本当の私に戻る日
婚約解消が正式に可決された翌朝。
王立学園の敷地に建つグランヴェル公爵家の別邸にて、私は眩しい朝光の中で目覚めた。
鳥のさえずりが心地よく耳に届く。
いつもなら、目を覚ました瞬間から胸を締め付けていた重圧——「今日も王太子妃として完璧でいなければならない」「アレス殿下の支えにならなければ」という強迫観念のような使命感が、跡形もなく消え去っていた。
「……ああ、本当に終わったのね」
ベッドの上で体を起こし、自らの両手を見つめる。
息がしやすい。胸の奥が、驚くほど軽い。
毎朝重苦しかった王妃教育の課題も、アレス様からの直前キャンセルの報せに心を乱されることも、セシリア様の嫌味に冷徹に対処する必要も、もう何一つないのだ。
コンコン、と部屋の扉が静かに叩かれた。
「エレノア様、お着替えとお食事のご用意が整いました」
入ってきたのは、幼少期から私専属で仕えてくれている侍女のアンナだった。
彼女は私の顔を見るなり、息を呑み、涙ぐんだような笑みを浮かべた。
「エレノア様……そんなに穏やかなお顔をされたのは、何年ぶりでしょう」
「そうかしら、アンナ?」
「ええ。ここ数年のお嬢様は、まるで氷で作られたお人形のようでしたもの。……本当によく、耐え抜かれました」
アンナは深く頭を下げると、私が用意させた「それ」を恭しくテーブルの上に置いた。
そこに置かれていたのは、王太子妃候補としての華美で締め付けの厳しいドレスではない。
動きやすく上質な生地で作られた、紺色のシンプルな魔術師用のローブと、仕立ての良いスラックスとブラウスだった。
「今日からは、私の好きな服を着ていいのね」
「はい。公爵閣下からも『エレノアの望む通りの衣服と手配をせよ』と固く言われております」
鏡の前に立ち、ローブに袖を通す。
深く、息を吸い込む。
(私の人生が、ようやく私のものになったんだわ)
私は姿見に映る自分に向かって、小さく笑いかけた。
そこには、王太子の後ろを陰のように歩んでいた公爵令嬢ではなく、己の脚で立とうとする一人の女性がいた。
朝食を済ませた後、私は学園の奥深くに位置する『王立魔術研究院』へと足を向けていた。
アルフレッド王立学園は、貴族の嗜みとしての教養を学ぶ「普通科」のほかに、国中から一握りの才能を集めた「魔術科」、そしてその上校に位置する「魔術研究院」が存在する。
かつての私は、この敷居を跨ぐことすら許されなかった。
十二歳の頃、魔力測定で計測不能な数値を叩き出し、さらには古代の失われた属性の兆候が見られた際、当時の王会とアレス様、そして我が家の長老たちはこう告げたのだ。
『王妃となる女性に、そのような強大で過剰な力は不要だ。国家の均衡を乱し、夫である王太子を威圧することになる』
『その魔術の才能は封印し、淑女としての嗜みと政治的教養に全力を注ぎなさい』
私はその教えに従った。
己の内に渦巻く膨大な魔力に深く蓋をし、鍵をかけ、本を閉じ、ただ「つつましい王太子妃」として振る舞い続けてきた。
けれど——その鍵は、もう壊された。
研究院の重厚な鉄の扉を押し開けると、特有の羊皮紙と薬品、そして濃密な魔力の香りが鼻腔をくすぐった。
「失礼いたします」
静かな通路を進み、最奥にある院長室のドアを叩く。
「入れ」
短く重厚な声に応えて扉を開けると、一面の本棚に囲まれた部屋の中央で、一人の男が書類から目を上げた。
ルーク・フォン・サイラス。
アルフレッド王国において「最年少で魔術院長に上り詰めた天才」と称され、国王でさえ一目置く異能の男だ。灰色の髪に鋭い知性を宿した琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「やあ、グランヴェル公爵令嬢……いや、今は何と呼ぶべきかな? 王太子の『元』婚約者殿」
「エレノアとお呼びください、ルーク院長。私の身の上に起きたことを、既にご存じなのですね」
「当然だ。グランヴェル公爵家が王家との婚約を白紙に戻したという報せは、すでにこの国の裏の社会を駆け巡っている。……それで? 自由になった公爵令嬢が、何の用だね?」
ルーク院長は肘を組み、探るような視線を私に向けた。
私は一切の躊躇なく、彼と視線を交わした。
「約束を果たしに来ました。六年前、あなたが私に仰った言葉を覚えていますか?」
六年前。魔力測定の場で、周囲が私の過剰な力を恐れて封印を叫んでいた中、ただ一人、このルーク院長だけが私の耳元でこう囁いたのだ。
『いつかその不毛な王冠を投げ捨てたくなったら、私のところに来なさい。君の真の力を解放してあげる』と。
ルーク院長は一瞬、目を見開いた。
そして次の瞬間、彼の口元が楽しげに、野心的に歪んだ。
「……覚えているとも。よくぞその愚かな男を捨てて戻ってきた、エレノア。私の見込んだ通りの女性だ」
彼は立ち上がり、ゆっくりと私に近づくと、その細くしなやかな指先を私の額へと伸ばした。
「さあ、見せてくれ。王妃教育という愚行によって封じ込められていた、世界を穿つ君の『本当の姿』を」
彼の指先が私の額に触れた瞬間——。
私の中で数年間眠り続けていた膨大な魔力が、枷を破壊して、咆哮を上げながら溢れ出し始めた。




