ドンキホーテの出陣
1940年 8月24日 オーバーザルツベルク ベルクホーフ
夜中に枕もとのベットの電話が鳴りました。
隣で寝ていた総統さんは一挙動で受話器を取ると話し始めました。
よほど緊急かつ重要な案件でもない限り、寝室の電話が鳴ることはありません。
身体を起こしてカーディガンを羽織り静かに待っていると、すぐに総統さんからライミーの糞野郎とかフレンチポックに殺られてしまえとか口汚く罵るのが聞こえてきます。
最後に「報復だ。ベルリンを焼かせるわけにはいかない。ロンドンを焼いてやれ」
そう告げて受話器を置くと、ベッドに力なく座り込みました。
いかにも無念そうで疲れきった様子でした。
とりあえず、キッチンに向かい紅茶を入れると寝室に戻りました。
「総統さん、ミルクティーはいかがですか?」
そう言いながらサイドテーブルにミルクティーを用意しました。
「ありがとう……」
一口すすると
「少し愚痴になるが聞いてくれ」
「ええ、もちろんです」
普段政治的な話は耳に入れないようにしているので、総統さんの愚痴もどんなに重要でもただの愚痴として聞き流せるでしょう。
もしも内容が理解できるような女になってしまえば総統さんの愚痴の溢し先がなくなってしまいます。
「私は英国とは講和したかった。ここで講和できないと欧州半島でソ連との決戦に大きな障害になってしまう」
ソ連は同盟国のはずですが?
「英国の爆撃は軍事拠点に限らせていた。それを迷った一機がロンドンで爆弾を投棄した結果、英国首脳部はそれを口実にベルリン爆撃隊80機を送り込んできた」
さっきの電話でしょうか?
「ベルリン防空隊は80機全てを撃退するのに成功した。英国の戦果は0だ。しかしこれでロンドン市民を巻き込んだ絨毯爆撃を行わなくてはならなくなった。絨毯爆撃の恐怖を思い知らせることにより敵首都への爆撃を躊躇させなくてはならない」
さっきの電話の報復命令ですね。
「やれば泥沼に嵌る。やらなければ敵が有利になる。選択肢は無いのだ」
「繰り返すが私は英国とは講和したかった。そうすればスペイン・イタリア・フランスと欧州西部は同盟国・中立国で埋めることができる。正面戦力は全てソ連にぶつけることができるはずだった。奴らとは基本理念が違いすぎる並び立つことはできない。私とて軍人レーテの代表だったこともある。あっちの考え方はわかっている」
「紅茶が冷めてきました。もう一杯入れましょうか?」
「いや、今日はもう寝よう。ありがとうエヴァ、君も寝てくれ」
息を殺すようにして一緒のベットで寝ましたが、総統さんの眠りは浅く、時折悪夢が混じっているようです。若いときの塹壕のことらしい寝言が混じります。
寝汗を拭けば反射的に起きてしまうので、このまま何もできずに朝を待つしかないのが歯がゆく、ゲリさんならどうしただろうとそのことを考えながら目を閉じました。
1940年 8月31日 ベルリン 褐色館(ナチス党本部)
「この作戦を実行できるのは私しかいない。地位は総統代行にして十分、もし失われてもドイツにデメリットがない」
ルドルフさんが口調も激しく周囲の人間を説得しています。
「正気の沙汰とは思えない。」
物凄く太った人物が呆れ顔で天井を見上げています。
ヘルマン・ゲーリンクさんです。最近ますます体型が丸くなってきました。
二人ともパイロット仲間で仲は良好です。
「総統は英国と停戦を望んでいる。だが表立ってやるわけにはいかない。バトルオブブリテンでパイロットが毎日百人単位で失われている最中だ。」
「このままパイロットが失われていけばチンパンジーにでも操縦させるしかなくなるのはわかっている。あいつらは身体が小さいからな」
「私なら自分で操縦してドーバー海峡を飛び越えることができる。ハミルトン公とは面識もある。うまく交渉できれば毎日失われるパイロットが全て救える。」
「なあルドルフ、どう考えてもお前さんが牢屋に放りこまれる姿しか思い浮かばんが」
「成功の確率は1%もあるかだが、成功すれば莫大なリターンが見込める。相手が真面目に交渉相手と認識するのも間違いない。ポーランド侵攻のときにゲーリングに次いで第二後継者に指名されたことも十分な信用になるだろう」
「まあガーランドには話を通しておく。うまく使ってくれ」
「ああ明日から身体を鍛えなおす。お前も少し痩せてせめて爆撃機に乗れるようにしておけよ!」
二人は拳を軽くぶつけ合うとわかれた。
ルドルフさんはわかっていてドン・キホーテを演じるつもりのようです。
ナチス上層部の暗闘も激烈なものになってきています。
ルドルフさんのように純朴な人物はいつ引き摺り降ろされてしまうか、わかりません。
今回は自分にしかできない任務に専念することで、煩雑な人間関係は放念できるのが幸福のようです。
彼は善良な人間であり、困ったことに魅力的な人間です。
ここで途中退場しようとも成功してパイロットの多くを生き延びさせようともルドルフさんにとっては叔父さんへの忠誠を示す大きな役割と思っているのでしょう。




