第十三話 おかえりなさい、勇者様
二度目の水の荒野は、前より狭く感じた。
死んだ場所に戻るというのは、妙な気分だ。景色は同じなのに、こっちだけが一度、終わっている。
今回は、墓の前を通った。
オルド隊長とサナを寝かせた石積みは、水位が下がって半分ほど地面に現れていた。折れた弓の墓標も残っている。
俺はタウンから持ってきた白い布を、二つ結びつけた。
「リオルが迎えに来るまで、ここにいてくれ」
死者に言う。返事はない。
それでも、この場所を覚えているのは俺だけだ。
記憶を持ち越せることが初めて、強さ以外の意味を持った気がした。
水精霊王へ向かう途中、前回の戦闘痕がいくつも残っていた。俺が砕いた石。血を流した場所。リオルを背負って転んだ泥。
――自分の死体だけが、ない。
「現地の身体は、どうなった?」
「魂核回収後、残存組織は分解されました」
「消えた?」
「環境へ還元されています」
「俺の死体を、俺が踏むことはないわけだ」
「はい」
安心していいはずなのに、少し寂しかった。
死んだ俺は痕跡すら残さない。誰かが墓を作る必要もない。
戻ってくる者には――弔われる場所が、与えられない。
精霊王が見えたところで、俺は一度、立ち止まった。
前回の恐怖が身体に戻ってくる。水の槍。背中の痛み。息ができなくなる感覚。
剣の軌道が、乱れた。
「撤退しますか?」
ウトリが訊く。
「できるのか?」
「はい」
「命令違反じゃないのか」
「作戦開始前なら、再計画可能です」
その答えを聞いて、逆に落ち着いた。
逃げ道がある。なら、残ることを自分で選べる。
「行く」
「理由を確認しても?」
「リオルとの約束。下流の村。あと――前の俺がつけた傷を、無駄にしたくない」
胸の奥で、あの小さな拍が鳴った。
最後の理由に、反応した気がした。
考える時間はなかった。水精霊王がこちらを向く。
今回は最初から、俺だけを狙っていた。
外側の環流から水狼が生まれる前に、遠隔中心を形成する。剣を精霊王の左側へ送り、そこを中心に三周させた。
水の流れが引かれる。右側に短い空白ができる。
俺はそこへ走った。
槍の発生地点は知っている。空に青い点が生まれた時点で、落下位置から離れる。一本ずつ弾く必要はない。
水狼の核も、形成順も知っている。斬るのではなく、核だけを正確に砕く。
「速い……」
ウトリが呟いた。
「前回の俺が、全部教えてくれた」
「前回も、あなたです」
「だったら、俺が俺に教えたんだ」
口にすると、不思議な感じがした。
死ぬたびに強くなる。これが俺の力。
――なら、何回死ねば魔王に届く? そんな計算を頭のどこかがし始めていて、俺はそいつに気づかないふりをした。
精霊王の渦へ入る。
前回は力で突破しようとして負けた。今回は渦の速度に一瞬だけ合わせ、同じ流れに乗ってから、中心で向きを変える。
水が刃を敵と認識する前に、内側へ。
一周。核の膜に傷。
二周。傷が広がる。
精霊王が腕を振り下ろす。避ければ軌道が途切れる。俺は水の腕へ肩からぶつかり、身体だけを流れに預けた。剣の中心は動かさない。骨が軋む。
三周。
膜が、割れた。
青い核が露出する。
『――戻った』
精霊王の声が、頭に直接響いた。
「戻った」
『同じか』
「多分な」
『痛みを持つ』
「覚えてる」
『それでも来る』
「来ないと、下流で人が死ぬ」
『こちらも、死ぬ』
剣が、核の前で止まった。
ほんの一瞬。問いの意味を、理解してしまったからだ。
水精霊王を倒せば、人類圏の水害は弱まる。じゃあ、精霊領の水は? ここの生き物や集落は?
