第八話「魔力草スープを飲んだら魔王がおかしなことになったんですけど?」
朝の光が柔らかく差し込むアリアの家。
昨日届いたばかりの魔力草と新鮮な食材に、アリアの気分は上々だった。
さくらもノアも、今日の朝食に期待を抱きながらテーブルに着く。
しかし、この「ほんの少しの好奇心」が、魔王ノアに予想外の変化をもたらすことになる──。
今日一日の、ちょっと奇妙でちょっと楽しい冒険の始まりだった。
朝から、アリアのご機嫌が良かった。
理由は分かる。昨日、ひまりから新鮮なカカオと一緒に、色々な食材が届いたのだ。その中に、さくらたちが採ってきた魔力草も含まれていた。アリアはそれを使って、今朝のスープを作ると張り切っていた。
「魔力草のスープ、初めて作るの。楽しみだわ」
「どんな味になるんですか」
「薬師の本には、ほんのり甘くて、体が温まるって書いてあったわ。魔力を持つ人には特に効くって」
「のあちゃんも飲むの?」
「もちろん。ノアちゃんにも飲んでほしくて」
ノアはテーブルに座って、スープができるのを待っていた。
木剣を膝の上に置いて、待っていた。
「……余は魔力草の効能を知っておる」
「どんな効能?」
「魔力の回路を一時的に開く。詰まった部分を押し広げるような働きだ」
「副作用は?」
「魔力が安定している者には問題ない。だが——安定していない場合は、予測しない形で魔力が放出されることがある」
「予測しない形って?」
「変容とか、転移とか。魔力が形を変えて出てくることがある」
「……それ、大丈夫?」
「余たちは今、魔力が不安定だ。だが魔力草の量が少なければ、大事には至らない。アリアが入れる量は少量のはずだ」
「少量なら安全?」
「たぶん」
「たぶん!?」
「理論上は問題ない」
「理論上!?」
アリアが台所から顔を出した。
「できたわよ。どうぞ」
スープが出てきた。
薄い緑色のスープ。野菜の甘い匂いに、ほんのり草のような清涼感が混じっている。確かに美味しそうだった。
「いただきます」
さくらが一口飲んだ。
温かくて、甘くて、体の中に広がっていく感覚があった。
「……美味しい」
「よかった。魔力は感じる?」
「なんか、じんわりと。体の奥が温かい感じ」
「それが魔力草の効果よ、たぶん」
ノアもスープを手に取った。
「……においからして、良質な魔力草だな」
「ノアちゃん、分かるの?」
「魔力草の品質は匂いで分かる。これは上等だ」
「ありがとう、摘むときに気をつけてくれたのね」
「さくらが丁寧に摘んだ」
「ノアも摘んでたじゃん」
「余も摘んだ」
「二人ともありがとうね」
ノアはスープを一口飲んだ。
もぐもぐ。
「……美味い」
「よかった」
「……以前ひまりから効能を聞いたことがある。魔力を持つ者には特に効くと」
「そうなの?」
「採取が難しくて量が取れないとも言っておった。こんなに気軽に飲めるものではないはずだ」
「それをこんな朝ごはんで出してもらえるの、贅沢だね」
「……そうだな」
ノアはもう一口飲んだ。
それからもう一口。
「……美味すぎる」
「ほどほどにね」
「余は飲みたいだけ飲む」
「副作用があるって自分で言ってたじゃん」
「少量なら問題ない」
「今もう少量以上飲んでるじゃん」
「……これくらいは少量だ」
「そのさじ加減、絶対おかしい」
ノアはスープを飲み続けた。
さくらは止めようとして——アリアが「お代わりいる?」と言った。
「いただく」
「ノア!!」
「美味いものは仕方がない!!」
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問題が起きたのは、食後三十分後だった。
さくらが洗い物を手伝っていると、居間から声がした。
「……さくら」
「何」
「……さくら」
声が、少し違う気がした。
さくらは振り返った。
居間に、誰かがいた。
幼女ではなかった。
プラチナブロンドの髪。薄紫の瞳。ノアの顔に違いないが——
背が、高かった。
さっきまでのノアより、明らかに背が高かった。幼女ではない。かといって大人でもない。子どもと大人の間の、どちらとも言い切れない背丈。
