、空気しかない。
長剣を前へ射出する。風に弾かれ、右へ流れた。短剣を逆方向へ廻し、二本の軌道を縄のように絡める。
俺自身を中心にするんじゃない。見えない岩棚を、仮の中心に置く。
遠隔中心。
死んで覚えた技を、足場のない空で使う。
長剣の刃が岩に触れた。短剣を高速で回し、渦と反対向きの小さな流れを作る。身体が前へ引かれる。
半分まで来たところで――長剣が、抜けた。
「まずい」
落ちる。下には雲しかない。短剣だけでは体重を支えられない。
長剣を呼び戻そうとした。だが刃は風に巻かれ、あの集落の方向へ飛んでいた。
あのままでは、巣を切る。
そのとき、胸の奥で命令が鳴った。
――装備回収を優先。最短軌道。
最短なら、集落を突っ切る。
「迂回しろ!」
長剣へ命じる。反応が、遅い。
俺の武器が、俺の命令より「何か」を優先しかけている。
右脚。――地面はない。
代わりに、短剣の柄に絡めた指の痛みを基準にする。ここに俺がいる。集落は左。長剣はその間。
軌道を、下へ折る。
刃が巣の下を通り、岩の裏側へ回り込んだ。
その瞬間、短剣が風から抜けた。
完全に、落ちる。
「勇者様!」
――上から、細い風の柱が降りてきた。
身体が一度、止まる。
折れた翼の守衛が、離れた島から槍を空へ向けていた。幼い二体も、その後ろで小さな羽を広げている。
三つの風が重なり、俺をわずかに押し上げた。
「……助けてくれてるのか」
返事は聞こえない。
長剣が岩棚の裏に刺さる。俺は二本を同時に引き、最後の距離を飛んだ。
腹から岩に叩きつけられ、息が全部抜けた。
それでも、落ちなかった。
しばらく動けずにいると、雲が切れた。守衛のいる島は遠い。こちらの無事を確認すると、彼らは背を向け、集落の奥へ消えていった。
「敵に、助けられたな」
「行動理由は断定できません」
「『助けられた』って記録しろ」
「勇者様」
「任務効率とか再戦可能性とかじゃなくて。俺があいつらを助けて、あいつらが俺を助けた。それだけでいい」
ウトリは少し黙った。
「記録しました」
「公式に?」
「――あなたの、個人記録へ」
「それでいい」
俺は短剣の刃を確かめた。風で大きく欠けている。長剣にも、新しい傷が走っていた。
壊れずに戻るものは、ない。
俺の身体だけが毎回きれいに元どおりになることを――初めて、不自然だと思った。
しばらくすると、中央島へ向かう風の道が細く戻った。
「進行を再開できます」
「今度は途中で消えないだろうな」
「保証できません」
「正直でよろしい」
欠けた短剣を内側へ、傷の増えた長剣を外側へ置く。
二本とも壊れかけている。俺も怖がっている。
それでも、助けられたことを覚えたまま、先へ行ける。
「次の風へ行く」
「はい」
俺は笑い、岩棚を蹴った。
高度が上がるほど、タウンの偽物ではない本物の空が広がっていく。
美しいと思う気持ちと、落ちたくないという恐怖が、同時にあった。
どちらか一方だけになったら――そのときは、俺が変わってしまった証拠なんだろう。
それと、もう一つ。
さっき長剣が俺の命令より優先しかけた「最短軌道」。
あの命令は、誰が出した?




