7:変化
授業が終わって、日直の仕事を終えてから部活に行こうと急いで走っていたとき、ふと視界の端に見慣れた長い黒髪が見えた。
あの長さであの艶、間違いない。想だ。1人ではなく、女子と2人で向き合っている。
想が校舎の壁を背中にして立ち、もう1人の女子がその前で腕を組んで少しだけ身長が低い想を見下ろしているような感じだ。
校舎からクラブハウスへの近道はあまり人気がないので、そんな場所であんな体勢で向き合っている2人に少し違和感を感じる。
「―――滋?」
俺が声をかけると、2人はパっとこちらへ顔を向けた。
「英田くん...っ」
想と向き合っていたのは、俺と同じクラスの堀田美佳だった。
「堀田?こんなとこで何してんの?」
確か想と堀田は同じクラスになったことはないし、友達だという話を聞いたこともない。
どんな関係なのかと首を傾げる俺に、想は小さく溜息をついた後、口を開いた。
「堀田さんとは同じ塾なんだ。夏季講習の申し込みがもうすぐ始まるから、そのことでちょっと相談に乗ってもらってたの。」
そういえば、3年生になる少し前から想は駅前にある大きな塾へ通い始めたと聞いたことがある。
想の頭なら塾になんて通わないでも大丈夫だろうと言ったら、「親戚の人に勧められて仕方なく」と苦笑をもらしていた。
「へぇ。同じ塾なのか。あそこレベル高いって有名なとこだよな。」
堀田に話を振ると、何故か視線を彷徨わせながら小さく頷いた。
「それじゃ、わたしもう行くね。堀田さん、ありがとう。」
「え、あ。うん。」
にこやかに手を振る想を見送り、堀田も「それじゃあわたしも」と心なしか焦ったような声で告げた後足早に立ち去っていった。
「...なんだ?」
堀田の態度に何か違和感を感じたが、その原因がわからない。
それに、これまで想は元通りに入れ替わった時の為にと知り合いになった相手のことは報告をしてくれていたのに、堀田の名前は多分1度も口にしたことがない。そのことにも違和感を感じた。
もしかしたら、俺たちは自分たちでも気付かないうちに交友関係が広まってしまって、それを報告しあうことを忘れているのかもしれない。
今日は部活が終わったら寄り道せず真っ直ぐ家に帰って、想とじっくり話をしてみる必要があるかもしれない。
予定通りの時間に部活が終わり真っ直ぐ帰宅し、想にメールを打とうとした。
すると、想から「話があるんだけど今夜大丈夫?」とメールが来た。ちょうど良かったと、俺は1時間後なら大丈夫だと返信してから急いでシャワーを浴びて食事を取った。
ちょうど1時間後に玄関のチャイムが鳴り、俺は部屋から出て階段を降りて想を出迎えた。
「堀田と友達だったんだな。全然聞いてなかったから少しビックリした。」
「友達っていうか、知り合い程度なんだけどね。」
想は俺の部屋を訪問するためのカモフラージュとして持ち込んだ勉強道具を小さなテーブルの上に広げながら苦笑をもらした。
「ごめんね。言うの忘れてた。」
「いや、俺のほうも絶対言い忘れてることがありそうだしな。」
俺もとりあえず鞄から今日出された宿題のプリントを出してテーブルの上に置く。
最近ではこうして一緒に勉強することを理由にしないと、ゆっくりと顔を合わせて話をする時間が取れない。俺が部活を引退すれば時間に余裕が出来るから、想ともっと話が出来るようになるだろう。
「とりあえず、先に宿題済ませちゃおうか?」
「おう。」
2人で向かい合って座り、黙々と宿題を片付ける。
時々わからないところを想に聞いたりして、プリント数枚は1時間もしないうちに終わった。
「終わったー!想、何か飲み物とってこようか?」
確か冷蔵庫の中に100%オレンジジュースがあった。そんなことを思い出しながら腰を上げると、想はペンケースのチャックを閉めながら首を振った。
「すぐ帰るからいいよ。」
「そうか?」
俺も特に喉が渇いていなかったので、ベッドの端に腰をかけてなんとなく帰り支度をする想を眺めていた。
「そういえば、まだ話聞いてないんだけど。」
話があると言い出したのは想のほうからだったのに、まだ何も聞いていないことを思い出す。
想は宿題と教科書が詰まった鞄をぎゅっと抱きしめると、とても言いづらそうに話を切り出した。
「えっと...明日から朝一緒に行くのは止めよう、ってことと。学校でも出来るだけ話しないようにしようってことを言いたかったんだ。」
「は?なんで?」
咄嗟にそう答えていた。
想の言い出したことが突然過ぎて、何かを考える暇もなく思わず出た言葉だった。
想は何が悲しいのか、眉を下げながら目を閉じて、俯いた。
「流石に...ちょっとそれはどうかなと思ったから。」
意味がわからない。今まで普通にしてきたことを突然止めろと言われても、それなりの理由がないと納得がいかない。
ただでさえ想と話をする時間が少ないと思った矢先のことだったので、俺はちょっとムっとしながら理由を聞いた。
「なにそれ?なんでいきなりそんなこと言い出したんだ?」
「実は明日から朝早く起きて勉強することにしたんだ。登校時間ギリギリまですると思うから朝待ち合わせして一緒に行くのはちょっと無理かなって。」
「学校でも話しないっていう理由は?」
間髪いれずに質問すると、想は今日の堀田のように視線を彷徨わせた。
「今でもあまり学校では話してないし。幼馴染といってもこの年になると一緒にいると色々と言われるから。」
それは俺にも身に覚えがある。
クラスメイトの男子たちは俺と想の仲が良いことを話題にしてからかってきたり、想を紹介してくれと詰め寄られたりする。正直鬱陶しいと感じるときもあるが、それほど煩わしいと感じたこともなかった。
「まぁ、そうだけどさ。それじゃあこれから夜に勉強会ってことにして会う?」
「夜は塾があるし、帰宅が9時過ぎちゃうから多分無理。」
「え?じゃあ一体俺はいつどうやって想と話をすればいいんだ?」
土日は俺は部活があるし、最後の大会が終わるまで練習試合が組まれたりしていて帰りは遅くなる。当然疲れているから、シャワーを浴びてご飯を食べたら寝てしまう。
う~ん、どうしたものか。と、首を傾げながら考えていると、想から思いも寄らない言葉が返って来た。
「もう、必要ないんじゃないかな?」
「え?」
「お互いの交友関係とかその他諸々のこと、報告する必要は無いと思う。」
断定の言葉で言われ、一瞬思考が完全に停止した。
「だ、って、お前...それじゃあ元に戻ったときにどうするんだよ?」
いざその時が突然やってきたら、困るのはお互い一緒だ。
「この2年の間、いつまた入れ替わるかもしれないと思ってたけど。多分もうずっとこのまんまなんだと思う。」
「っ!」
「入れ替わってからすぐに、言ったよね。元に戻る必要は無いんじゃないか?って」
それは、俺も何度も思ったことだった。
だが、それでもいつかは元通りになるんじゃないかと、何の根拠も無く思っていた。
想は、違ったのか?もう元に戻ることはないと思って、本当の『滋』として生きて行くことを考えていた?
「それじゃあ。」
また明日、というお決まりの台詞を言わなかったことにも気付かないで、俺は何の躊躇もなく立ち去ろうとする想の背中に手を伸ばした。
「おい、想...!」
「想は貴方だよ。わたしは滋。」
振り返ってそう言った想の顔は憑き物が取れたようにすっきりとしていた。
翌日の朝、想は本当に約束の時間に姿を現さなかった。