フランス崩壊とドイツ深層浸透
1940年 6月22日 フランス オワーズ県 コンピエーニュの森
フォッシュ元帥の像を横目に食堂車の客車に乗り込む。
これよりフランスの降伏文書の署名だ。
フォッシュ元帥の名言「これは終戦ではない。20年の停戦にすぎない。」は事実だった。
世界大戦時に連合国側の総指揮官を勤めただけのことはある見識だ。
事実20年後に英仏はドイツに対して宣戦布告している。
その後半年以上も休憩期間を挟んだ妙な戦争になってしまったが……
それにしてもフォッシュ元帥像の前で並んで思ったが、ゲーリンクの肥満が留まることを知らない。
最近では元パイロットというのが信じられない。
絶対にコクピットに収まらないだろうと確信する。
今回の空輸の時には冗談抜きで客室搭乗口から入れられず貨物用搬入口から運びこんだのだ。
さすがに肥満が過ぎるということで、口頭ながら痩身を命令したほどだ。
食堂車客室で停戦協定の調印の前に読み上げがあったが、前文を聞いただけでフランス人の間抜け面が気に障ってきて中座することにした。
大勢は決まっている、席を外しても問題ないだろう。
この半年の苦労を思い出すと、無駄だった時のイラつきを思い出す。
我らの国防軍はベストを尽くしたのだ、なのになぜ英仏連合軍はベストを尽くそうとはしないのか。
彼らの下で死んで行く兵士を思うと無意味に腹が立つ。
塹壕での一兵士の体験が主張するのか、自分で銃を構えもしない政府首脳部には射殺してやりたいほど腹が立つ。
だいたいパリの無防備都市宣言からして「国際法上,手が出せまい」みたいな魂胆が見え隠れして腹が立つ。
現実的に反乱分子が不満一杯のまま野ざらしにされたようなものだ。
治安維持にどれだけ人員が割かれるか頭がいたい。
そもそも英仏が確固とした見通しもなく宣戦布告してきたのが1939年9月そしてドイツが1940年5月に黄作戦を発動し侵攻するまで半年以上敵が何をしていたのかよくわからない。
こちらはその間にポーランドを占領しノルウェーに侵攻して、1月には基本戦略を包囲殲滅戦から電撃戦に変更して戦力配置変更するだけの時間があったが、英仏が動いている痕跡が見えない。
せいぜい備蓄を増やす程度の動きしか見られなかった。
1月に作戦計画書が偶然の事故で敵の手に渡ったときには、ほっとした。
シュリーフォンプランは世界大戦のときからある計画の焼き直しに過ぎず、塹壕戦に突入せざるを得ない計画だった。
例えソ連が寝返っても攻め込まれて負けるという可能性は殆ど無いが国力を莫大に消耗する計画だった。
つまり勝っても引き分けてもドイツの国力が大きく削がれる戦争計画……戦争経済上の悪夢である。
その安全策に対してマンシュタイン計画は速やかにフランスとの決着をつけるという点で非常に優れていた。
参謀本部が反対したのはその基幹の戦術が突破による戦線分断であり、指揮・兵站の破壊で敵を無力化するという、非常にスピード感に満ちた、いわば激しく情勢を動かすことで勝利を手に入れるという、従来の手法からみれば安定さに欠け危うい感じがするという、新しいものへの危惧感だったのが明白である。
ゆえに東欧に左遷されていたマンシュタインを呼び戻して参謀本部に据えるには、多少小細工が必要になったほどだった。(まあ機密文書とグライダーで済んだが)
もっとも重要なのは塹壕戦で国力を磨り減らすなど軍事行動としては下の下である。
敵の連絡補給路さえ切れれば前線は戦闘継続ができなくなる。(敵が塹壕の中にいようが平原にいようが関係ない。)
マンシュタインから電撃戦の真髄をそう教えられたときにその通りだと納得できた。
その結果、黄作戦で敵の想定防衛ラインをすり抜けて、赤作戦でフランスの心臓部を突き刺した。
見事に決まった。
敵は命からがらフランスから逃げ出すのが精一杯だった。
全ての重装備は放置したまま身一つを船舶輸送するのが英国の限界だった。
逃がした兵士の数は多いと軍部が言ってくるが、かといって一人残らず兵士を皆殺しというわけにもいくまい。
必要ならフランス国民を人質に兵士達をフランス国へ出頭させることも可能ではあるが、そのような強盗のような真似は列強国として行うわけにもいかないだろう。
今後の予定としては自由共和国を名乗る国民を見捨て逃げた軍部を解散させ、陸軍戦力の乏しい英国を制圧することだ。
正式にペタン元帥率いるフランス政府と調印が終わったならどのようにフランスを統治すべきかメモを回さなくてはいけない……直接統治はドイツの手に余る……当面フランス人に統治させ反撃できないように牙と爪を抜く手段を考えるとしよう。
1940年6月 バーデンビュルテンベルグ州 ランゲンツェル城
叔父さんがクナウアーの父親の要請を無視してボウラー官房長とブラント医師に解決を頬り投げた結果は、予想以上の成長と社会への侵食を果たしました。
すでに数万の人間が法に定められてない死刑を執行され、なおかつその実行組織は社会の表面に出ることなく叔父さんすら存在を知らないままに思想によって劣性遺伝子を排除し続けていたのです。
最近は劣性遺伝子所有者はティアガルデン4番地で行方不明になるという噂からT4作戦と呼ばれていたが、組織的誘拐殺人組織の一番の協力者はその被害者の家族ということも多く、多くは口をつぐんだまま(自分達に劣性遺伝子が入っていることを認めないようにするため)証拠は消されていた。
そのような劣性遺伝子の消去と共に将来のドイツを担うべく優良なアーリア人の優勢遺伝子を増やす計画が立っていました。
それが生命の泉です。
アーリア人で血統調査を終えた男女をペアリングして国家の手厚い助成のもと生まれた子供をナチス親衛隊の一部門で養育するというのは戦前から合法的に行われていたのですが、ポーランド合併後はその手法が変わってきました。
というのもポーランド人の幼児をアーリア的外観を有するかどうかで判別し、アーリア人になりうると判断すればドイツ人と養子縁組させドイツ人として成長させるというシステムになったのです。
とはいえ戦争孤児となったアーリア人を救済するという目的で始まったのですが現在ではアーリア人を増員するために幼児誘拐も辞さないという形に変わってきました。
もっとも、子供達の将来のために自分の子供を手放す親もいたことから、すでに十万に及ぶ養子縁組の本当の理由は養父母ではなく連絡が取れなくなった実の親だけかもしれません。
こうしてドイツ人の完全主義は自分達の将来に関する遺伝子問題すら自分達の代で形をつけようとする意気込みで驀進していくのでした。
一方的な善・一方的な悪というものは存在しないまま、カオスじみた狂態はドイツ内面を満たし始まりました。




