第十五話
「殺せ」
————誰かの声が聞こえた。
薄い微笑みを浮かべた昏い声音が耳元で囁やいた。
「殺してしまえ。喰ってしまえ。さすれば、苦痛から解放されるぞ。一口食らえば最高の愉悦であるぞ」
この声を聴くたびに、心臓の鼓動が強く鳴る。『声に従え』と体が訴え、心に直接声が入ってくるように。
「おらぁぁぁ‼」
「がっ!」
床に倒れ伏す至恩の脇腹を礼志の蹴りがめり込み、体が浮き壁まで飛ばされた。
壁に飾られた剣や槍や鎧が甲高い金属音を出しながら崩れた。
今であばらの骨が折られた至恩は、死を予兆した。『ああ、レイは僕を本当に殺すつもりなんだ』と遅まきながらに理解した。同時に礼志の覚悟も感じた。
レイは言った。『俺を殺しに来い』と全て僕にそうさせるための誘導。何でかは分からない。だけど、レイは僕に殺されようとしている……いや、僕に殺意を手に取らせようとしている。
「がはっ………」
べしゃっと口から床に血を吐くと至恩は呆れ笑いを浮かべた。
もう無理だよレイ。体が動かない。僕はもう……君に殺されるしかない。気づくのが遅すぎた。立ち上がることも出来ないんじゃあもうレイを倒すなんて不可能だ。
至恩は朦朧とする意識の中で諦めを取ってしまった。このまま礼志に殺されるだろうと確信して、諦念を浮かべた笑みを浮かべてしまった。———ただ、一つだけ心残りがあるとするならば。
「……最後にもう一目だけで……いいから、灯さんに会いたかったなぁ………」
俯いて死を待つ至恩の視界に足が映った。礼志が近づいて来て至恩に止めを刺そうとしたのかと思ったが、違和感が至恩の瞳を見開かせた。
礼志に比べて酷く小さい足元に見えたのだ。誰? と薄れゆく意識の中で鉛のように思い頭を上げて見やると、一瞬体の痛みを忘れるほどの驚愕が至恩に訪れた。
何せ、そこに立っていたのはほかの誰でもない。
「僕………」
「やっとか……っ、痛ぇな」
至恩を壁まで吹っ飛ばし、距離が開いた分を追撃せずに礼志は立って穴の開いた左肩に右手を添えながら見詰めていた。
この距離ではぶつぶつ言っているようにしか聞こえないが、『対話』が始まったのだと冷酷な戦士の仮面を取り、張り詰めた表情を少し緩めた。
「たくっ……世話のかかるやつだ」
しかし、『対話』が上手くいったとしたら御の字だが、失敗した場合を考えると戦士の仮面をまた被り直さなければならない。そうなったときは先程のように一方的にはならないはずだ。
と、礼志は束の間の休息に瞳を閉じて数回深く深呼吸をする。そして再度、瞼を開けたときにはまた冷たい瞳を見せた。
「痛いか? 苦しいか? 死ぬのは嫌か?」
目の前の自分は嘲笑を僕に向けて全く違う口調で問うてきた。
「……君は、いったい………?」
突如現れた自分と同じ顔を見上げると、その瞳だけは至恩のものではなく赤珊瑚の瞳で至恩を見下してきた。
「そんなに嫌なら、僕が変わってやろう」
「げほっ……、え?」
言葉は通じない。会話にならない。けれど、この痛みを肩代わりしてくれるというのは、今も血を吐き痛みに苦しむ至恩にとってはとても魅力的なものだった。
そんな短絡的に考えてしまうほどに、至恩には余裕がなかった。目の前に自分が現れ、驚愕の眼から縋るような眼に変わった至恩を目の前の自分は嘲笑を携えた口元を深めた。
「ならば、僕の手を取れ。後のことは何も考えず、眼を閉じて耳を塞いでいるがいい」
嘲笑を浮かべて手を差し伸べてくる自分に対して、縋りたい気持ちに心が折れる。そして、なぜだか確信できた。この手を取ればもう自分は何も辛い思いもせず痛みとも恐怖とも無縁の場所に行けることを。
手を取れと、痛みに悲鳴を上げる体が言う。殴られ、蹴られた心が疑問なんか抱くなと告げてくる。現状の救世主の手を取れと自分の弱さが喚き散らす。
差し出された手に己の手を重ねようと震える手をゆっくりと持ち上げる。縋るような翠の瞳が冷たく見下す赤珊瑚の瞳を見上げた。
そして、紅色に染められた元の自分の髪色とは似ても似つかぬ今の自分の髪が視界に入った。
「……そ…れは、ありがたい話だね」
