天使の切迫した小さな勝利
1930年 10月18日 バイエルン州 オーバーザルツブルク
「アンゲリア・ラバウルさん、私と結婚してください。」
「え?」
プロポーズしてきたのはエミール・モーリスさんでした。
33才の叔父さんの親友にして運転手。
叔父さんは車は好きなのですが自分では運転しません。
移動の間も考えことに集中しやすいので自分で運転するのは危険だと言ってました。
いえいえ、そんなことより、どう答えればいいのでしょう。
「前回、総統が訪れたときにそれとなく意見を伺いましたが、賛成もらえそうなので決心がつきました。」
エミールさんが言葉を繋ぎます。
前回といえば9月下旬の滞在でしたが……
そういえば居間でエミールさんは結婚したい人物がいると叔父さんの前で言っていました。
叔父さんはこちらをちらりと見た後「いいとおもうぞ。ドイツ人は若くして結婚し子供をたくさん作らなくてはならない。」
いつもの口癖のあとに「お前達が結婚したら毎日遊びに行くからな」と非常に上機嫌でした。
……それを思い出し、エミールさんの主張を認めざるを得ませんでした。
「私が総統の義理の甥になれば、護衛に関する心の負担は少なくなるし、仕事の役にも立つと思うんだ。」
エミールさんは親衛隊の前身「ヒトラー衝撃隊」の隊長でした。「わが闘争」も口述筆記しています。いわば叔父さんの一番身近に勤める人です。
もしも叔父さんに反感を抱かれたら身の危険が……そう考えたときに私は頷いていました。
「良かったー、10才以上離れてるから不安だったんだけど。」
破顔一笑「いい夫になるようがんばるよ。」
私も俯きながら「よろしくお願いします」そう伝えるのがやっとでした。
あとは父親代わりの総統の許可を得てからということで、この日エミールさんはミュンヘンに戻って行きました。
私は身体の調子が悪いと私室に引き籠もると枕に頭を押し付け声が漏れないように泣きました。
結局私は叔父さんにとって姪っ子を越える存在になるのには失敗したのです。
10年に渡る初恋の終焉です。一日や二日で納得なぞできそうもありません。
1930年 10月20日 バイエルン州 ミュンヘン
「総統、私も婚約を決めました。」
執務室でエミール・モーリスが幸せそうな顔で報告している。
「やっとか、おめでとう。相手は私の知ってる人かな?」
「ええ、もちろん。アンゲリア・ラバウルさんです。」
……
アンゲリア・ラバウル?……ゲリか!!
普段呼び慣れてない名前だったので一瞬理解できなかった。
待て、なんでエミールがゲリと結婚することになったんだ!
それからあと、怒りで視界が真っ赤に染まり、記憶が飛んだ。
それこそミュンヘン一揆で逮捕されたとき以来の激怒だった。
エミールが手中の玉を奪いに来た怪物に見えた。
婚約を解消しろと命令したのは覚えている。
それに彼が従ったことも。
もし従わなかったら執務机の引き出しからワルサーPPを取り出していたはずである。
婚約を破棄させえた後、すぐにヴァッフェンフェルトハウスに電話を入れた。
電話越しでゲリは泣き声で「ありがとう・ありがとう」と繰り返すだけだった。
彼女にとっても意にそぐわない婚約だったのか?
なぜそのようなことになったのかを聞くと、先月の居間での会話と態度が原因らしい。
「てっきり叔父さんがそう望んでいると思って……」
そう言われるとドイツの家父長制からみた貞淑な娘の行動としては、正しい行動であることは間違いない。
単に自分が間抜けだっただけである。
「10才のときから尽くしてくれたゲリに対し本人に黙って結婚相手を決めることはありえない」
そう言って電話を切ったが……ゲリの気持ちを聞く前に自分が激怒していたことを思い出した。
なぜ激怒したのか。思い当たる節はあるが認めるのは困難だった。
とりあえずエミールの解雇通達をして、ルドルフ・ヘスを呼び出していた。
彼は3年前に結婚している。
忙しいだろうが後任が決まるまでヴァッフェンハルトハウスに行ってもらおう。
それと自分の中にあるゲリへの感情を確認しなくてはならない。
もしこれが恋愛なら面倒なことになる。血縁関係で親子ほども年の違う娘との結婚。
まるで父のようではないか!
この世で最もなりたくないものと同じ行動をとろうとしているのだろうか。
あんな女にだらしない男とおなじ性癖が身体の中に眠っているとすれば耐え難い苦痛だ。
落ち着いてゆっくり考えてみよう。




