DAY2:取り調べを受けて、優勝する
「無事で良かったです。あの、余計なお世話かもしれないですけど、ベンチプレスって結構難しいので、最初はあそこのマシンとかのほうが安全かもしれないですね」
そう声をかけると、女性は何度も頭を下げた。
「本当にすみません。ありがとうございました」
「いえ、大丈夫です」
女性はもう一度、深々と頭を下げる。
「……終わります」
小さくそう言い残すと、スマホを片手に持ちながら、備え付けのアルコールシートを手に取った。
先ほどまで自分が使っていたベンチを丁寧に拭き取ってから、女性はその場を去っていった。
俺はその背中を見送る。
(……あの人、大丈夫だったかな。というか、男の俺にいきなり声をかけられたから、びっくりしたよな。うーん。でも、仕方なかったよな……)
そう自分に言い聞かせる。
その後、少しだけランニングマシンで歩いてから、俺も家路についた。
そして、次の月曜日。
いつも通り出社し、昼休みになる。
俺はコンビニで買ってきたおにぎりを持って、休憩スペースで昼食を取っていた。
(運動だけじゃなくて、食事も気をつけたほうがいいかな)
そんなことを考えていると、聞き慣れた声がした。
「やっほー」
顔を上げると、同期の百瀬が立っている。
「今日はおにぎり?」
「ああ、そっちは?」
「私はお弁当持ってきた」
百瀬が弁当箱を見せる。
「へえー。料理やるんだな」
「まあねー」
そんな何気ない会話を交わしていると、ふと、部の先輩から聞いた話を思い出した。
マーケティング部は最近忙しいみたいだ、と。
「そういえば、最近忙しいんだろ? 百瀬は大丈夫か?」
「……!」
百瀬の動きが止まった。
そして、なぜか意味深な表情で俺を見る。
「ごめん、もう一度、今のセリフ言って?」
「え? いいけど……」
俺は首を傾げながら、もう一度言った。
「百瀬は大丈夫か?」
「うーん」
百瀬は何やら考え込んでいる。
「五十嵐くん」
「どうした?」
「今から私の質問に答えて」
「は?」
百瀬が真剣な顔をする。
「最近、ジムに通い始めた?」
「ああ、そうだけど」
その瞬間――百瀬の目が光った。
「それさ、夜に行った?」
「行ったよ、一昨日の夜に」
「……あのさ」
百瀬が少し身を乗り出す。
「そのとき、女の子、いなかった?」
「女の子?」
「ベンチプレスしてたと思うんだけど」
「なんで知ってるんだよ? たしかにいたけど」
答えると、百瀬は何かを確信したような顔になった。
(……え。監視でもしてるの?)
すると百瀬は、突然声を発した。
「五十嵐くん」
「ん?」
「今日の18時、あの居酒屋で集合ね。予約しとくから」
「え、なんだよ急に」
「いいから! 業務命令! じゃあね!」
「分かったよ。って、いつから俺の上司になったんだよ」
俺のツッコミには答えず、百瀬はさっさと去っていった。
* * *
仕事を終えると、俺は約束通り会社から徒歩10分ほどの場所にある、裏通りの居酒屋へ向かった。
店の前まで来て、ふと思い出す。
(ここに来るのも久しぶりだな)
入社したばかりの頃。
本社での研修期間中は、百瀬を含めた同期の何人かで、よくこの店に足を運んでいた。
そんなことを思い出しながら店に入る。
「すみません、百瀬で予約してると思うんですが。2人です」
「はい、こちらです」
店員に案内され、奥の個室へ向かう。
引き戸を開ける。
すると、そこには顔の前で手を組み、神妙な表情で座っている百瀬がいた。
「待っていたよ、五十嵐くん。座りたまえ」
(なんだよ、その口調)
俺は言われるまま席についた。
「で、何だよ、今日は」
すると百瀬は、わざとらしく演技がかった声で言った。
「五十嵐くんに伝えねばならぬことがある」
「はい、何でしょうか」
つられて俺まで妙に改まった返事をしてしまう。
百瀬は、ゆっくりと顔を上げた。
「五十嵐くん……優勝です!」
「え?」
「私の推し、いや、姫を救ってくれてありがとう!」
そう言って立ち上がると、百瀬は深々と頭を下げた。
「……優勝ってなんだよ」
(何の大会だ。いや、それ以前に話が見えない。あと、姫ってなんだ……)
「いや、さっぱり分からんのよ。俺にも分かるように説明をお願いできるかな?」
「じゃあ手短に言うね」
百瀬は顔を上げる。
そして、真剣な表情で言った。
「君は2万人の前で、ヒーローになったんだよ」
「いや、もっと分からん!」
「まあ、まずはお酒でも飲もうよ。生でいいよね?」
「ああ」
百瀬はタッチパネルを操作し、生ビールを2つ注文した。
「夜は長い」
百瀬は意味深に笑う。
