四章 その④
アーネストがその場に立ち尽くしていると、副団長のグレッグが入室してきた。
「さっきそこで、お前の奥方とすれ違ったけど、思いつめた顔してたぞ。何かあったか?」
「……エルシーに、私を捨ててください、と言われた」
アーネストは抑揚のない声で答えた。
普段の彼なら、他人に恥を晒すような発言は絶対に控えていたはずだ。これまでさまざまな局面においても、冷静さは常に彼の所有物であり、それが揺らぐことはなかった。しかし今回、受けた衝撃があまりにも強かったため、正常な判断力が働いていない状態にあった。
てっきり「別に」という素っ気ない回答が返ってくると思っていたグレッグは、唐突に新婚夫婦の危機を知るところとなり、うっかり質問してしまった自分を猛烈に後悔した。
しばし重い沈黙が部屋中を漂う。
「まさか、何かの間違いだろ」
「エルシーは冗談でそんなことを言う性格じゃない」
「だったら本気でお前との別れを望んで……?」
わからない、という風に首を左右に振ると、アーネストは少し落ち着きを取り戻し、椅子に座った。
「追いかけなくていいのか?」
「俺も彼女も今は職務中だ」
普段と変わらない様子に戻ったアーネストを見て、グレッグは少し心配になった。
「とにかく今日は早めに帰って、ちゃんと話をしろよ。仕事の後処理は俺がやってやるから。……それから、奥方にちゃんと言葉に出して愛情表現しないと、いつか愛想を尽かされて別の男のところに走られるぞ」
「……別の男? それは本当か?」
アーネストの鋭い視線を受けたグレッグは、余計なことを言ってしまった、と再び後悔したが、もう遅い。
「し、知るか。姉の受け売りだ。伝わってるだろう、ってのは男の一方的な都合のいい願望なんだとよ。とにかく早めに修復しろよっ」
グレックはそう言い残すと、足早に部屋を出ていった。
夕刻、いつもの時間にアーネストは王宮を出て、帰路についていた。
馬車の中で思い浮かべるのは、昼間に見たエルシーの沈鬱な表情。彼女の放った言葉は、一時の気の迷いだと信じたい。何がそうさせてしまったのか。グレッグの指摘通りなのか。
言葉に出して愛情を表現するのは苦手だと自覚している。これまで何度口に出そうとしても、なかなか実行できなかった。そのぶん、態度で表してきたつもりだった。
初めてエルシーに会ったのは、騎士学校に上がる前の十三歳の時。祖父に連れられて、当時まだ裕福だったウェントワース家を訪れた。小さな茶会だったように記憶しているが、周りは大人ばかりで正直つまらなく、会場を抜け出して気づけば小さな中庭に出ていた。そこで、向こうから誰かがやってくる気配がして、無意識のうちに柱の陰に隠れた。現れたのは、金髪の五歳ほどの少女。確かこの家の長女で名はエルシーだったな、と先ほどの自己紹介の場面を思い出す。だが、何げなく眺めているうちに、奇妙なことに気づいた。
エルシーは、ひとりなのにまるで誰かと話しているようだった。無邪気に笑いながら、庭を横切って進んでいく。おそらく両親は来客の対応で忙しく、娘に充分構ってやれないのだろう。アーネストも暇だったので、エルシーの動きを目で追っていると、彼女が小さな悲鳴を上げた。
小さな花壇の前で、散ってしまった無数の花びらを見て落胆しているようだ。
普段のアーネストなら、散ってしまったものは仕方がない、とこの場をあとにしただろう。しかし、その時はほんの気まぐれからか、久々に〝力〟を使ってみることにした。
周囲に誰もいないことを確認してから、意識を花びらへと集中させる。すると、花びらはくるくると円を描いて風に舞い、空高く飛んで行った。
上手くいった。この時のアーネストは、風の魔力がまだ使えたことに自己満足した。決して誰かを驚かせたり喜ばせようとしたわけではなかった。だが、楽しそうな笑い声がしてふと視線を戻すと、目を輝かせたエルシーが花びらの消えた青空をじっと見上げている。
『わあ、すごくキレイ! 風がお空に連れていってくれた!』
魔力とは、偉大な力であるのと同時に、一方では武器となり恐れられる力。そう認識していたアーネストに、エルシーの純粋な喜びはとても新鮮に感じられた。
そのあとも、ウェントワース家を訪れる機会があった。やはりエルシーはひとりでいると誰かと話している。アーネストにも次第にそれが何か、わかるようになったが、本人や周囲に尋ねることはできなかった。しかし、これまで聞き及んでいた雰囲気とは全く違うことに、彼も驚いていた。
あれは邪悪な力などではない。むしろ、純真で尊いものだ。世間から疎まれる力だとしても、自分だけは既成観念に囚われることなく、この小さな少女の持つ不思議な力を認めよう。
