第5話/熱を拒むもの
茂みが、揺れた。
一度ではない。二度、三度——間隔が縮まるたびに、地面を踏みしめる振動が足の裏に伝わってくる。
フェリナの右手が、反射的に父の形見のショートソードの柄を握った。
飛び出してきたのは、三頭の魔獣。全身が白銀の結晶で鎧われた狼——クリスタルウルフだ。
その赤い双眸が、真っ直ぐにこちらを捉えている。ただ腹を空かせた野生の獣ではない。
結晶化の瘴気に侵された魔獣特有の、理性のない殺意がそこにあった。
「リナ!」
「分かってる!」
二人の呼吸が、一瞬で合わさった。
リナが狩用の弓を構え、矢をつがえる。
——矢が放たれた瞬間、フェリナは息を飲んだ。
矢はクリスタルウルフの結晶の鎧に命中し、甲高い音を立てて弾き返された。
「……っ!」
リナの顔が強張る。当然だ。狩用の矢では、結晶の鎧は貫けない。
二射、三射。角度を変えて、継ぎ目を狙う。
しかし矢は次々と弾かれ、地面に転がっていく。矢筒の中身が、みるみる減っていった。
「リナ、無駄打ちはだめだ! 矢が尽きる!」
「分かってる、でも——っ」
三頭が同時に跳躍した。
「——下がって。ここからは私が行く」
フェリナが前に出た。
彼女には莫大な魔力がある。しかしその力で生み出した武器は、自らの魔力の重みに耐えきれず、触れた瞬間に崩壊してしまう。
それがフェリナという存在の、生まれながらの矛盾だった。
だから彼女は、己の魔力をすべて**『速度』**へと変換した。
クリスタルウルフが跳躍する。
フェリナの身体が、それより早く動いていた。
地面を蹴る音すらない。残像だけが宙に残り、気づけばフェリナは魔獣の側面にいた。
強化された速度で死角へ回り込み、結晶の関節——鎧の継ぎ目へショートソードを正確に突き立てる。
「見えてる」
断ち切れないなら、砕けばいい。継ぎ目を狙い、速度を乗せて、同じ箇所へ何度でも叩き込む。
二撃、三撃。四撃目で、クリスタルウルフの右前脚の関節が罅割れた。
バランスを崩した魔獣が体勢を乱す。
フェリナはその首筋へ回り込み、剣の柄で思い切り顎を打ち上げた。魔獣が横倒しに崩れる。
残った二頭が、分かれて挟み込んでくる。一頭を捌いた瞬間、もう一頭が背後から——
「——ッ、来るな!!」
ジークの声が、森に響いた。
小さな両手が魔獣へ向けて突き出される。陽炎のような熱が、ジークの全身からどっと溢れ出した。
クリスタルウルフが跳躍の途中で止まる。
——その瞬間、クリスタルウルフの体表の結晶が“逆流するように軋んだ”。
四肢を縮め、それでも一歩も前へ出られない。
フェリナはその隙を逃さなかった。
速度を乗せたまま魔獣の側面へ回り込み、
関節の継ぎ目へショートソードを三度叩き込む。
罅割れた結晶が弾け飛び、クリスタルウルフは
低い唸りを上げながら森の奥へと後退した。
その隙に、リナが動いた。
白銀の弓はない。魔力の増幅もない。あるのは、自分の腕と、最後の一矢だけだ。
リナは深く息を吸った。——あの夜、弦を引いた時の感覚を思い出す。
光が収束して、身体の奥から何かが湧き上がってくるような、あの感覚。
今はない、何も感じない。ただの弓で、ただの矢だ。
それでもリナは、迷わず弦を引いた。
放たれた矢は、結晶の鎧ではなく——怯んだ魔獣の、開いた口の中へ吸い込まれた。
甲高い悲鳴。クリスタルウルフは森の奥へと消えていった。静寂が戻る。
リナが空になった矢筒を見つめ、小さく息をついた。
「……矢、全部使っちゃった」
「拾い集めれば何本かは使えるかもしれない。次の町で補充もする」
「うん」
二人の間に、言葉少ない沈黙が落ちる。
リナはしゃがんで、弾き返された矢を一本ずつ拾い集めながら、ぽつりと呟いた。
「……ねえ、フェリナ。あの弓、なんで私に召喚できたの? 他の人には出来ないの?」
フェリナは少し間を置いた。
「……分からない。気づいたら出てた」
「気づいたら?」
「守らなきゃって思ったら——手が勝手に動いてた」
リナが顔を上げる。
「じゃあ、なんで私だったんだろう」
フェリナは答えられなかった。
なぜリナに召喚できたのか。
なぜあの矢があれほどの力を持ったのか。
自分の力の法則が、自分でもまだ分かっていない。
ただ——あの朝、魔獣がリナへ迫った瞬間、右手が震えたことは覚えている。恐怖ではなかった。
失いたくないという、それだけだった。
「……分からないけど」
フェリナはリナの目を見た。
「リナじゃないと、出なかったと思う」
リナはしばらく、自分の右手を見つめていた。
弓を引き続けてきた、硬い指先。村で何度も練習した、ただの手。
これのどこに、あんな力が宿っていたのだろう。
答えは出ないまま、リナは矢を矢筒に戻した。
「……次は、もっとうまく使う」
「うん」
ジークが目を覚ましたのは、それからすぐのことだった。
「……姉、さま?」
ジークは自分の口から出た言葉に、一瞬きょとんとした顔をした。
「……あれ、なんで……。フェリナ姉、何かあった?」
寝ぼけ眼で辺りを見回すジークに、リナが「何でもない、もう終わった」と答える。
ジークはしばらく二人の顔を見比べ——地面に転がった結晶の破片に気づいた。
「……僕、また熱出した?」
「出た。助かった」
フェリナが短く答えると、ジークは少し困ったような、でも少し誇らしそうな顔をした。
「……なんか、怖いって思ったら勝手に出てくるんだよね」
「うん、知ってる」
「制御、できるようになるかな」
フェリナはジークの頭に手を置いた。
「なれる。絶対に」
その言葉が、約束なのか、願いなのか、自分でも分からなかった。
ただ右手の疼きの奥で、あの「地を這う音」が、かすかに鳴った気がした。
森を抜けると、視界が一気に開けた。
深い霧の向こう側に、巨大な石造りの城壁がそびえ立っている。
壁の上部には篝火が灯り、霧の中にぼんやりと橙色の滲みを作っていた。
「あれが……父さんの言っていた……」
シリウスの遺したキャンセラーナイトの欠片が、かつてないほど強く、熱く鼓動を始めた。
まるで、長い眠りから覚めた何かが、呼びかけているように。
フェリナは右手の疼きを堪え、一歩、城壁へ向かって踏み出した。
——その瞬間。
彼女の足元の影が、わずかに“遅れて動いた”。