着ていた黒いドレスは、今や膝くらいの丈になっていた。
「……ノア?」
「……余だ」
「どうなってんの」
「……わからん」
アリアが台所から出てきた。
ノアを見た。
目を丸くした。
「……ノアちゃん?」
「余だ」
「大きくなってる……?」
「……なってる、ようだ」
三人がノアを見た。
ノアが自分の手を見た。
さっきより大きな手だった。
「……副作用か」
「副作用って言ってたやつ!?」
「たぶん、飲みすぎた」
「絶対そうじゃん!!」
「少量なら問題ないと言った」
「少量飲まなかったじゃん!!」
「美味かったのだから仕方がない」
「仕方なくない!!」
ノアは立ち上がった。
立ち上がった姿が、さっきとまったく違う。幼女のちょこちょこした動きではない。それよりずっと自然な、落ち着いた動き。
「……どのくらい続くのだ、これは」
「知らないよ!! 数時間で戻るって聞いたことあるけど、理論上は!!」
「理論上か」
「あんたが言った言葉だからね!?」
アリアがおろおろしながら言った。
「と、とりあえず座りましょうか。ノアちゃん、気分は悪くない?」
「……悪くない。むしろ」
「むしろ?」
「……体が軽い」
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問題は、そこで終わらなかった。
三十分後、ひまりとフロストがやってきた。
いつも通り、ひまりはノックなしで飛び込んできた。
「先輩おはようございます!! 今日の依頼の件で——」
ひまりが固まった。
居間のテーブルに、見知らぬ人物が座っていた。
プラチナブロンドの髪に、薄紫の瞳。黒いドレスを着ているが、それは明らかにサイズが合っていない。丈が短い。
「……あの、どちら様ですか」
「余だ」
「余……?」
「ノアだ」
ひまりが固まった。
フロストが静かに入ってきて、ノアを見た。
一瞬だけ、目を細めた。
「……魔王様」
「フロスト、分かるか」
「目で分かります」
「さすがだ」
「何があったんですか魔王様!?」
「魔力草のスープを飲みすぎた」
「飲みすぎた!?」
「美味かったから」
「それだけですか!?」
「それだけだ」
ひまりがさくらを見た。
「止めなかったんですか先輩!?」
「止めようとしたけど、アリアさんがお代わりを——」
「ごめんなさい!!」
アリアが申し訳なさそうに言った。
「美味しいって言ってくれてたから、つい……」
「アリアさんは悪くないです!! 問題はノア様のスープへの執着です!!」
「執着とは何だ」
「執着じゃないんですか!?」
「……美味いものへの正当な評価だ」
「結果がこれですよ!?」
フロストが静かにノアの周囲を歩いた。
ゆっくりと、確認するように。
「……魔王様、魔力の状態は」
「今は、流れている。詰まっていたものが開いた感じがする」
「魔力草の正しい効果ですね。問題は、開きすぎたことで変容が起きた」
「そうだ」
「数時間で元に戻るとは思いますが——」
「余も、そう予測している」
「その間、外出は控えたほうがいいかと」
「なぜだ」
「魔王様の顔を知っている者が見たら……」
「余の顔を知っている者がここにいるか?」
「……この町には多分いないと思いますが、念のため」
「余は外に出る」
「お控えください」
「嫌だ」
「魔王様」
「嫌だと言っておる」
フロストがため息をついた。
珍しかった。フロストがため息をつくのを、さくらは初めて見た。
「先輩、止めてください」
「私に言う?」
「魔王様の保護者は先輩ですので」
「保護者じゃないんだけど」
「保護者です」
「なんで言い切れるの」
「今まで何度ノア様の首根っこを掴みましたか」
「……まあ」
「保護者です」
「……ノア、今日は家にいて」
「嫌だ」
「外に出て誰かに見られたら困る」
「誰かとは誰だ」
「知らない人全部」
「余の顔を知っている者などここにはおらん」
「顔は知らなくても、状況が不自然じゃん。ドレスのサイズが合ってないし、突然現れた見知らぬ人ってことになるし」
「……それは確かに」
「今日は家で待ってて」