声をかけようとしたものの、アーネストは小さい子供とどう接したらいいか分からなかった。エルシーの目にも八歳上の少年はとても大きく映っていたに違いない。ふたりが言葉を交わすことはなく、アーネストは騎士学校に戻った。その年の冬に祖父が亡くなり、同時にウェントワース家とのつながりも途絶え、アーネストも訓練と演習の日々に追われる中、エルシーのことは頭の中から消えていった。
それから歳月は流れ、今から約一年前。エルシーという名の女性が王女つきの侍女をしているという話を小耳に挟んだ。その時、久々にその名を思い出したアーネストだったが、侯爵家の令嬢なら既に結婚しているはずだと、大して気にも止めていなかった。
しかし、王宮でグローリア王女とすれ違った時、金髪で緑色の瞳をした若い侍女が付き従っていた。面影はあまりないが、外見的な特徴は一致する。それがあのエルシー本人だと、アーネストはその後の調べで知った。
なぜこんな所で王宮勤めを、という疑問はすぐに解消された。調べてみると、父親が作った借金が原因だとわかった。
その頃、アーネストは国王ジェラルドからのお節介に悩まされていた。時々昼間の茶会に呼び出されては、さりげなく名家の令嬢を紹介される。そろそろ君も身を固めてはどうかな、という国王の思惑に対し、アーネストは礼節を欠かさない程度でかわし続けてきたのだが、数回目になったところではっきりと申し上げることにした。
『陛下のお気持ちは大変ありがたいのですが、自分には心に決めた女性がいます』
もちろん、その場しのぎの嘘だ。しかし、それで引き下がるジェラルドではないことも知っている。なので、本当に婚約者を探すことにした。かといってこれまで避けてきた社交界に顔を出せば、いよいよセルウィン公爵が本格的に花嫁探しを始めたと、噂されるのも群がられるのも面倒だ。
そこで、真っ先に頭に浮かんだのはエルシーだ。初対面ではないし、何しろ彼女の家の事情も踏まえれば、断られる可能性は低い。そう考えて早速求婚し、急な話でエルシーも戸惑っているのはわかったが、反応は悪くなかった。だが、その数日後、アーネストは彼女をひどく怒らせてしまったのである。
その時、彼はエルシーの本当の姿を見た。同時に、自分の浅はかな考えで彼女に求婚したことを後悔した。彼女は、没落の危機に直面しても、自分の力で何とか家族を守り続け、懸命に生きてきた。
誇りと尊厳を失わず、凛と前を向いている。それがエルシー・ウェントワースという女性だった。
アーネストは目が覚めた思いがした。そして、彼女をもっと知りたいという感情が自然と湧き上がってきた。
しかし、怒らせてしまった以上、結婚は断られるだろう。そうなっても、エルシーの弟ルークの勉学については最後まで責任を持とうと決めていたし、もし困っていることがあれば彼女が許すかぎりの援助も惜しまないつもりでいた。
なので、翌日エルシーが謝罪と礼のために騎士団長室を訪れた際は、アーネストも驚きを隠せなかった。それどころか、結婚の申し出を受けたいと言われた。彼女が家族のために決めた覚悟だとはわかっていたが、歩み寄ってくれたことにアーネストは内心感謝していた。絶対に後悔はさせない。そう誓って、彼女の手を取った。
エルシーもアーネストに徐々に心を開き始め、素直で可愛らしい一面を見せることも多くなった。彼もそんな彼女をより一層大事にしようという気持ちが強くなっていき、ふたりは特に問題もなく夫婦生活を送ってきた。
それなのに。
『私を……お捨てになってください!』とは、どういうわけか。
(何が悪かったんだ……。グレッグの言う通り、愛を言葉にしてこなかったせいなのか。……まさか、他に男が……いや、それはない)
ちょうど、馬車が屋敷に到着した。アーネストは深く息を吐き出す。
とにかく、一度落ち着いてから話し合いが必要だ。この時間なら、エルシーはすでに帰宅しているはず。
屋敷に入るなり、アーネストは足早にエルシーの部屋へと向かった。そのあとを家令が慌てた様子で追いかける。
「あの、旦那様、奥様は王宮にいらっしゃいますが……」
「まだ帰っていないのか?」
「えっ……は、はい。しばらく王宮に泊まり込むと仰せられて、身の周りのものを持たれて出て行かれたきりです。旦那様には王宮でご自身でお伝えするから、と……」
「なんだと⁉」
家令の言葉を最後まで聞くことなく、アーネストはエルシーの部屋へ駆け込んだ。当然、エルシーの姿はなく、クローゼットの中を見ると、手持ちのドレスが数着なくなっている。
アーネストは踵を返すと、大急ぎで玄関へと戻った。
「旦那様、どちらへ?」