「別の方法は?」
『遅い』
「流れを戻せ」
『戻す場所が、ない』
核の奥に――巨大な金属杭が見えた。
人類の円環紋が刻まれている。杭は精霊王の身体を貫き、さらに地下へ伸びていた。
「これは……人類の装置か?」
ウトリが答える前に、精霊王の水が暴れた。
『白い杭を、抜け』
「抜けば止まるのか?」
『すでに、裂けた』
何が裂けたのか、分からない。精霊王は再び槍を生む。会話の余裕は消えた。
俺は核ではなく、金属杭へ剣を当てた。
硬い。一撃では切れない。四周、五周。杭に亀裂が入り、水流が大きく揺れる。
「勇者様、核を優先してください!」
「こっちが原因かもしれない!」
「装置を破壊すると、流路が完全に崩壊する危険があります!」
どっちが正しい。判断材料が足りない。
精霊王の槍が――遠くの前哨所へ、向きを変えた。
またそれか。俺に迷う時間を与えない。
核を壊せば、今の攻撃は止まる。杭を抜けば、先の被害を減らせるかもしれないし、悪化するかもしれない。
俺は、核を選んだ。
全力を一点へ集める。
青い光が、砕けた。
精霊王の身体が崩れ始める。最後に、杭の周囲だけが水面に残った。
『選んだ』
「他にどうしろっていうんだ」
『……皆、そう言う』
崩れた水精霊王の中から、最後に小さな青い光が浮かんだ。
掌ほどの球体。核の欠片かと思ったが、内部には水路の景色が映っていた。
高地の泉。魚の卵。水を飲む獣。ラウ村の井戸。人類圏へ続く細い川。
――全部が、同じ流れにつながっていた。
水精霊王は、人類へ水を送るものと、精霊領を守るものを、分けていなかった。流れ全体を、一つの身体として扱っていた。
俺たちは、その一部だけを見て、敵と呼んだのだ。
「この欠片、保存できるか?」
「高密度の精霊情報です。武器へ定着させれば回収可能です」
「力にするってことか」
「結果としては」
嫌だった。倒した相手の最後の欠片まで自分の強さに変えるのは、何かが決定的に間違っている気がした。
俺は欠片を地面へ置いた。
青い光は杭の周囲を一周し、割れた水路へ入っていく。止まっていた流れが、少しだけ動いた。
ただし――流れた先は人類圏ではなく、精霊領の低地だった。
「下流への水量が減少します」
「人類側の村への影響は」
「短期的には水害が緩和します。長期予測は不明です」
「精霊側は」
「一部の産卵域が回復する可能性があります」
勝ったから人類だけが得をするわけじゃない。負けた側にも、水は流れる。
それでいい、と思った。
杭へ近づく。円環紋の下に、小さな文字があった。
>第四流量矯正杭。
>目的:人類圏水資源の恒久安定。
>現地生命への影響は許容範囲内とする。
「――『許容範囲』を、誰が決めた」
「設置当時の、水資源局です」
「精霊に聞いたのか?」
「記録は、ありません」
剣で杭の表面を削る。内部から、黒い糸の束が見えた。
どこかで見た。いや――見たというより、知っている。
触れようとした瞬間、頭の奥に何かが走った。
――設備保全。解析を中止。
手が、止まった。
このときの俺は、自分がためらったのだと思った。それ以外の可能性を、まだ知らなかった。
「どうしましたか」
「……壊したら、流れが悪くなる気がした」
「合理的な判断です」
ウトリの答えに、わずかな安堵が混じっていた。
彼女もこの杭を壊してほしくないのか。
それとも――壊すなと「考えさせられて」いるのか。
そこまで考える力は、この日の俺にはなかった。
杭から薄い金属片だけを剥がし、袋へ入れる。
「これは持っていく」
「用途は」
「人類がここで何をしたか、忘れないため」
「記録は既に存在します」
「記録は消せる。これは、手で触れる」
金属片は冷たかった。
水精霊王が消えた場所で、俺が最初に拾ったのは、勝利の証じゃなく――こちら側の過ちの証拠だった。
水は静かになった。俺は勝った。
その足元で、人類の印がついた杭だけが、変わらず地面に刺さっていた。
荒野の端から、人影が走ってくる。脚に包帯を巻き、兵士二人に支えられて。
「勇者様!」
リオルだった。
「安静にしてろよ!」
「勝つところを見たかったんです!」
「見てたなら、もう戻れ!」
「はい!」
嬉しそうに返事だけする。戻る気配はない。
リオルは俺の前まで来ると、深く頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「俺は死んだけどな」
「それでも――戻ってきた」
その言葉に、なぜか胸が少し痛んだ。
リオルは笑っている。俺も笑った。
「今度は、死なずに助ける」
「期待してます」
ウトリが俺の隣に立った。彼女の姿は、リオルには見えない。
「おかえりなさい、勇者様」
「今、帰ってきたわけじゃないだろ」
「それでも、言いたくなりました」
彼女は笑っていた。
――泣きそうな顔で。
俺はその意味を、考えなかった。勝利の喜びと、助けた人間が生きている実感で、心は満たされていたから。
その心の奥に。
新しく敷かれた、細い道があることにも――気づかないまま。




