王妃教育ってこんなに大変なの?(セシリア視点)
「——違います、バークレイ令嬢! 姿勢が崩れています! 先ほど教えたばかりでしょう、東方の使節に対する最敬礼は角度が五度浅いのです!」
「ひっ……! す、すみません……!」
王宮の一室。厳しい表情をした年配の教育係の婦人から飛んでくる容赦のない怒号に私は思わず肩をすくませた。
頭の上には分厚い本を載せられ、背中には姿勢を矯正するための木枠を括り付けられている。
ドレスの中は汗でぐっしょりと濡れ、足首はヒールの高さに悲鳴を上げていた。
(なんなのよ、これ……! こんなの、聞いてないわ!)
私は心の中で必死に呪詛を吐き捨てていた。
エレノア様とアレス様の婚約が解消され、私がアレス様の「真実のパートナー」として王宮に招かれた時はまるで夢のようだった。
豪華な部屋、美しいドレス、アレス様からの甘い言葉。
これからは王太子妃とし、誰もが私にひざまずき、ちやほやされる華やかな日々が始まるはずだったのだ。
それなのに、待っていたのは地獄のような「王妃教育」の詰込みだった。
「いいですか、バークレイ令嬢。あなたは来週の晩餐会でアレス殿下の隣に立つのです。隣国の歴史、主要な貴族の家紋と人間関係、さらには羊毛と鉱石の貿易協定の数値……これらを明日までにすべて暗記してください」
「えっ……? あ、暗記って……こんな分厚い書類をですか!?」
「当たり前です! エレノア様はこれらをすべて十二歳の時点で完璧に頭に入れ、十五歳からは独自に修正案まで提示しておられましたよ! あなたはもう十七歳なのですから、それくらい出来て当然でしょう!」
教育係の冷たい視線が針のように私に突き刺さる。
比較。どこへ行っても、何をしても、引き合いに出されるのは「エレノア」の名前だった。
「エレノア様なら、一度説明すれば完璧に理解されました」
「エレノア様は、このような初歩的なマナーで時間を潰すような真似はされませんでした」
「バークレイ令嬢、あなたは本当に王太子妃としての自覚がおありなのですか?」
(うるさい! うるさい! うるさいわよ!!)
私は必死で怒りを噛み殺した。
あんな愛想のない、氷のような女にできることが、この私にできないはずがない。
アレス様だって「君は可憐で素晴らしい」と褒めてくれたのだから。
けれど——書類を開いた瞬間、私は眩暈を覚えた。
そこに書かれているのは、見たこともない複雑な外交の専門用語と膨大な数字の羅列。
隣国の言葉で書かれた手紙にいたっては暗号にしか見えない。
「ア、アレス様……! 私、もうダメ……」
夜、疲れ果てて訪ねてきたアレス様の胸に私はいつものように儚げに泣きついた。
「どうしたんだい、セシリア!?」
「王宮の皆様が、私に冷たいのです……! エレノア様と私を比べては『こんなこともできないのか』と意地悪ばかりなさって……私、恐ろしくて涙が止まりません……!」
いつものように可憐に涙を流せば、アレス様が優しく抱きしめて「教育係を叱っておくよ」と言ってくれると思っていた。
だが——。
「っ……そ、そうか。……だがセシリア、来週の晩餐会だけはなんとか頑張ってくれないか? 今、外交問題で父上からも厳しく追求されていて……君が完璧に立ち振る舞ってくれないと、俺の立場がないんだ」
アレス様の声にはいつもの甘さはなかった。
その顔には隠しきれない疲労と焦りの色が濃く滲み出ていたのだ。
(え……? アレス様、私を庇ってくれないの……?)
私を安心させるどころか、逆に縋るような視線を向けてくるアレス様を見て私の背筋に冷たいものが走った。
アレス様は「頼りになる王子様」ではなかった。
エレノア様という完璧な柱に支えられていたからこそ王子様らしく振る舞えていただけだったのだ。
その柱がなくなった今、私たちの足元は恐ろしい速さで崩れ始めていた。