「……する事がない」
「木剣の練習でもすれば」
「……木剣が小さくなった」
ノアが木剣を手に取った。
確かに、さっきより小さく見える。体が大きくなったから、相対的に。
「……練習しにくい」
「まあ、今日だけの辛抱だし」
「……分かった。家にいる」
ひまりが「素直!?」と小声で言った。
フロストが「先輩への態度だけは素直なのです」と小声で返した。
さくらは聞こえていたが、聞こえないふりをした。
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午前中、ノアは家にいた。
アリアが申し訳なさそうに側にいて、ひまりとフロストはギルドに戻っていった。
「ひまりのことは呼ばなくてよかったのに」
「情報共有は大事です」とひまりは言っていた。「ノア様の状態変化は把握しておく必要があります」とフロストは言っていた。
まあ、確かにそれはそうかもしれない。
さくらはノアの隣に座っていた。
ノアは窓の外を見ていた。
「……どんな感じ?」
「何が」
「今の状態」
「……体が動く」
「動く?」
「幼女のときは、思ったより体が動かなかった。走ろうとしてもちょこちょこしかできなくて、剣を振ろうとしても力が入らなくて」
「うん」
「今は——思った通りに動く。体と意識がちゃんと一致している感じがする」
「……そっか」
「魔力も、今のほうが安定している。回路が開いたからだろう。このまま維持できれば——」
「できそう?」
「……今は、できている。ただ」
「ただ?」
「スープの効果が切れれば、また詰まる可能性がある。それと同時に体も戻るだろう」
「つまり今だけってこと」
「……今だけだ」
さくらはノアを見た。
どちらとも言い切れない背丈。幼女でも大人でもない、その間にいる誰か。
薄紫の瞳は、いつもと同じだった。
「……どっちが本来の姿なの?」
「何が?」
「幼女と、今と」
「……余は魔王だ。本来の姿は——大人の姿だ」
「じゃあ今に近い感じ?」
「……近い。ただ、本来はもっと大人だ」
「そっか」
「幼女の姿は、飛ばされた衝撃で起きた変容だ。本来ではない」
「……本来に戻りたい?」
「戻らなければならない。魔王が幼女では示しがつかない」
「示しって、誰に」
「……四天王に。部下に。魔王軍に」
「今は誰もいないじゃん」
「今は、そうだ」
「じゃあ今くらいは、気にしなくていいんじゃない」
ノアは少し黙った。
「……気にしないのは難しい」
「なんで」
「余は魔王として生きてきた。魔王らしくあることが、余の全てだった」
「……大変だったね、やっぱり」
「大変ではない」
「大変だったと思う」
「……余は、そう思ったことは——」
「思わなくても、そうだったと思う」
ノアは窓の外を見た。
「……さくらは、余が魔王でなくなったら、どうする」
「どうするって?」
「余が魔王でなければ、お主と余は宿敵でも同行者でもなくなる。それならお主は——」
「そんなこと起きないじゃん」
「起きないとは言い切れない。こうして異世界に飛ばされるくらいだ、何が起きても——」
「起きても起きなくても」
「何?」
「……まあ、普通に関わると思う」
「なぜだ」
「なんとなく」
「なんとなく、では理由にならない」
「理由なんてないよ、そういうのは」
「……」
「あんたが魔王でもそうじゃなくても、私は多分同じように接する」
「……それは、どういう意味だ」
「そのままの意味」
ノアは少し黙った。
「……余には、理解できん」
「理解しなくていい」
「理解できないことは、余には——」
「理解しなくていいから、ただ聞いておいて」
「……分かった」
窓の外で、馬車が通り過ぎた。
アリアが台所でお茶を作る音がした。
ノアが窓の外を見たまま言った。
「……帰ったら、どうなるのだろうな」
「帰ったら?」
「余たちが元の世界に帰ったら。また戦うのか」
「……プロット的にはそうなんじゃない?」
「プロット?」
「なんでもない。まあ、そうなるかもね」
「そうなったとき、お主は——」
「そのときはそのとき」
「今みたいには、いられないだろう」