ピタッと、重ねかけた至恩の手が止まった。そして、思い出したかの様に遠い目をすると痛みに歪んだ顔を緩めた。
「けど、僕の縋る女性はこの世で一人だと決めているんだ。……不本意だけど、その手は取れない」
その言葉を聞きいた目の前の自分、いや、『鬼』は瞠目し、嘲笑を消した。
「女性? なぜ私僕の性別が分かる?」
「僕は年上の女性が好みだからだよ」
今度は至恩が微笑みながら答えると、訝しむように無表情になった目の前の『鬼』は赤珊瑚の瞳を細め考えるように間を置いた。
「…………数百年ぶりに口説かれようとは思わなんだ。残念なのはこのようなガキだということだが」
口調がガラッと変わり『鬼』本性を見せた。至恩はそんな彼女の言葉に愕然と落ち込むように溜息を吐いて重い首を垂れた。
「……うわぁ、めちゃくちゃ残念だ。あなたの本当の姿は僕にとっては、とても魅力のある人のはずなのに、男の顔ですごくタイプなことを言われてもなぁ~………」
せめて女性の顔でそういうことを言ってほしかった。男の面で女口調はさぶいぼが立つだけだ。
「だが……悪くない。道具として貴様を使ってやろう」
性別を言い当てられてから値踏みをするように細めていた瞳が、至恩の発言の何処を取って何を思ったのか、見開かれた。
「光栄に思え童。貴様を妾の眷属にしてやる。妾の力を存分に用いて、供物を届けるがよい」
何を言っているのだろうかこの人は、と状況に着いていけない至恩は自分が負っていた傷を思い出して重くなった首を垂れた。
ガっと髪を掴まれて下を見ていた顔が、再度上に持ち上げられると鏡でも置かれたような自分の顔が視界に映った。
至恩の頭を持ち上げた逆の手を自分の口に持っていき、手首を噛んだ。というより、噛み千切った。
え⁉ という声は出せない至恩が眼を点にして表情で表すと、彼女は自分の肉を吐き出すと手首から大量に湧き出る血を口に含んだ。
口を離し、その手の甲で口を拭い、鮮血が頬に掛けて伸びた。場違いにも至恩は、僕ってあんな顔も出来るんだと少しだけ美しいと思ってしまった。
そして、何の躊躇もなく自分の顔が迫ってきた。
「えっ⁉ ちょっ、待っ————」
至恩の静止の言葉も届かず、口付けをされた。口内に彼女の血が侵入してきて至恩は思わず声を出した。
「うっ……⁉」
大量の他人の血が自分の口の中に入ってくる不快感が体を支配し、反射的に自分の舌で喉へ流し込まれるのをせき止めようとするが、血と共に侵入してきた舌によって阻まれた。
「うぅ~~~!」
ごくんっ、と自分の喉が鳴り体内へ彼女の血液が流れていった。
舌と口を離し、まるで新しいペットを買ったように嘲笑ではない笑みで笑う彼女はこう告げた。
「これでお主は妾のものだ」
彼女は言い終わると同時に姿を消した。そもそも自分の幻覚だったのかもしれない。辛い現実を前に幻覚を見るというのはよく聞く話だ。
しかし、唇と舌の感触、血液による不快感が幻覚にしては現実的で、なによりずっと思っていても口に出来なかった言葉を呟いた。
「だから、あなた僕の顔なんだよ……おえ」
そう最後にもう何も残っていない口で嘔吐いたのだった。
「……終わったか?」
力なく壁にもたれていた至恩が立ち上がったのを確認した礼志の眼は赤琥珀色に変色していた。
「うん……そうみたい」
どことなく微妙な顔をしながら返ってきた言葉に安堵したように肩を落とした。
そして、ふっと笑うと瞳を元の琥珀色に戻した。
「それにしてもお前、何やられたんだ? すげぇ微妙な顔してるけど」
「……レイはこうなること知ってたの?」
馬鹿にしたように笑う礼志に、むっとしながら今しがた自分の身に起こった出来事を全て知っていたのかと問いを投げた。
「ああ、知ってたぜ。俺も同じ『鬼』だからな。……ははっ、それにしても随分なことやられたみたいだな。まぁ本当に聞く気はねぇから安心しろよ」
クツクツとした笑みから何となくどんなことが起きたのかが想像できているようで、至恩は再度むっとした。自分のことを殺そうとした相手との会話にしては随分柔らかいが、至恩のことをあれでも結局は生かそうとしての行動なのだから文句も出ない。
……思い出すだけで寒気がするけ…ど?
