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第十一話 白い部屋

死んだあとの世界には、音が先に届いた。


水が耳へ入り込む音。リオルが、俺の名ではない呼び方で叫ぶ声。ウトリが帰還処理の開始を告げる声。


それらが遠ざかり、代わりに、低い回転音が近づいてくる。


白い世界には、円だけがあった。


巨大な円の内側を、小さな円が回る。その周囲を細い文字列が巡り、俺の記憶へ、一つずつ触れていく。


>死亡原因:多重穿刺。

>魂核損傷:軽度。

>情動:恐怖/救助執着/命令拒否。

>再利用適性:高。


――再利用って、何だ。


声は出ない。問いだけが白い空間に浮かび、記録に吸い込まれていく。


俺の身体らしきものは、まだない。


それなのに、腹も背中も痛かった。存在しない肺が息を求め、存在しない指が震える。


そして、その痛みを――何かが、測っている。


強すぎる部分を薄め、戦闘に必要な部分だけを残そうとしている。


死への恐怖は、残す。


撤退判断は、抑える。


他者救助欲求は、残す。


命令拒否は――


そこへ、ウトリの声が割り込んだ。


「拒否反応を削除しないでください」


平らな声が答える。


「安全処置の目的に反します」


「未知状況での判断能力が低下します。対象の特性は、命令外行動による局面打開です」


「対象は任務を中断し、一名のために死亡しました」


「その行動によって斥候情報が保持され、水精霊王の核へ損傷を与えています」


「代行者の情動偏差を検出」


「戦力評価です」


「虚偽を検出」


沈黙。


ウトリは今、どこかで本物の身体を持って、この会話をしているのだろうか。俺には見えない。


けれど、声だけは震えていた。


「彼は、自分で選んで死にました」


「死亡選択は資産損耗です」


「それでも、そこを削れば、彼ではなくなります」


「同一性は魂核によって保証されます」


「――私は、そうは思いません」


その言葉だけが、白い世界で温度を持っていた。


俺はウトリを呼ぼうとした。届かない。


平らな声が、続けた。


「上位指示を確認。対象へ従属経路を実装。代行者を一次命令節点に指定」


「待ってください」


「実行承認済」


「私は承認していません」


「代行者個人の承認は、不要」


 


円の一部が、開いた。


そこから、黒い糸が伸びてくる。


俺は逃げようとした。身体がない。記憶の中へ隠れようとした。


森の泉。青い布の妖精。リオルの笑い。ウトリが夜、椅子に座っていた姿。


糸はそれらを一つずつ調べ――切らずに、横へ道を作っていく。


大切な記憶を、壊さない。


大切だからこそ、そこから命令へつなげる。


人を守りたい。だから、進め。


リオルを助けたい。だから、敵を排除せよ。


ウトリを信じたい。だから、従え。


命令が、俺の善意と同じ言葉を使い始める。


「――やめろ」


今度は、声になった。


白い世界に波紋が広がる。


「それは俺の気持ちだ。勝手に使うな」


糸が、一瞬止まった。


「自発抵抗を確認」


平らな声。


「許容範囲内です」


ウトリが叫ぶ。


「彼に聞こえています!」


「覚醒後に当該工程の記憶を封鎖します」


「勇者様!」


初めて、ウトリが俺へ直接呼びかけた。


「忘れないでください。あなたがリオルを助けたのは、命令ではありません」


「分かってる!」


「その記憶を、誰にも渡さないで」


「どうやって!」


「右脚を、思い出してください」


ウトリの声が白い空間に響く。


「訓練場で、武器を止めたときの感覚です」


身体はない。右脚もない。


それでも――記憶の中には、ある。


靴底に伝わった土の硬さ。足首から膝、腰、胸へつながった、自分の輪郭。


俺は、存在しない右脚を踏んだ。


白い空間に、小さな足音がした。


黒い糸が、揺れた。


「記憶座標による自己境界の固定を確認」


平らな声が告げる。


「不要な抵抗です」


「不要かどうかは、彼が決めます」


ウトリが言う。


「代行者は対象へ過度に同調しています」


「同調ではありません。観測です」


「対象の苦痛に応じ、代行者の判断値が変動しています」


「苦痛を見て判断が変わることは、異常ではありません」


「管理者として非効率です」


「人間としては、必要です」


その言葉に、黒い糸の一部が――ウトリの声のほうへ、向いた。


測られているのは、俺だけじゃない。


彼女もだ。


 


俺はリオルの顔を思い出した。


水に濡れた髪。軽口。オルドとサナの名前を呼ぶ声。


「普通に話せば分かる」――俺が言った言葉。


「飴の味」――まだ食べていない飴。


「右脚」――オルド隊長の、文句を言わない右脚。


ばらばらの記憶を、声にしてつなぐ。


黒い糸は、俺の善意を命令へ結びつけようとする。なら、その前に、善意の中身を具体的にしてやる。


誰かを守れ、じゃない。――リオルを守りたい。


人類を救え、じゃない。――オルドとサナのように、名前を持つ誰かを、これ以上死なせたくない。


前進せよ、じゃない。――右脚を地面に置いて、自分で次の一歩を決めたい。


「抽象命令への変換効率が低下」


平らな声に、初めて、わずかな乱れが混じった。


「記憶細分化を停止」


「停止しません」


ウトリが答えた。


「勇者様。名前を、言い続けてください」


「リオル」


黒い糸が締まる。


「オルド」


白い円が速く回る。


「サナ」


記憶の一部が燃えるように痛む。


「ウトリ」


――彼女の声が、止まった。


「私を、含めないでください」


「どうして」


「私が、一次命令節点になります」


「意味が分からない」


「私を大切に思うほど、命令が、あなたの意思に見えるようになるんです」


「じゃあ忘れろって?」


「違います」


泣く声だった。


「私の言葉を――疑うことを、忘れないで」


矛盾した頼みだった。信じてほしいと願いながら、信じるなと言う。


でもそれが、今のウトリに言える一番正直な言葉なんだと思った。


「分かった」


「その返事も、すぐには信じないでください」


「面倒くさいな」


「はい」


白い空間で、少しだけ笑った。


その笑いまで、黒い糸が調べようとする。俺は笑いの理由を言葉にしなかった。言葉にすれば、また命令に使われる気がしたから。


代わりに、右脚をもう一度踏む。


自分のものだと分かる感覚を、最後まで離さなかった。


「俺のものだ」


何度も繰り返す。


その声を核にして、新しい骨が形作られていく。


指。腕。心臓。


――糸も、一緒に組み込まれていく。


ウトリの声が遠ざかる。


「おかえりなさい」


泣いていた。


「どうか、あなたのままで」


目覚める直前、俺は答えようとした。大丈夫だ、と。


けれど――「大丈夫」という言葉が自分のものかどうか、その時点でもう、確信できなかった。


そして目覚めた瞬間、俺は平らな声の内容だけを、綺麗に忘れた。


忘れたことさえ、しばらくは思い出せなかった。


俺の中に何が「組み込まれた」のか。


それを知るのは――もっと、ずっと、あとの話だ。

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