チートデイ:福岡の空に愛を唄う
『チートデイとは、ダイエット中にあえて食事制限をゆるめて、好きなものをおいしく食べる日のこと。厳しい食事制限は、心にも負担がかかるもの。毎日がんばる貴女も、ときには食事を楽しんで、無理なくキレイを――』
美容室のタブレットで電子雑誌を読みながら、私は「ふーん」と声を漏らした。
(お酒ばっかり飲んでる私は、毎日がチートデイだな……)
タブレットの画面を指で送ると、次のページはパーソナルカラー特集だった。
私は“イエベ秋”。診断アプリでもそう出たし、友達にもよく言われる。リップはテラコッタ、アイシャドウはブラウンがおすすめらしい。
だけど似合う色がわかったところで、急におしゃれになるわけじゃない。それでもキャメルのコートだけは持っていた。
「百瀬さん、長さはいかがですか?」
鏡越しに、美容師さんが尋ねてきた。改めて髪を眺める。
(やべー……思ったより切られた……)
「バッチリです! ありがとうございます!」
笑顔で答えると、美容師さんは鏡の中でほっとしたように見えた。シャンプーのあと、ドライヤーの温風が耳元をかすめる。
そのとき、店内のBGMが切り替わった。ギターの前奏に、女性の声が重なる。
「あっ! この曲、知ってます? 私好きなんですよね」
「私も好きですよー、八雲様ですよね」
美容師さんの顔が、鏡の中でぱっと明るくなって続ける。
「いつかライブ、行ってみたいなぁ」
そんなやり取りをして、会計を済ませると店を出た。夜風が首筋に当たって寒い。
(この店も、2度と来ないんだなぁ……)
私は、行きつけの美容室を作らない。初回限定の割引を見つけては、毎回違う店を予約する。同じ店には、決して行かない。
* * *
福岡に来て、もうすぐ3年になる。
新入社員研修で東京の本社に集められたとき、同期はみんな目がぎらついていた。
その日の研修を終えて夜になると、居酒屋で飲んだ。そして、お互いの今後のキャリアについて言い合う流れになった。
「私、マーケティング部に行きたいなぁ。うちの会社の製品を、みんなにもっと知ってもらいたくて」
私がそう言うと、隣の席の同期が、真面目な顔で続けた。
「俺は、支店で経験積んだら、営業企画部で働きたいな」
すると、お調子者の同期が手を挙げて言った。
「それなら俺は……社長!」
同期たちの笑いが起きた。気づけばハイボールのジョッキを空けていた。
最初の配属が福岡と聞いたときは、少しだけがっかりした。
(最初から本社に配属はないか……)
そう思ったけれど、福岡支店のある博多での日々は――本当に最高だった。
仕事終わりに先輩と寄る屋台も、休日前のビールも、いつの間にか手放せなくなっていた。
そして先週、人事の発令が出た。
知っている名前の中に、本社に異動する人は1人もいなかった。
あの居酒屋の席で、社長になると言って笑いを取っていた同期はすでに退職していた。スタートアップの会社に転職することを、同期グループのチャットにつぶやいて去っていった。
先日、課長と飲んでいる際に聞いてみた。本社にはどうやったら行けるんですか、と。
「うちの会社で本社に上がるのは、どんなに早くても7、8年目やけんね。俺らの世代は、10年目でも誰もおらんかったと」
福岡支店に長くいる課長は、博多弁交じりにそう言うと、焼き鳥の串を皿に置いた。
「そうなんですねー!」
笑ってそう返すと、課長は「支店が一番楽しいとよ」と言って、ビールを一口飲んだ。
私は笑ったまま、目の前のジョッキの水滴を、指でなぞり続けていた。
* * *
歩きながら、頭の中でさっきの曲が続いていた。八雲玲於奈の曲。私は、彼女を知っている。
彼女はアイドルユニット、aNo2マスのメンバーの1人だった。
aNo2マスを初めて知ったのは、大学生のときだった。顔をはっきり見せない2人組のアイドルユニットで、年齢も非公表。それでも彼女たちの呼び名だけは決まっていた。
NaちゃんとNoちゃん。
Naちゃんは背が高く、すらりとしていた。その声は芯があって力強い。
一方、Noちゃんは小柄で、柔らかな歌声。その仕草まで可愛らしい。
WEBで公開されているミュージックビデオには2人のシルエットや衣装だけが映る。その顔がはっきり見えなくても、人々を惹きつけられる強さと可愛さが十分伝わった。
そしてaNo2マスは、私が初めてライブに足を運んだ存在でもあった。
2000人ほど入る会場の客席は、3分の1も埋まっていなかった。会場のライトが彼女たちの表情を影で覆い、よく見えない。
それでも、かわいらしい衣装をまとった2人が歌い、踊る姿から、私は目が離せなかった。
曲の合間に、Noちゃんがマイクを握った。
『今日は、来てくれて……本当にありがとうございます。えっと、すごく緊張してます……』
高くて柔らかい声が、まばらな客席にふわりと広がった。ダンスをしながら歌う2人。
