現世が求める英雄(悪魔でも可)
1924年12月20日 ミュンヘン
演説は聴衆がいないと始まらないというのは嘘である。
良い演説は聴衆すら作り出す。
それを学んだのがランツベルグ要塞刑務所だった。
5月よりはじめた「我が闘争」執筆は多くの面で利益を得ることができた。
その一つが7月7日に行った政界への不関与宣言である。
執筆を終えるまで政界と距離を置くことができた。
あの時、政界で国家社会主義自由運動は、国家社会主義、共産主義寄り、軍事独裁よりの寄せ集めになっていた。
とてもではないが統一的に党を運営することはできなかっただろう。
内紛がひどくなれば彼らの考えではアドルフ・ヒトラーというスターを担ぎ出さざるを得ない。
しかしスターがトップに立つことは刑務所の中にいることから不可能である。
ならば中途半端に利用されるよりはと、先手を打って不関与宣言を出すことにした。
その成果は国会議席数が5月4日の32議席から12月7日の12議席への惨敗である。
第二にもう塀の外に立っていることである。
これは口述筆記の内容を聞いていた刑務官、刑務所長が思想に感化され信服してくれた。
信服した彼らは仮釈放の申請を9月に行ってくれた。
仮釈については州政府は根強い反発をもって抵抗しつづけたが、ミュンヘン一揆のときの裁判官が味方についてくれたのが決め手になった。
あのときの判事も裁判のときに行った演説の聴衆といえるだろう。
然るに演説の効果というものは、すぐに出るのみではなく後日時間をおいても効果を発生するものがあり、そのような演説が良い演説というものであろう。
人生のことあるごとに思い出しリフレインされる演説、それこそが理想の演説であり、私の目標である。
考えてみれば新約聖書もキリストや使徒の演説を書き記した物と考えてよい。
それが我々文明人をどれだけ強く縛る鎖と化しているか。
故に「我が闘争」を可能な限り人々に広めなくてはならない。
今、ドイツ帝国を苦しめ続ける連合国の諸国に反撃を開始するために!
しかしランツベルク刑務所にもう少しいても良かったかなと思うこともある。
毎日のように妙齢の美女が花束を持って現れるというのは初めての体験だった。
求愛されたことも両手の数では足りない。
しかし、刑務所職員に、もう少しはめを外してもいいんですよと、言われるとは思わなかった。
そこまでストイックな男のつもりではないが、なぜか、その一歩が踏み出せない。
キリスト教の倫理観が私を強く縛っているということなのだろうか……?
1924年12月20日 ミュンヘン
今日、叔父さんが帰ってくる。
冬空の曇った日なのに春の日差しで温められたような空気を感じる。
もちろん気温のせいではない。
ウキウキしてスキップしそうになる足を無理やり慎ましく歩くのは非常に難しい。
ランツベルク刑務所にはエルンスト・ハンフシュテングル様が自家用車で迎えに行ってくれました。
私は、以前のアパルトメントではなく戸建ての家で待っています。
以前に比べて叔父さんの人気が上がったので塀つきの1戸建ての家で警備員も配置されています。
家そのものはベヒシュタイン家の持ち家の一軒なのですが、以前は騎士や準貴族の方々が借りていた家で上流階級の並びに建っています。
叔父さんがいないときでも見知らぬ女性陣の猛攻が激しいアパルトメントには叔父さんを迎える気にはなりませんでした。
ヘレーネ様にその話をすると、もっともと頷かれて、この家への引越しの手配をしてくれました。
しばらくは私も目立たないようにしたほうがいいということで、ここ一月はレッスン以外では外出を控えるようにしていました。
私をマークすることで叔父さんの新居を探ろうとする人たちもいるはずとのことです。
ここで半年ほど稼げましたが、まだ16歳です。
淑女としての振る舞いもまだ未完成です。
残念ながら姪っ子から婚約者への格上げは難しいでしょう。
もう少し、私の戦いは続くようです。
人それをヘタレという。
実際、資料からヒトラーが恋愛に関しては総統なヘタレであったことが伺えます。
女性恐怖症でもなく会話程度なら女性の方を好み、好きなタイプは丸顔の美脚……告白できなくて友人に相談して自虐に落ち込むヒトラーとか、なんか笑えます。




