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第七話「些細なことでケンカしたら思ったより本気になったんですけど?」

ケンカをした翌日、さくらとノアの間には、まだ言葉にしきれない微妙な距離があった。

謝ったわけでも、完全に仲直りしたわけでもない。ただ、お互いを気にかける小さな意識が芽生えた。

朝の冷たい空気の中で、一人剣を振るノアの姿を見つめるさくらの心にも、少しだけ変化が生まれていた。

今日もまた、何気ない日常の中で、二人の関係は少しずつ動き始める──。



 発端は、本当に些細なことだった。


 朝食の席。


 さくらがパンを取ろうとした瞬間、ノアが同じパンに手を伸ばした。


 指が重なった。


「……あ」


「……」


 どちらも手を引いた。


「どうぞ」


「いらぬ」


「取ろうとしてたじゃん」


「気が変わった」


「気が変わるの早すぎ」


「早くない」


「早い。一秒で変わった」


「余の気持ちの問題だ。お主には関係ない」


「関係あるから言ってる」


「ない」


「ある」


「ない!!」


「ある!!」


 アリアがそっと別のパンを二人の間に置いた。


 二人は黙った。


 アリアが台所に戻った。


「……取れば良かったのに」


 さくらがぼそっと言った。


「取りたくなくなった」


「意地張らなくていい」


「意地を張っておらん」


「張ってる」


「張っておらん!!」


「声が大きい」


「お主が余計なことを言うから——」


「余計なことを言ったのはあんたでしょ」


「余は何も言っておらん」


「いらぬって言った」


「それのどこが余計なのだ」


「素直に取ればよかっただけじゃん」


「素直にとはなんだ。余は常に正直だ」


「正直と素直は違う」


「同じだろう」


「全然違う」


「……お主は、朝から余に絡んでくるな」


「絡んでない。普通に話してる」


「普通ではない。いちいち余の言動に突っ込んでくる」


「あんたがいちいちやらかすから」


「やらかしておらん!!」


「毎回何かある」


「何もない!!」


「鷹、虫の巣、薬草を根っこから引き抜く、チョコを食いすぎる——」


「チョコを食いすぎたとはなんだ!!」


「型に流す分が少なかったじゃん。あれ絶対ノアが食べたでしょ」


「……食べておらん」


「嘘だ」


「食べておらんと言っておる!!」


「じゃあなんで少なかったの」


「……それは、その」


「食べたんでしょ」


「……余は、品質確認を——」


「食いすぎたんでしょ」


「……ぐぬ」


「認めた」


「認めておらん!!」


 アリアが台所から顔を出した。


「……二人とも、朝からすごい元気ね」


「「元気じゃない」」


 二人同時に言った。


-----


 ケンカは、午前中も続いた。


 仕事に出かける途中、さくらが歩く速度を少し速めた。


 意識していなかった。本当に意識していなかった。


 でも、ノアが遅れた。


「……速い」


「普通」


「余には速い」


「ついてこれないなら言って」


「ついてこれる!! ただ、速いと言っておる!!」


「それはつまり合わせてほしいってこと?」


「そういう意味ではない!!」


「どういう意味なの」


「……余の歩幅を無視するなと言っておる」


「無視してない。ちょっと速くなっただけ」


「ちょっとでも速くなれば余は遅れる。それを分かった上でやっておるなら——」


「やってない。無意識だった」


「無意識でも結果は同じだ」


「……ごめん」


「謝るな」


「え?」


「謝るなら最初から気をつけろ。謝れば済むと思うな」


 さくらは足を止めた。


 ノアも止まった。


「……それは言いすぎじゃない?」


「言いすぎではない。事実だ」


「謝ってるじゃん。それ以上どうしろっていうの」


「気をつけろと言っておる」


「気をつけてなかったのは認める。でも謝っても怒るなら、何をしても同じじゃん」


「謝れば全部許されると思うな、と言っておる!!」


「そんなこと思ってない!!」


「思っておる!!」


「思ってない!!」


 しばらく、二人は睨み合った。


 通りがかった町の人が、ちらっと二人を見て、足早に去っていった。


「……行くよ」


 さくらが先に歩き出した。


 ノアは少し遅れて、ついてきた。


 今度は、さくらがペースを落とした。


 でもそれは、無言のままだった。