「……まあ」
「今みたいに、並んで歩けない」
「まあ」
「今みたいに——」
「ノア」
「何だ」
「今は今でしょ」
ノアは少し間を置いた。
「……そうだな」
「今は今。そっちの話は、帰るときに考える」
「……余は魔王だ。先を読むのが仕事だ」
「今日のスープのこと、先を読んでた?」
「……読んでいなかった」
「美味しかったから飲みすぎたんでしょ」
「……そうだ」
「先を読む前に飲みすぎる魔王が、今の未来を心配しなくていい」
ノアが小さく笑った。
声に出さない、ほんの少しの笑いだったが、さくらには分かった。
「……うるさい」
「笑ったじゃん」
「笑っておらん」
「笑った」
「……少しだけ、笑ったかもしれん」
「正直でよろしい」
「うるさい!!」
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問題が起きたのは、昼過ぎだった。
ノアがあくびをした。
大きなあくびだった。口を開けて、目に涙を浮かべて、思いきり——
ぱちん。
あくびと同時に、ノアの手のひらから火花が散った。
「……」
「……」
二人は固まった。
火花は一瞬で消えた。
「……今のは」
「……余も、予測しておらんかった」
「あくびで魔力が出た?」
「……出た、ようだ」
「大丈夫?」
「大丈夫だ。ただ——」
ノアがもう一度あくびをした。
今度はさっきより大きい火花だった。テーブルの上のコップが、一瞬宙に浮いた。
「わ!?」
「……済まない」
「コップが浮いた!?」
「……魔力が、不安定になってきた。体が元に戻ろうとしているのかもしれない。その過程で——」
「制御できない?」
「……今は、できない」
アリアが台所から飛び出してきた。
「大丈夫!? 何か音がしたけど——」
「アリアさん、一旦離れて」
「え?」
「ノアの魔力が——」
ノアがくしゃみをした。
ぱしゅん!!
火花が四方八方に散った。
壁に小さな焦げ跡がついた。
アリアの髪が少し膨らんだ。
「……ごめんなさい」
「い、いいのよ! 怪我はない?」
「余は大丈夫だ。だが——」
ノアが自分の手を見た。
手のひらがじりじりと光っている。制御しようとしているが、じわじわと漏れてくる。
「……止まらない」
「どうすればいいの」
「……使い果たすしかない」
「使い果たす?」
「全部出し切れば止まる。だが屋内では——」
「外行こう」
「……そうだ」
さくらはアリアに「ちょっと出てきます!!」と言って、ノアの手を引っ張った。
玄関を飛び出して、石畳を走る。
ノアがくしゃみをするたびに、後ろで小さな爆発音がした。
「くしゃみを止めろ!!」
「止められるなら止めておる!!」
「止め方は!?」
「ない!!」
「ない!?」
「くしゃみは止められない!! 余の世界では常識だ!!」
「魔王でもくしゃみは止められないの!?」
「くしゃみは生理現象だ!! いかなる魔王も——はくしゅん!!」
ぱしゅん!!
後ろを振り返ると、石畳に小さなクレーターができていた。
「クレーターができてるじゃん!!」
「だから外に出たのだ!!」
「町の中でもダメじゃん!!」
さくらは全力で走った。
町の外まで走った。
草原に飛び込んで、ようやく止まった。
周囲に人はいない。障害物もない。空が広い。
「……ここならいい?」
「……いい。十分だ」
ノアが草原の真ん中に立った。
手のひらがじりじりと光り続けている。
「……全部出す」
「やり方は?」
「空に向けて、全力で放出する。制御はしない。ただ出し切る」
「危なくない?」
「余は大丈夫だ。お主は少し離れておれ」
「離れなくていい」
「危ないと言っておる」
「離れない」
「……頑固だな」
「あんたが心配だから」
ノアは少し固まった。
「……心配するな」
「する」
「……うるさい」
「早くやって」
「……分かった」
ノアが空を見上げた。
深呼吸した。
それから——
「……はっ——」
くしゃみをした。
ぱしゅん!!
空に向かって、光が飛んだ。
それを皮切りに、ノアの両手から魔力が溢れ出した。
ぼん!! ぱん!! ぱしゅん!!