「王宮だ。エルシーを連れ戻す」
「でしたら、すぐに馬車を回し……」
「それでは遅い!」
珍しく声を荒らげる主人に驚く家令を横目に、アーネストは厩へと走った。まだ手綱がついたままの馬をみつけると、鞍もついていない状態で跨り、その腹部を蹴った。
エルシーはぼんやりと目を開けた。見慣れない天井。どこだったかしら、とはっきりしない頭で考えて、ようやく答えにたどり着く。
ここは王宮内の一室で、使用人棟とは違い、それなりに身分のある者が寝泊まりを許されている部屋だ。女官長に頼みこんで、急きょ用意してもらった。もとの使用人部屋で充分だったのだが、エルシーの今の身分には相応しくないらしい。
数時間前にいつも通り仕事を終え、ティアナのもとを離れてしばらく歩いていた時に目眩がした。他の侍女の手を借り、この部屋に入った途端にドッと疲れが押し寄せ、いつの間にかベッドに倒れ込んでいたらしい。
今頃、アーネストはとても怒っているだろう。一方的に別れを口にし、勝手に家を出てきた。もちろん、これが正しい行いではないことは重々承知しているが、こうでもしないとエルシーは罪悪感に胸が押し潰されそうになるのだ。
瞼を閉じれば、涙が溢れてくる。エルシーがドア方面に背を向け、上掛けを目元まで引き上げた時だった。
ドアがノックされる。返事をしたいが、喉がカラカラで上手く声が出ない。
しばらくすると、誰かが部屋に入ってきた。女官長が気遣って、身の回りの世話をする侍女でも寄こしてくれたのだろうか。
「……エルシー」
聞き慣れた低い声が、部屋に響く。その瞬間、エルシーは身体が硬直した。
紛れもなく、アーネストの声だ。おそらく帰宅していないエルシーの所在を女官長に尋ねたのだろう。
身動きすら取れないエルシーは、ひたすらベッドの中でじっと身を縮める。
「眠っているのか……?」
控えめな声色からは、怒りは感じられない。落ち着いた、普段の彼の声だ。もうしばらく聞いていたい、でも今すぐ立ち去ってもらいたい。エルシーは複雑な心境だった。
「起きたら、ちゃんと話がしたい。それまで、ここで待つことにする」
アーネストが近くの椅子を運んできて、ベッドの脇に置く音がした。そうされると、エルシーも起きるに起きられない。
「……何が君を不安にさせたか、情けない話だが俺には見当がつかない。だからちゃんと話してくれ。……いや、俺も人のことは言えないが。……大切なことを君にちゃんと伝えていなかった」
アーネストの手がエルシーの肩に添えられる。
「……君と結婚できて俺は幸せだ」
アーネストの手が離れて、少しの間、沈黙が流れる。しかし、やがて意を決したように彼が口を開いた。
「エルシー、君を……愛している」
──愛している。
淀みのない、真っ直ぐな言葉。それはエルシーの胸の中にストンと落ち、じんわりと熱が広がっていく。
どうして。
彼はこんな勝手な自分をここまで大切に思ってくれるのだろう。
離れなければと自分に言い聞かせてきたのに、そんなことを言われたら、もう気持ちが抑えきれなくなってしまう。
離れられなくなってしまう。
エルシーはどうしていいかわからず、そっと背中を丸めた。しかし、感情が涙となって現れ、すすり泣きが部屋に響き始めた。
「……エルシー……?」
それを聞いたアーネストは身を乗り出し、小さく震える肩に再び手を置いた。反射的にエルシーが身じろぎをして振り返ると、アーネストと目が合う。
「……起きていたのか……」
エルシーは小さく頷く。柄にもない〝愛の告白〟を聞かれていたことにアーネストは狼狽したが、彼女の瞳が涙に濡れているのに気づいた。
「……なぜ泣く?」
「それは……私には身に余るお言葉だったからです……」
エルシーは上体を起こすと、アーネストの正面に座り直した。
「昼間の発言や、家に帰らない私に怒っていらっしゃると思っていました」
「驚いたが怒ってはいない。もし怒るとしたら、君にそんなことを言わせてしまった俺自身にだ」
アーネストはエルシーの手を優しく握った。
「さっきも言ったが、ちゃんとふたりで話がしたい。とにかく帰ろう」
「ダメです……」
「なぜだ。君は俺といるのは嫌か?」
「まさか。私もアーネスト様のことをお慕いしております……」
「だったら──」
「それゆえです。あなたが苦しむ姿は見たくないんです」
その時、ドアからノック音が聞こえてきた。
エルシーはアーネストの顔をチラリと見たが、すぐに「どうぞ」と返事をした。
入ってきた人物を見て、アーネストはすぐに椅子から立ち上がると、手を胸に当てて上体を前に傾ける。
現れたのは、パメラを伴ったティアナだった。




