レニングラード戦(最初の冬)
1941年12月10日 ベルリン 総統公邸(後のティーゲルシャンツェ)
今日アメリカ合衆国に戦線布告通達を確認した。
東洋の同盟国が8日に宣戦布告したことを受けたものだが、欧州本面でもアメリカとの関係は非常に面倒なものになっていた。
アメリカとの欧州での戦争地域はバルト海及び北極海である。
今日までは一応アメリカは中立国だったので、これで英国の海上通商路を無差別通商破壊線に持ち込むことができた。
もっとも大きな誤算はアメリカのレンドリース物資である。
貨物を積んだ輸送船を護衛するのに複数の駆逐艦、場合によっては小型空母まで含まれた護衛船団を送り込み、レニングラードに着いた後は護衛船団をソ連に貸与して船員のみ貨物船で帰国させるとは思わなかった。
おかげでソ連海軍の駆逐艦・コルベットの激増(20隻近い)が起き、港近海の制海権はむこうのものになってしまった。
おかげでレニングラード港を輸送起点にする補給計画が完全に止まった。
とはいえ、この港なしでは補給そのものが成立しないこともあり、市街戦を続けるしかなかった。
最初の防衛指揮官のパブロフ将軍はモスクワで銃殺刑になったが次のヴォロシーロフ将軍が激しい抵抗を行い、難敵ジューコフ将軍が着任するにいたって、作戦に戦術が見られるようになり、攻勢はいっきに分厚い壁に止められた。
それでも徐々に前進していたが10月頭にいつもより速い降雪が見られ一気に冬の戦いへと突入した。
冬入りと同時にジューコフ将軍は他方面への転出を命じられた。完全に彼に一本とられた形になってしまった。
できれば銃殺されて欲しい筆頭の一人だったが……
その後は第二戦として街中から徴兵された市民兵数十万との戦いになったが標的の多さに弾が足りなくなるほどで、兵站が陸路に限られたことで十分な攻撃用の備蓄ができない状況が続いていた。
結局、中世以来の包囲篭城戦になり、レニングラードは兵糧攻めという、およそ電撃戦と対極にある戦術で攻撃されることになった。
篭城した街中では死体を人民が食べるとか市場に人肉が並んでいたということも珍しくなかったらしい。
厳冬期に入ると湖が結氷したことで新たな補給線ができては潰すというゲリラ戦に近くなっていたが、春を迎え、大地が泥と水に埋まる時期を皆、想像しては憂鬱になるという先の見えない消耗戦に突入していた。
1941年12月10日 レニングラード
レニングラードは異様な熱気ともいえる状態に包まれていました。
士気が高いとかそういう次元ではなくなんとしても生き延びるという強烈な意志の表れが街に溜まったような状態です。
すでに第一陣の80万人が徴兵されて半年近く経っています。
その人たちの頑張りとジューコフ将軍の指揮がレニングラードに雪が降るまでドイツ軍を都市に突入できなかった大きな要因だと思っていました。
叔父さんがレニングラード攻略にあたって考えていたことは冷徹なものでした。
赤軍では国民皆兵と宣言されています。
その上ソ連は戦時国際条約のいくつかが締結していません。
その結果レニングラードの赤ん坊を含む全市民は捕虜になる権利すらない兵士になってしまったのです。
ソ連にとって楽なのは市街戦である程度抗戦した後は降伏して、ドイツの捕虜になり補給を食いつぶすことでしょう。
もちろん無抵抗の市民に見える捕虜モドキを射殺することは国際法上は可能ですが、兵士の精神を考えると考えたくも無い事態を招きます。捕虜モドキは捕虜の権利を有さない代わりに捕虜の義務とも無縁です。(何時暴動を起こす。のも自由です)
レニングラードの冬に対して叔父さんが命令したのは徹底的封じ込めと陣地作成と死守でした。
これまでの戦訓から分っていたのは前進している場合は何とかなるが後退した場合には軍は瓦解するということです。
ドイツには連合国のように全ての装備を投げ出しても他の国から再入手する見込みはありません。
兵士を救うために装備を捨てて後退させるという選択は採り得ません。
かといって兵士を無制限に消耗することもできないという妥協点がレニングラードを完全包囲に持ち込んで視界外から大砲で攻めるという選択でした。
それでも叔父さんは一つ見落としていました。
レニングラードの住民はロシア革命以来生存にかけては半世紀近く戦い続けてきた人々だったのです。
支配者の横暴もしくは気まぐれに対応して冬の間を生き抜けるように市民は各自が準備していました。
多少配給が遅れても食べつないでいけるように家の床下に食料を貯蔵したり隠れ場所を掘ったりするのは当たり前でした。
秋のうちに掘っておいた土の塹壕は冬の寒さで凍りつき、強固な要塞並の強度に変わりました。
ドイツ軍にとってはそこに海路・陸路を使って細々と流れ込む物資を備蓄しながら、効率よい砲撃を計画実施するだけの冬の戦闘になったのです。
赤軍としてはドイツ軍が街に攻め込んでこないのは予想外の事態だったでしょう。
この結果、莫大な数の兵士(市民)は篭城戦という中世以来の戦争をやるはめになったのです。
もっともこの間にも北極海を経由して遥か東にアメリカからの支援物資は終結しており、反攻のための武器は大量生産中です。
春には赤軍による反攻が計画されソ連はその準備を着々と進めていました。
レニングラードでは今日も計画的に街のブロックが吹き飛ばされています。
市民は降伏すらできずに地下室に隠れ、ドイツ兵が見えればそこにライフルを撃つという作業を繰り返していました。
朗報といえるのかリガ湖が凍って補給路が通ったということですが、補給部隊は航空部隊の格好の餌食になり、どちらも湖のような遮蔽なしの場所を道として使うのは1週間で終わりました。
両者を比較するとソ連の方が「春になれば」と考えられるだけ持久戦はましだったというところでしょうか。