不規則な光が、次々と空に向かって飛んでいく。花火みたいだった。制御されていない、でたらめな光の奔流。
「……すごい」
さくらは思わず言った。
ノアは空に向かって魔力を放ち続けていた。
でたらめだけど、光はきれいだった。
草原に光が降り注いで、ノアの白い髪が光を受けてきらきらと輝いた。
一分。二分。
少しずつ、光が弱くなっていく。
三分後。
ノアの手のひらから、光が止まった。
「……止まった」
「出し切った?」
「……出し切った。全部」
ノアはその場にへたり込んだ。
草の上に座って、はあっと息を吐いた。
「……疲れた」
「そうだろうね」
「魔力を全放出したのは——久しぶりだ」
「気持ち良かった?」
「……気持ち良かった、とは少し違う。でも——すっきりした」
「詰まってたのが全部抜けた感じ?」
「……そうだ」
さくらはノアの隣に座った。
草原に二人で座って、空を見た。
さっきまで光が飛び交っていた空が、今は静かだった。
「……ノア、また魔力なくなったじゃん」
「……そうだな」
「スープの意味が」
「……あった。回路が開いた感覚は残っている。次の訓練に活きるはずだ」
「飲みすぎて暴走して全放出して、それで回路が開いた」
「……結果的に、な」
「遠回りだね」
「……余は認めん」
「認めなくていいけど事実だからね」
「……うるさい」
ノアがまたあくびをした。
今度は火花が出なかった。
魔力が全部抜けたのだろう。
「……眠い」
「全部使い果たしたから?」
「そうだ。魔力を使い果たすと眠くなる」
「帰って寝る?」
「……帰る前に、少し座っていたい」
「うん」
二人は草原に座ったまま、しばらく黙っていた。
風が吹いた。
草がさわさわと揺れた。
そのうちノアが、さくらの肩に凭れてきた。
「……ノア?」
「……少しだけ」
「寝るの?」
「……少しだけ」
三秒後に寝息を立て始めた。
さくらはため息をついた。
草原の真ん中で、魔王を肩に乗せたまま空を見上げた。
さっきまで光が飛んでいた空。
今は、ただ青い。
「……なんで私こんな目に」
誰も答えなかった。
風だけが、さわさわと笑っていた。
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午後になると、魔力が少しずつ落ちてきた。
フロストが言った通りだった。
スープの効果が薄れるにつれて、ノアの体が変わっていく。
じわじわと、少しずつ。
気づいたときには、元の幼女に戻っていた。
草原での一眠りを経て、アリアの家に戻ってからのことだった。
「……戻った」
ノアがテーブルの上に立って、自分の手を見た。
小さな手。幼女の手。
「……やはり、元に戻る」
「そうだね」
「……まあ」
「まあ?」
「……今日は、体が動く感覚を思い出せた。それでいい」
「魔力は?」
「また詰まった。だが——さっきの状態で魔力が流れたおかげで、少し道ができた感じがする。明日から、訓練がしやすくなるかもしれん」
「それは良かった」
「完全に無駄ではなかった」
「スープの飲みすぎは無駄だったけど」
「……次は量を守る」
「次もスープ飲むんだ」
「美味かった」
「飲みすぎなければいいか」
「……そうだ」
アリアが居間に顔を出した。
「ノアちゃん、戻ったのね。良かった」
「……ご心配をおかけした」
「いいのよ。スープを出した私にも責任があるから」
「アリアは悪くない。余が飲みすぎた」
「でも美味しかったって言ってくれたから、嬉しかったわ」
「……美味かった。それは本当だ」
「また作るね。今度は量に気をつけて」
「頼む」
アリアがまた台所に戻っていった。
ノアはテーブルの上に座って、窓の外を見ていた。
「……ピンク」
「何」
「さっき言ったこと」
「どれ」
「今は今、そっちの話は帰るときに考える、というやつ」
「うん」
「……余も、そう思うことにする」
「そう?」
「今は今だ。帰ることを考えすぎても仕方がない」
「うん」
「今できることをする。今のこの場所で、今の余たちとして」
「うん」
「……それでいいか」
「いいんじゃない」
「お主が言い出したことだ。お主がいいと言うなら、余もそうする」
「なんで私の意見に従うの」
