元婚約者の本当の価値
王宮にある王太子の自室。
かつては美しく整えられていた部屋には、今や未処理の書類が山のように積み上がり重苦しい静寂が満ちていた。
俺——アレスは、乱れた髪を掻きむしりながら一人デスクに伏していた。
「なぜだ……どうしてこんなことになってしまったんだ……」
晩餐会での大失敗以来、俺の立場は急転直下で悪化していた。
ルーヴェン帝国からの抗議文、国内の貴族たちからの不信感、そして父上——国王陛下からの激しい叱責。
さらに追討ちをかけるように、街ではグランヴェル公爵家が売り出した『通信魔導具』の噂でもちきりだった。
「グランヴェル家はすごいな。あんな魔法のような道具を発明するなんて」
「それに比べて王家は……外交で大恥をかいて、経済もガタガタじゃないか」
壁の向こうから聞こえてくるような世間の声が、脳裏にへばりついて離れない。
「アレス様……お食事を持ってまいりましたわ」
怯えたような声と共に、セシリアが部屋に入ってきた。
だが、その姿を見た瞬間、俺の胸に湧き上がってきたのは愛おしさではなく激しい鬱屈とした苛立ちだった。
「セシリア……君はまた、王妃教育の時間を抜け出してきたのか?」
「だって……! 教育係の婦人があまりにも意地悪で……! 私、アレス様のお顔が見たくて……」
可憐に涙を浮かべるセシリア。
かつてなら「なんて健気なんだ」と抱きしめていたはずの姿が、今の俺にはただの「現実逃避」にしか見えなかった。
(なぜ、勉強しないんだ? なぜ、努力してエレノアのようになろうとしないんだ……!?)
その思考に至った瞬間、俺は自分自身の心の声にハッと息を呑んだ。
俺は……セシリアに、エレノアの代わりを求めているのか?
「アレス様……?」
「……セシリア。少し一人にしてくれ」
「えっ……? でも、私——」
「一人にしてくれと言っているんだ!!」
俺の怒号にセシリアはビクッと体を震わせると、泣きながら部屋を飛び出していった。
静まり返った部屋で俺は力なく椅子に深く沈み込んだ。
頭に浮かぶのはいつだって冷徹で感情を見せなかったエレノアの姿だ。
あのアスファルトのように冷たい表情の裏で彼女がどれほどの仕事をこなしていたのか。
俺が「王太子」として威張っていられるように、どれほどの泥をかぶり、どれほどの根回しをし、どれほどの知識を蓄えていたのか。
彼女はただの「冷たい置物」ではなかった。
俺という未熟な王太子を、完璧な王にするための「最強の相棒」だったのだ。
「エレノア……君は、あんなにすごい才能を持っていたのか……?」
グランヴェル家を大躍進させている『通信魔導具』の核心に、エレノアの魔術理論が関わっているという噂も耳に入っていた。
俺が「王太子の重圧に不要な力」として封印させたあの魔術が、今や世界を動かしている。
俺は……俺の手で、世界で最も価値のある宝物を投げ捨ててしまったのではないか?
「くそっ……! くそっ……!」
湧き上がる猛烈な後悔と恐怖に、俺はただ震えることしかできなかった。
だが、時計の針は戻らない。
壊れ始めた王国の崩壊は、すでに誰にも止められない速度で加速していた。