「君に聞きたいことが山ほどあるのだよ。フフフ……」
邪悪な笑みを浮かべながら、百瀬は俺の顔を見つめた。
(……なんだろう。嫌な予感しかしない)
* * *
「――整理すると、ジムにいた女の子が配信をしていて、俺の会話が流れていたってことでいいかな」
百瀬が教えてくれたことを整理して、俺は確認した。
百瀬はアジのなめろうを箸の先でちょっとだけすくい、口に運んだ。目を細め、すかさず日本酒のグラスを傾ける。
「そうだけどー」
頬がほんのり赤い。皿のなめろうは、もう半分もない。
「なんかー、もっとー、感動してほしいんだけどー」
「急にギャルみたいになったな」
百瀬が身を乗り出す。
「2万人が視聴だよ? アリーナなら満員だよ?」
「全然ピンとこないんだよ、そういうの詳しくなくてさ」
俺は苦笑する。ふと疑問が湧き上がる。
「というか、よく俺の声って分かったな」
「あー、声の感じ、まんまだったし。話す感じとか。もしかしてと思って」
「で、百瀬は、その子の配信を見てるのか?」
「そう!」
百瀬は勢いよく頷いた。
「さっきも言ったけど、一色ノアちゃんね!」
「一色ノア……」
その名前を繰り返す。
百瀬によると、一色ノアはチャンネル登録者が数百万人を誇るVTuberで、その界隈では知らない人はいないほどの有名人らしい。
「なんで、その子がジムに?」
「あー、いつもは歌とかゲームとかしてるんだけど、引きこもってることが多いみたいで、最近ジムに通いだしたの」
「へえ」
「それで、リスナーから『配信してほしい』って要望があって」
「ああ、それで」
俺はようやく話が繋がった。
「普段そんなことしないのにね、ノアちゃんは真面目だからさ。リスナーの声に応えるために、ジムにもちゃんと確認して、人が少ない時間帯に、映り込まない前提で音声だけで撮影してたんだよ」
「なるほど」
あのときの状況を思い出す。
たしかに、周囲を気にしている様子だった。
「それで、リスナーから『筋トレやってみて』とか『ベンチプレスして』とか言われて……」
百瀬はどんどん熱くなっていく。
「一生懸命その場で調べて、やったことないベンチプレスに挑戦して……」
彼女の声がうわずってきた。
「ノアちゃん、いや私の姫、いや私の存在意義を守ってくれてありがとう……」
「レゾンデートルって……あとなんでお前が泣くんだよ」
「だってぇ……」
百瀬が目元を拭う。
「危うく命を落とすかもしれないっていうときに、五十嵐くんが助けてくれたんだよ」
「まあ、たしかに」
俺はあのときの光景を思い出した。
「バーが胸に落ちてて、危なかったかもな」
「そうそう!」
百瀬は大きく頷いた。
「君になんとお礼をすればいいか……」
そして、少しだけ真面目な顔になる。
「リスナーを代表して、お礼を言うよ。本当にありがとう」
「……どういたしまして」
俺が答えると、百瀬は何かに気づいたように顔を上げた。
「え、ちょっと待って!」
「ん?」
「冷静に考えるとさ、ノアちゃん、五十嵐くんの近所に住んでるってこと?」
「まあ、そうなるんじゃないかな」
「あ、待って! 1番大事なこと忘れてた……」
百瀬の目が大きくなる。
「ノアちゃんの顔、見たってことだよね?」
「そりゃまあ」
「……」
百瀬が黙り込む。
「あー……」
そして頭を抱えた。
「どうしよー。ああ、聞こうかな。うーん、ちょっと待って。考えさせて。あー……」
(今度はなんだ?)
百瀬はしばらく悩んだあと、顔を上げた。
「決めた」
「何を?」
「聞かせていただきます」
そう宣言すると、百瀬が興味津々といった目で俺の瞳を覗き込んでくる。
「ノアちゃんって、どんな感じの子だった?」
「どんなって……」
俺は記憶を辿った。
黒髪。小柄。器具を使ったあと、ベンチを丁寧に拭く姿。そして、俺に何度も頭を下げていた。
(顔、あんまり覚えてないんだよなぁ……)
曖昧な外見を伝えるのも、百瀬が求めている答えじゃない気がした。
「……あくまで印象だけど」
俺は少し考えてから答えた。
「真面目で、可愛らしい感じだったと思うよ」
「……」
沈黙。
百瀬が俺を見つめている。
「五十嵐くん……」
「ん?」
なぜか、少しだけ緊張する。
百瀬はゆっくりと口を開いた。
「その言葉が、聞きたかった」
そう言って、俺に手を差し出した。
よく分からないまま、その手を握る。
「優勝です」
「あのさ、優勝ってなに?」
「あっ、ごめん。良いところで悪いんだけど、お手洗い行きたい」
そう言って、百瀬はそそくさとトイレへ立っていった。残された俺は、ただ彼女の背中を見送った。




