あとがき
言葉というものは、つくづく不思議なものだと思います。
掌からこぼれ落ちてしまうほど儚いときもあれば、半世紀という果てしない時間の隔たりさえも軽々と飛び越えて、誰かの心を揺さぶる熱を持ち続けることもあります。
本作『春立つ日』は、一通の破られた昭和の手紙と、文房具店という「言葉の宿る場所」を舞台に描いた、失われた記憶と再生の物語です。
主人公の蓮は、自分の本音を言葉にする恐れから逃げ続けていた青年でした。一方の結衣もまた、壊れた過去の紙を直すことでしか人と繋がることができなかった女性です。そんな二人が、祖父と祖母が遺した「未完成の言葉」を修復していく過程で、自らの心に立ち込めていた冬の氷を少しずつ解かしていきました。
「立春(春立つ日)」という言葉には、厳しい冬の底で、まだ目に見えぬ春の気配が確かに立ち始める、という意味が含まれています。
人が誰かを想う気持ちや、伝えることを諦めない勇気もまた、どれほど冷たい孤独の中にあっても絶えることなく、静かに芽吹きを待っているのだと信じています。
この物語が、読み終えたあなたの胸の中に、小さくもあたたかな「春の風」を届けることができたなら、著者としてこれ以上の幸せはありません。
最後に、作品の執筆にあたり温かいご助言と応援をくださったすべての皆様に、心より感謝を申し上げます。
令和8年10月16日
夜名




