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本当に読む読者は、どれほど希少か

 ここまで述べてきたように、現代のweb小説創作環境では「評価される作品」が先に存在し、

 その後に「読まれる」という現象が続く。


 では、その中で——

 

 本当に作品を読んでいる読者は、どれほど存在するのだろうか。



 結論から言えば、驚くほど少ない。


 いや、少ないという表現すら生ぬるい。

 ほとんど存在しないと言っていい。



 本来、作品を読むと言う事は、どんな事か。


 作者の思考と正面から向き合う。

 その意図を受け止める。

 自分の中で咀嚼し、言語化する行為である。


 

 これは時間も労力も必要とする。

 そして何より、読者自身の思考を動かさなければならない。


 そう。これは国語の授業で散々目にした、文章読解問題と同じなのである。


 問2、作者はこの時どう思ってこの言葉を書いたか、答えよ。

 

 そう、国語が嫌いだと主張する人間が、最も嫌ったあの問いだ。


 

 いかがだろうか、本当に読むという行為が、突然重い物になったと思わないだろうか?



 だが現代の創作文化は、この重さを読者に要求しない。


 むしろ、要求しないことが礼儀とされている。


 頭を使わずに気軽に読める作品が好まれる。

 深読みは「面倒くさい」とされる。

 批評は「空気を壊す」と忌避される。

 作品への批判は「攻撃」とみなされる。


 こうして読者は、読むという行為の責任から解放されていく。


 結果として、作品は読まれたふりをされ、読者は読んだふりをする。



 では、希少な『本当に読む読者』はどこにいるのか。


 答えは簡単だ。


 沈黙しているのだ。



 なぜなら、彼らが誠実に感想を書けば書くほど、

 その言葉は「優しくない」とみなされるからだ。


 作品の矛盾を指摘する。

 構成の弱さを述べる。

 キャラクターの動機の甘さを指摘する。

 テーマの未消化を指摘する。


 これらは本来、作品を真剣に読んだ証拠である。


 だが優しい感想文化の中では、

 それらは『攻撃』として扱われる。



 だから彼らは沈黙する。

 あるいは、感想欄から姿を消す。


 そして残るのは、読むことを放棄した読まない読者だけだ。




 読む読者がいない世界では、作品は必然的に劣化する。


 なぜなら、作品を成長させるのは、作者ではなく読者だからだ。


 作者は自分の欠点を見つけられない。

 作者こそ自作の何よりのファンであり、自分が面白いと思って書くのだから、当然である。


 だからこそ、冷静な読者の視点こそが、作品の輪郭を整える。



 だがその読者が沈黙し、優しい感想だけが残る世界では、作品は改善の機会を永遠に奪われる。


 そして、作品は褒められながら死んでいくのだ。



 本当に読む読者とは。

 

 作者にとって最も厄介で、

 最も面倒で、

 最も手間のかかる存在だ。


 だが同時に、作品を救う唯一の存在でもある。


 

 作品の中身に触れる。

 作品の意図を探る。

 作品の欠点を見つける。

 作品の可能性を見抜く。


 そして何より作品を『作品』として扱う。

 この読者がいなければ、作品はただの褒められるための素材に堕してしまうのだ。




 この中には、それで良しとする作者も居られる事だろう。

 

 承認欲求が満たされればそれで良い。

 褒めてもらいたい。

 どうせ趣味でやってるんだから。


 きっと、このエッセイに異を唱えるのはこのような思考の作者達だろう。


 だが私は、それに対して「逃げ」だとはっきり申し上げたい。


 作家にとって、作品は子である。


 通常の子育てと同じで、親は子にすくすくと育ってもらいたい。

 だからこそ、投資して手をかけて育てるのだ。


 他人と接し、色んな考えを吸収し、時にぶつかり合うこともある。

 そうやって作品は育ち、大成するならば、書籍化やアニメ化する事だってあるだろう。


 ネトコンやカクヨムコンなどの、部活動の大会で優勝し、称賛を浴びるのだろう。


 

 さて、中途半端に趣味で書いていると主張していた作家諸君。

 言わずともここまで述べれば理解できるとは思うが、念の為続けよう。


 趣味で無計画に子を産み、放置子として適当な子育てをし、子をSNSで拡散してバズらせようとする、毒親の姿ではないだろうか??

 

 子供が有名になって欲しいのではない。子を利用して、親が目立ちたいのだ。

 

 


 だが現代の創作界隈には、親としての責任を放棄した作者があまりにも多い。


 作品を産むことはできる。

 だが育てることはしない。


 構成を練らない。

 キャラクターの動機を深めない。

 テーマを掘り下げない。

 矛盾を修正しない。


 それでも彼らは言う。


 「趣味だから」

 「楽しければいい」

 「読者が褒めてくれるから問題ない」

 

 全ては自分の承認欲求を満たすために。


 作品を育てる気がない作者は、

 作品を作品として扱っていない。


 彼らにとって作品とは、

 自分が褒められるための道具でしかない。


 だからこそ、作品の欠点を指摘されると激しく拒絶する。


 作品が批判されているのではない。

 自分が否定されたと感じるからだ。


 これは、

 子供の問題行動を指摘されたときに逆上する毒親と同じ構造である。


 子供のためではなく、

 自分の体面のために怒る。


 作品のためではなく、

 自分の承認欲求のために怒る。


 

 この時点で、作品はすでに子ではない。

 ただのアクセサリーであり、SNSで自分を飾り立てるための「虚栄の道具」でしかない。




 先程も申し上げたが、本当に作品を育てようとする作者は、読者の批評を歓迎する。


 なぜなら、作品の成長は作者の成長ではなく、読者の視点によって起きるからだ。


 作品の矛盾を指摘されることは、作品が一歩前に進むチャンスである。


 構成の甘さを指摘されることは、作品が強くなる機会である。


 テーマの未消化を指摘されることは、作品が深まるきっかけである。


 だが、この育てる覚悟を持つ作者は驚くほど少ない。


 

 なぜなら、育てるには()()が伴うからだ。


 自分の欠点と向き合う痛み。

 作品の未熟さを認める痛み。

 読者の言葉を受け止める痛み。


 この痛みを避け続ける作者は、作品を育てることができない。


 そして、いつか子を捨てる。

 全てを他人のせいにして。

 



 趣味だから、という言葉は便利だ。


 努力しない理由になる。

 批評を拒む理由になる。

 作品の未熟さを正当化する理由になる。


 だがその実態は、作品を育てる責任から逃げるための言い訳でしかない。


 趣味であろうと、作品は作品である。


 産んで世に出した以上、最低限の責任はある。


 作品を育てる気がないのなら、作品を子として扱う資格はない。


 それはただの、承認欲求のための繁殖行為である。


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