決別、そして帝国の空へ
王都全体が重苦しい暗雲に包まれる中、グランヴェル公爵家の敷地内にある魔導飛行船の発着場には、澄み切った朝の光が差し込んでいた。
眼前には、グランヴェル家の最新技術と『星辰魔術』の理論を結集して建造された巨大な白銀の魔導飛行船『ステラ・グランヴェル号』が優雅にたたずんでいる。
「お嬢様、お荷物の積み込みが完了いたしました」
「ありがとう、アンナ」
アンナに微笑みかけ、私は旅立ちの装いを整えた。
今日、私は父やルーク院長、そしてシオンと共に、ルーヴェン帝国からの正式な国賓として旅立つ。
アルフレッド王国の混乱をあとにし新たな知識と出会いが待つ広い世界へと飛翔するのだ。
「エレノア、準備はいいかい?」
乗降口のタラップから、ルーク院長が可笑しそうに声をかけてくる。
その隣ではシオンが「すごいですよエレノア様! エンジンの魔導回路がめちゃくちゃスムーズに動いています!」と興奮気味に手を振っていた。
「ええ、今行きますわ」
私がタラップに足をかけたその時——。
「待ってくれ……! 頼む、待ってくれ、エレノアぁぁっ!!」
遠くの門扉を強引に押し開け、身なりをひどく乱した男がなりふりかまわず走ってきた。
アレス殿下だ。
かつての華やかで傲慢な面影はどこにもない。
上質な上着は破れ、目は落ち窪み、髪はボサボサに乱れている。
王宮から脱走してまでここに駆けつけてきたようだった。
「アレス殿下……?」
私が立ち止まって振り返ると、アレス様は私の足元へ滑り込むように膝をつき必死の形相で縋りついてきた。
「エレノア……! 悪かった、俺が悪かった! セシリアなんかに惑わされた俺が愚かだったんだ! 君の本当の価値に、君の優しさに気づけなかった俺を許してくれ!」
「殿下、おやめください」
「頼むから戻ってきてくれ! 君さえ戻ってくれれば、王家の財政も、外交も、すべて昔みたいに元通りになる! 俺の妻になってくれ! 今度こそ君を大切にする、一生愛すると誓うから……っ!!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、情けなく叫ぶ元婚約者。
かつてあれほど恐れ、逆らえなかった「王太子」の変わり果てた姿に、私の胸に湧き上がってきたのは怒りでも復讐心でもなく——ただただ底冷えするような「虚無」だった。
「……アレス殿下」
私は冷ややかな瞳で、足元にすがる男を見下ろした。
「一つ勘違いをされておられます。私が貴方のお傍にいたのは、貴方を愛していたからでも、王太子の権力に服従していたからでもありません。『それが私の課された義務であったから』……それだけです」
「な……っ!?」
「ですが、貴方ご自身がその義務を破棄し、私を捨てられました。……もう、私と貴方を繋ぐものは何一つ存在いたしません」
「そんな……嘘だろ、エレノア!? 俺を見捨てるのか!? 国を見捨てるというのか!?」
「私を見捨てたのは、アレス殿下、貴方です」
私は静かにすがりつく手を振り払うと、一度も振り返ることなくタラップを登り切った。
「出航だ!」
父アルベルトの豪快な号令と共に、魔導飛行船の巨大な魔導機関が低く心地よい唸りを上げる。
舟体がふわりと浮き上がり、滑らかに上空へと舞い上がっていく。
眼下には、急速に小さくなっていく王都の街並みと、地の上に一人取り残されただただ呆然と空を見上げるアレス殿下の情けない姿が見えた。
「すっきりした顔をしているな、エレノア」
船首に立つルーク院長が私の隣に並んで髪を風になびかせた。
「ええ。……長かった私の『王妃教育』は、これで本当に終わりですわ」
私が微笑むと、ルーク院長は不敵で優しい笑みを浮かべ、俺の手をそっと握りしめた。
「ああ。これからは君自身の人生だ。……さあ、見に行こう。君が切り開く、新しい世界を」
白銀の飛行船は雲を突き抜け、果てしない青空と光り輝く帝国の空へと向かって力強く羽ばたいていった。