「てゆうか、僕に殺意を抱かせようとかしてたみたいだけど結局意味ないじゃん⁉」
そうだ。あれはやはりおかしいのだ。結局レイに殺意なんか芽生えなくても解決できたのだから。
「あー、そうだな」
特にこれといった感情がない口調で肯定された。
「なっ⁉ 見てレイ、僕の顔! この傷だらけの顔を!」
「うるせぇな。俺のときはああだったんだよ。仕方ねぇだろう『鬼』のことなんてよく分かんねぇよ。よく分かんねぇから同じ『鬼』としてのケースを試したんだ」
「なんだよそれぇ……死ぬかと思ったのに……」
鬼はこの地下街からしても最高のレアリティを持っている。加えて、見つけたら即刻処分するように懸賞金まで掛けられているのだ。礼志も地下に来て一月程しか経っておらず自分と同じ存在に出会っていなかったとしても不思議はない。
「それに、もうお前に傷なんてないぞ。体の痛みだって無くなっているはずだ」
「はぁ? 何を言って…………あれ⁉ ホントだ!」
礼志に文字通りボコボコにされ血まで吐いていた体の痛みは消え、折れた肋骨を確認するために動かしてみるが全くの異常がみられなかった。
「どうなってんの、これ?」
「鬼人化による効果だ。傷の再生が早ぇんだ……そろそろ鬼人化解いたらどうだ? あんまり長くその状態でいないほうがいいぞ?」
「へぇ……便利なんだね。僕って今鬼人化してるんだ? どうして僕がその状態なのわかるの?」
「眼だよ。鬼人化してる最中は鬼の瞳を引き継ぐんだ。でもあんまその状態でいると腹が減っちまうから頼り過ぎないほうがいい」
「お腹が減る? いや、戻り方は?」
きっとパンが食べたくなるとかじゃないんだろうなと至恩は思った。
「鬼に言えばいい。眼を瞑って話をすればいい」
「えー、また会わなくちゃいけないの?……やだなぁ」
大きな溜息をしながら瞳を閉じた。
あー、あのーちょっといいですかー?
『……なんだ、随分と早いのぉ。もう殺したのかぇ?』
殺す? 僕は誰も殺してないよ。
『うん? 先程まで大層やられておっただろう。あやつは殺さなかったのか?』
え? ……殺さないよ。僕の旧友だし。
『……あれほどまでに其方を傷つけていた者が友とな? おかしなことを申すの」
おかしなことか……ははっ、確かにおかしいよね。それよりも、鬼人化解いてよ。
『鬼人化? ……ああ、力を貸してやったことか。いやそれより、其方今解いてくれといったか?』
そうだよ。もう必要ないから。
『何をゆうておる。気まぐれとはいえ妾が力を貸してやったのだぞ? 何故解くなどと申しておる』
え……こういえば解けるんじゃないの? えーと、ごめん。話変わるけど一つだけ聞かせて、さっきあなた『供物を届けるがよい』って言ってたよね。あれは人のこと?
『当然だろう。妾は鬼だぞ。人の生き血を欲するのは至極自然だろう?』
やっぱりか……お腹が空くってものきっとそうなんだろうなぁ。……やだなぁ。じゃあ、アプローチを変えるよ。あなたは僕が死んだら困る?