-----


 ギルドで依頼を受けた。


 薬草採取の追加依頼。前回と同じ、北の森での仕事。


 二人は無言で森に向かった。


 無言で薬草を摘んだ。


 無言で袋に詰めた。


 ノアは黙々と丁寧に葉だけ摘んでいた。根っこを引き抜くことはしなかった。さくらもそれを見ていたが、何も言わなかった。


 作業自体は順調だった。


 順調すぎて、逆に空気が重かった。


 ノアが何かを踏んだ。


 ぼすっ。


「……」


 さくらが見ると、ノアが草に足を取られて転んでいた。


 派手に転んでいた。


 さくらは笑わなかった。


「……大丈夫?」


「大丈夫だ」


「怪我は」


「ない」


 ノアは自分で立ち上がった。


 膝に泥がついていた。ドレスの裾が汚れていた。


 さくらはそれを見て、手を伸ばしかけた。


 止めた。


 ノアも何も言わなかった。


 二人はまた、無言で作業を続けた。


-----


 ギルドに戻って、報酬を受け取った。


 カウンターのお姉さんが「今日は静かですね」と言った。


 二人は何も答えなかった。


 お姉さんが困った顔をした。


 外に出て、帰り道に入ったところで、さくらが口を開いた。


「……今日のお金、折半ね」


「分かっておる」


「半分、ちゃんと渡す」


「疑っておらん」


「……そう」


 また沈黙。


 石畳を歩く足音だけが続いた。


 ノアの歩幅は、さくらより小さい。


 さくらは今日、ペースを上げなかった。


 ノアは今日、「速い」と言わなかった。


 だからといって、仲直りしたわけではなかった。


 ただ、お互いに、なんとなく、気をつけていた。


 それだけだった。


-----


 アリアの家に帰ると、アリアが夕食の準備をしていた。


「おかえり——あら、どうしたの二人とも。元気ないわね」


「元気です」


「ありません」


 さくらとノアが同時に、正反対のことを言った。


 アリアが二人を見比べた。


「……ケンカした?」


「してない」


「した」


 またバラバラだった。


 アリアはため息をついた。優しいため息だった。


「夕飯、食べながら話す?」


「話すことはない」


「……まあ、食べます」


 ノアは自分の部屋に入っていった。


 さくらはテーブルに座った。


 アリアがお茶を出してくれた。


「……さくらちゃん、何があったの?」


「朝のパンの話から始まって、色々と」


「色々と?」


「ノアが、謝れば済むと思うなって言って」


「……そう」


「私、謝ったのに。それ以上どうしろっていうんだって思って」


「うん」


「でも」


「でも?」


 さくらはお茶を見た。


「……ノアの言いたいことも、少しは分かる気がして」


「どんなとこが?」


「無意識でも、私がペースを上げたのは事実で。それで遅れさせたのも事実で。謝ったけど、じゃあなんで無意識でそうしたのかって考えると——」


「考えると?」


「……ちゃんと考えてなかったのかな、って」


 アリアは何も言わなかった。


「ノアのペースに合わせるの、最初はちゃんとやってたはずなのに。だんだん慣れてきたら、無意識に自分のペースになって」


「……それが嫌だったのかしらね、ノアちゃんは」


「ケンカの原因はそれだけじゃないけど——でもたぶん、根っこはそこだと思う」


「さくらちゃんが、自分のことをちゃんと見てくれてないって感じたのかもね」


「……そうかもしれない」


 さくらはお茶を一口飲んだ。


「でも、それをあんな言い方しなくてもって思うのも本音で」


「うん、その気持ちも分かるわ」


「どっちが悪いとか、そういう話じゃないのかな」


「そういう話じゃないと思うわよ、たぶん」


「……じゃあどういう話なの」


 アリアが微笑んだ。


「さくらちゃん、ノアちゃんのこと、ちゃんと気にかけてるじゃない」


「……まあ」


「だから考えてる。悪かったかなって」


「それは——」


「それはノアちゃんが大事だからじゃないの?」


 さくらは黙った。


「大事とか、そういう話じゃ——」


「そういう話じゃなくても、気にかけてる人のことって、こんなに考えるものよ」


「……」


「夕飯、もう少しで出来るから。ノアちゃんも呼んであげて」


「……呼んだら来ますかね」


「来ると思うわ。お腹空いてるはずだから」


 さくらは立ち上がった。


-----


 ノアの部屋の扉をノックした。


「夕飯、もうすぐ出来るって」