だけど――ライブの終盤、Noちゃんはその場に倒れてしまった。
照明が落ち、ライブはそこで終わった。
あれが、私の初めてのライブ参戦。そして、2人の最後のステージだった。
ライブからしばらく経って、所属事務所から活動休止が発表された。やがて、ユニットは解散した。
私が好きになったアーティストは、なぜかいつも活動休止、そして解散をする。
推しを終わらせる呪いでも、自分にはあるんじゃないか、と友達の前で冗談めかしていた。
八雲玲於奈の声を初めて聞いたのは、aNo2マスが解散して、1年近くが経ってからのことだった。
(間違いない。だって、この耳で聞いたんだから)
あのときのNaちゃんの声は、形を変えて、今も街に流れている。
Noちゃんの声だけが、どこからも流れてこない。
* * *
美容室から帰宅すると、冷蔵庫からビールを出した。スーパーで買ったなめろうと、適当なお惣菜も並べる。
(髪切ったし、今日もチートデイにしようかな)
雑誌に載ってた知識を早速実践する。
ローテーブルにノートパソコンを広げて、動画サイトを開く。思い出したように、八雲玲於奈の動画を数本流したあと、aNo2マスの曲を探して再生した。
曲は『Eclipse』。Naちゃんの声に、Noちゃんの声が重なる。
曲が終わっても、しばらくビールに口をつけなかった。
動画サイトが、次のおすすめ動画を並べてくる。八雲玲於奈の関連動画。そのまた関連動画。その並びの端に、サムネイルが真っ黒なライブ配信があった。
その黒が、なぜだか私の気を引いた。
タイトルは『初めて生配信します』。
左上には、フードをかぶったハムスターの小さなアイコン。現在の視聴者は1人だけ。
八雲玲於奈とも、aNo2マスとも、全然関係なさそう。おすすめ機能は、ときどき謎のチャンネルを連れてくる。でも、妙に気になった。
(ちょっと見てみる?)
冷やかし半分で、缶を片手に、クリックした。
配信画面は真っ黒なまま、何やらがさごそと音がしている。
「あ、あれ? これ、映ってますか? えっと……音は聞こえてます?」
女の子の声だった。高くて、柔らかい。
(声が、Noちゃんに似てる……あ、声マネとかやってる人? あ、だから、おすすめに出てきたのかも……)
「すみません、初めてで……設定が、ちょっとよくわからなくて……」
表示される視聴者数が、2から1に減った。先に来ていた誰かが出ていったらしい。残ったのは私だけ。
(初めてなら、仕方ないか……)
少し酔っていた私は、缶を置いて、適当な名前でコメント欄に打ち込んだ。
『頑張ってください!』
「あっ、ありがとうございます!」
声が弾んだ。
「今日は、来てくれて……本当にありがとうございます。私の姿も映るはずなんですけど……どうしてかなぁ……」
マイクに指が当たる音。椅子の軋む音。
そんなことよりも――彼女の声が耳に残った。
「せっかく来てくださったので、ちょっと歌ってみてもいいですか? 自信ないですけど」
ギターを鳴らす音のあと、画面は暗いまま、声だけが流れた。ほんの一節。鼻歌に近い、小さな歌声。その合間に、息を吸う音が入った。
膝の上に置いていたはずの手が、いつの間にか、ぎゅっと握られていた。
(やっぱり……もしかして……)
キーボードに文字を打ち込む。
『Eclipse、歌えますか?』
彼女は、少し黙った。
「……Eclipse?」
さっきまで弾んでいた声が、細くなる。
「あの……私の知ってるEclipseで、いいですか? 違ってたら、ごめんなさい」
ギターの弦が、1度だけ鳴った。ためらうような短い音。それから、歌が始まった。
画面は真っ黒なまま、彼女の優しい声が響く。
忘れられない声。
いつか聞いた、あの声。
最後の音が消えるころには、私の指は自然に動いていた。
「……ふぅ。緊張しちゃいました」
照れたような笑い声が、真っ黒な画面から聞こえた。
「あっ!」
声が、ぱっと跳ねた。
「チャンネル登録、ありがとうございます! やったー! 最初のチャンネル登録者さんだー!」
はしゃぐ声に、私はふっと息を漏らして笑った。視聴者はやっぱり私だけ。それでも彼女は、嬉しそうに話し続けている。
「ほんとは、誰も来てくれなかったらどうしようって思ってました。来てくれて、ほんとにありがとうございます! あ、まだ画面真っ暗のままだ。どうしよう……」
聞こえてくる無邪気な声。
その真っ暗な画面の中に、映る自分。
下唇を噛んで、瞬きもせず、ただ黙ってこちらを見ている。その輪郭は、揺らいでいた。
「あ!」
思い出したかのような、彼女の声。
「今日は星がすごく綺麗ですよ。そっちからも、見えるのかなぁ」
向けられた声に釣られて、窓の外を見た。建物の隙間から、小さな星がいくつも覗いている。
見上げた夜空は、彼女の言ったとおり綺麗だった。きっと、この街に来てから一番の景色。
(ここに、いたんだね……)
滲んだ星たちが、いつまでも瞬いていた。