「……従っておらん。余が同意しただけだ」
「同じじゃん」
「違う。余の判断だ」
「……まあ、どっちでもいいか」
「どっちでもよくない」
「いいよ、細かいことは」
「ぐぬ……」
さくらは立ち上がった。
「夕飯まで少し練習する? 魔力道が開いたなら、今日は昨日より出やすいかもしれない」
「……そうだな。やる」
「じゃあ行こう」
「うむ」
ノアが木剣を手に取った。
さっきまでは小さく見えた木剣が、また丁度よいサイズに戻っていた。
「……やっぱりこのサイズが今は合ってる」
「そうだね」
「……悔しいが」
「いつか大きい剣が持てるようになればいい」
「そのときは、お主にも見せてやる」
「楽しみにしとく」
「……楽しみにしておれ」
二人は外に出た。
夕暮れ前の光の中で、さくらが魔力を集めた。昨日より、少しだけ厚い。
ノアが手のひらに魔力を集めた。
ホタル一匹から、二匹、三匹分。
昨日より、確かに多かった。
「……出た」
「出た」
「魔力草の効果だ」
「飲みすぎた甲斐があったね」
「……そう言え」
「甲斐があったけど次は量を守って」
「……分かっておる」
夕暮れの草原で、二人は並んだ。
幼女と魔法少女。
宿敵だった二人が、同じ方向を向いていた。
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**【魔王の小さな冒険 其の八「魔王、一時的に元に戻った件の内幕」】**
のあちゃんには、さくらに言わなかったことがある。
体が戻っていた間のこと。
あの四時間は、のあちゃんにとって久しぶりに「余が余でいられる時間」だった。
思った通りに動く体。流れる魔力。
これが、本来の余だ、と思った。
でも同時に、思ったことがあった。
幼女の体で過ごした日々——鷹に追われて、虫の巣を踏んで、木剣で素振りをして、チョコを食いすぎて——それは「余が余でなかった日々」だったのか。
違う気がした。
あれも、余だった。
情けなくて、弱くて、ちょこちょこしか走れなくて、さくらに手を引っ張られてばかりで——でも、あれも余だった。
どちらが本来で、どちらが本来でないか。
正直、のあちゃんには分からなくなっていた。
「……余は魔王だ」
誰もいない部屋で、のあちゃんはつぶやいた。
「魔王として、元の姿に戻らなければならない」
それは、変わらない。
変わらないけれど。
「……今日のスープは美味かった」
それも、本当のことだった。
のあちゃんは布団に潜り込んだ。
明日も、訓練がある。
魔力が少し開いた。明日は昨日より多く出るかもしれない。
少しずつ、戻っていく。
強くなっていく。
そうしたら——
「……今は今だ」
さくらの言葉を、のあちゃんは繰り返した。
今は今。
今のこの場所で、今の余として。
それでいい、と思うことにした。
思うことにしたけれど。
布団の中で、のあちゃんは少しだけ目を開けた。
暗い天井を見た。
「……帰ったら、どうなるのだろうな」
その問いだけは、まだ消えていなかった。
答えは、出なかった。
出ないまま、のあちゃんは目を閉じた。
夜が続いた。
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第九話に続きます
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**次話予告**
翌朝。
さくらとノアがギルドに向かう途中。
町の中心に、見慣れない一団が現れた。
白いローブ。掲げられた旗。そして高らかに響く、聞き覚えのある声。
「信者の皆様——今こそ女神様のお導きを受けるときです!!」
さくらは固まった。
「……紫苑先輩?」
第九話「先輩が宗教団体を率いてるんですけど?」 ――次回!
魔力草スープの効能で、久しぶりに本来の力を感じられたノア。
幼女の体で過ごした日々と、今の体──どちらも自分の一部であることを、改めて実感した。
そして、目の前の時間、今この場所を大切にすることの意味を少しだけ知った。
明日も訓練が待っている。少しずつ、確かに、強くなる。
だが、心の片隅には、まだ未来への小さな不安が残っている──それもまた、魔王としての彼女の一部だった




