大魔術師は『距離感』という魔法を知らない
世界を救う大冒険を終え、西の大峡谷を目指して悠々と空を飛ぶ『ステラ・グランヴェル号』。
事件が解決した船内これまで以上に穏やかで平和な時間に包まれていた。
「ふぅ……焼き立てのスコーンと温かい紅茶、最高ですわね」
甲板のテーブルで優雅にお茶を楽しむ私、エレノア・フォン・グランヴェル。
王宮の鳥籠を飛び出し世界の理すら書き換える『大魔術師』と呼ばれるようになった私だけれど、こうして仲間と過ごす何気ない時間が一番の宝物だった。
「エレノア様ー! シオン特製のイチゴジャムも塗ってくださいなー!」
「ありがとう、シオン」
楽しそうに船内を走っていくシオンを見送り、私はふと操縦席へ視線を向けた。
そこには、操舵輪を片手にタバコの煙をふぅと吐き出しているルーク院長の姿があった。
長旅の疲労か、あるいは帝都での後処理の疲れか、どこか少しだけ眠たそうな顔をしている。
(ルーク院長……いつも私たちを守り、導いてくださって……少しお疲れなのかしら)
王宮にいた頃の私なら、遠くから遠慮して見つめることしかできなかっただろう。けれど今の私には彼の隣に立つ自由がある。
私は紅茶のカップを置くと無音の足取りでルーク院長のすぐ隣へと歩み寄った。
「ルーク院長」
「ん? どうしたエレノア、スコーンなら後で——」
ルーク院長が振り向こうとした瞬間、私は彼のおでこにそっと自分の額を押し当てた。
コツン……
「なっ……!?」
至近距離で重なる視線。
息がかかるほどの距離でルーク院長の琥珀色の瞳が大きく見開かれる。
「……エレノア? お前、なにを……!?」
「体温の確認ですわ。少しお顔が赤いようですけれど、お熱はございませんの?」
私は首を傾げながら、さらに顔を近づけてじっと彼の瞳を覗き込んだ。
王宮の看護室で見た「熱を測る手引き」通りの完璧な動作。魔術の回路を分析する時と同じくらい真剣に彼の顔色を観察する。
だが、ルーク院長はガタッと体を強張らせ、琥パー色の目を泳がせながら一歩後退した。
「ば、バカ者……! 急に顔を近づけるなと言っただろ! 俺は熱なんてない!」
「まあ、そうなのですか? ですがルーク院長、お耳まで真っ赤になっておりますけれど……」
「これは……タバコの火のせいだ! とにかく、年頃の娘が男にそんな無防備に近づくもんじゃない!」
ルーク院長はどこか焦ったように口元を片手で覆い、視線を明後日の方向へと逸らしてしまった。
(タバコの火で耳が赤くなる……? ふむ、ルーク院長ほどの魔術師でも、体の仕組みには不思議なことがあるのですわね)
私が感心しながら納得していると物陰からコソコソと覗いていたシオンが、顔を真っ赤にして「エレノア様、無自覚攻撃すぎます……!」と頭を抱えていたのだった。
世界を救った最強の大魔術師エレノア。
しかし彼女は、自分が放った『無自覚な距離感の近さ』という不意打ちが、かつてどんな強敵の攻撃よりも深くルーク院員の心を乱したことにまったく気づいていないのであった。
新章はじまりました。
よろしくお願いします。