『困りはせぬが、うーん……少しつまらぬな。せっかく妾にとって面白い人間だからな。お主が死ねば惜しい気持ちがもしかしたら芽生えるかもしれん』
このまま鬼人化してお腹が空いちゃうと、人を食べたくなると思うんだ。そしたら僕は殺されちゃうんだよ。大勢の人からね。皆、鬼殺しのプロだ。あなたの力を使えるとはいえ、僕は成す術もなく殺されちゃうと思う。だから、今は鬼人化を解かせてほしい。
『知らん。この妾が力だぞ? なんとかせよ。妾は知らぬ。女の前で情けないことを申すなよ童』
ぐっ……まぁ、確かに。
『認めるのか。変に素直なところがあるのぉお主は。人と会話など久しくしておらんかったから少し愉快だ』
あなた人と会話したのってどれぐらいぶり?
『……よう覚えておらんな。妾が生おった頃だから数百年といったところだろうな。まさかこのような小僧の元に転生するとは思わなんだ』
…………そう。あなたの名前を教えてくれよ。
『唐突だな。別に構わぬが、わらわの名は呉葉という。』
あなたの名前を呼ぶときには敬称付けたほうがいい?
『いらぬいらぬ、敬称など。生前にさんざん付けられてうんざりしていたものだ』
そうか、じゃあ呉葉。僕と取引をしよう。
『取引? ほう、この妾と取引か。そんなことほざく輩は妾の長い人生でもそうおらんかったぞ。うふふっ、興が乗った。よいだろう申してみよ』
うわ、今の笑い方すごくかわ……おっと違う違う。えーと、僕は鬼人化を自由に制御できる権利が欲しいんだ。
『うむ。では何を差し出す?』
僕が差し出すものは、時間だ。
『時間とな? どういうことだ?』
毎日、寝る前にでも話し相手になってあげるよ。その日在ったこととか、僕が知ってるお話を聞かせてあげる。
『その程度の代償で、妾から権利を奪おうというのか? 其方、妾を馬鹿にしているのではなかろうな?』
馬鹿になんてしてないよ。女性ならお話が好きかなって思っただけ。それに、もう何年も人と話していないんだろう? 僕だったら寂しいからさ。
『……そんなこと言っておるが、本当は其方が妾と話したいだけではないのか?』
あっ、バレた? 最初に言ったでしょう。呉葉は僕にとって魅力的な女性なんだよ。
『うふふっ、本当に変なところで素直な童だ。……よいぞ。その素直さに免じて力の制御の権利をやろう』
ホントに⁉ やったー! ありがとう呉葉‼
『感謝せよ。……そういえば其方の名を聞いておらなんだな。これから話をするには必要かもしれん。申してみよ』
僕の名前は至恩。立花至恩だよ。これからよろしくね呉葉。
『ああ、長い付き合いになるか分からぬが、精々妾を楽しませてくれ』
「よし、解けたよ」
瞑った眼を開き翠の瞳で至恩は言った。
「長かったな。鬼が渋ったか?」
「うん。でもちゃんと話したら解除してくれた」
「お前の鬼は物分かりいいんだな。羨ましいぜ」
「……いや、そんなに物分かりはよくないと思うけどね」
顔を顰めた礼志の様子からして、彼の鬼も余程の者らしい。
「あーはは、鬼の力の獲得おめでとう」
すると、2階から“ニヤケ面”がやってきた。手すりに肘を付けて顎に手をやっていた所為で右頬が赤い。
「うん。ありがとうございます」
「御影もよくやってくれた」
「ああ、自分でもよくやったと呆れるぜ」
礼志は左肩を摩りながら皮肉な笑みを浮かべた。
「そういえばレイ、左肩大丈夫なの? 剣が刺さって血がいっぱい出てたけど」
「ああ、鬼人化して治した。おかげで少し腹減っちまった」
その言葉で思い出すように至恩は聞く。
「鬼がお腹減ると人食べたくなるみたいだけど。いつか僕、人食べなくちゃいけなくなる?」
至恩は一番懸念していることを、答えを持っているだろう同じ鬼に問う。
「……そうだ。近い将来、お前は人を喰らい、真っ赤になって陶酔する。そのときの快楽は罪悪感や後悔など置き去りにして、次なる供物を求める。俺たち鬼が生きる上で背負う業だ」
「…………」
遠い目をしながら語る初めて見る旧友の表情に冷たい汗が頬を伝った。
「死にたくなったらいつでも言うといい。鬼の首は高値で売れる」
死神の鎌のように口端を曲げてアーデルは微笑んだ。
「……そのときが来たらお願いするよ、アーデル団長」
「いい返事だ。ようこそ騎士団へ、歓迎するよ」