 返事がなかった。


「……聞こえてる?」


「聞こえておる」


「じゃあ来て」


「……行く」


「うん」


 さくらが離れようとすると、扉の向こうからノアの声がした。


「……さくら」


「何」


「……今日は、余も言いすぎた」


 さくらは少し驚いた。


「……言いすぎたか?」


「謝れば済むと思うなというのは、言いすぎだった。余は——その」


「その?」


「……無意識で置いていかれたことが、嫌だったのだ」


 さくらは扉を見た。


「……ごめん」


「謝るなと言った」


「いや、今は謝る。ちゃんと考えてなかったから」


「……」


「無意識だったは言い訳で、ちゃんと意識しておくべきだった」


「……まあ」


「まあ?」


「……余も、言い方が悪かった。謝れば済むというのは、余が言いたかったこととは違う」


「何が言いたかったの?」


「……気にかけてほしかっただけだ。それだけだ。謝らなくていい、ただ、気にかけてほしかった」


 さくらはしばらく扉を見ていた。


「……分かった」


「分かったか」


「分かった。気をつける」


「……それでいい」


「仲直り?」


「……余は怒っておらん」


「さっきまで怒ってたじゃん」


「怒っておらん。不満だっただけだ」


「怒りと不満は違うの?」


「違う」


「どう違うの」


「……怒りは相手を否定する。不満は相手に期待しているから出る」


 さくらは少し黙った。


「……なんか、深いね」


「魔王だから」


「魔王ってそういうこと考えるの?」


「部下を持つと、感情の整理が必要になる」


「……苦労人だね、本当に」


「うるさい」


「苦労人って言ったら怒るじゃん」


「怒っておらん。不満だ」


「私に期待してる?」


「……うるさい」


「してるんでしょ」


「うるさいと言っておる!!」


 扉が開いた。


 ノアがぶすっとした顔で出てきた。


「飯を食う」


「うん」


「仲直りとかそういう話ではない」


「うん」


「ただ飯を食う」


「うん」


「……なぜそんなに素直に返事をする」


「さっきアリアさんに色々言われたから」


「何を言われた」


「気にかけてる人のことはこんなに考えるものだって」


「……」


「ノアのこと、気にかけてるから考えたんだと思う」


 ノアは少し固まった。


「……そういうことを、急に言うな」


「言うよ。事実だから」


「……ぐ」


「行こう、飯食おう」


「……行く」


 二人は廊下を歩いた。


 並んで。


 ノアのペースで。


-----


 夕食はシチューだった。


 いつものシチューだったが、今日はいつもより美味しく感じた。


 気のせいかもしれない。


 気のせいじゃないかもしれない。


「……アリア」


 ノアが食べながら言った。


「なに?」


「今日のシチューは、いつもより美味い」


「あら、ありがとう。今日は魔力草を少し入れてみたのよ」


「魔力草を?」


「前に持って帰ってきてくれたやつ。少量なら風味が良くなるって聞いたから」


「……なるほど」


「気づいてくれたの、嬉しいわ。ノアちゃん、舌が繊細ね」


「魔法薬の調合で鍛えたから」


「料理の才能があると思うわ、本当に」


「……料理人になる気はないが」


「魔王だものね」


「そうだ」


 さくらはシチューを飲みながら、二人の会話を聞いていた。


 ノアが、アリアに対して素直だ。


 昔からそうだった。最初から、ノアはアリアに対してだけは、わりと素直に感謝を言えた。


 なんでだろう、と思う。


「……さくら、何を考えておる」


「ノアって、アリアさんに素直だよね」


「……そうか?」


「そう。私には素直じゃないのに」


「お主には素直でいる必要がない」


「なんで」


「アリアは、余に何も求めてこない。ただそこにいてくれる。だから素直でいられる」


「私は何か求めてくる?」


「……お主は余に、成長を求めてくる。役に立てと言う。弱いと言う」


「言ってないけど」


「言わなくても、そういう目で見てくる」


「……」


「だから、素直でいると負けた気がする」


 さくらはしばらく黙った。


「……それって、つまり」


「つまりとは言わなくていい」


「私のことを意識してるってことでしょ」


「言わなくていいと言った!!」


「でも事実じゃん」


「事実でも言うな!!」


 アリアがくすくす笑った。


「仲直りできたみたいね」


「「してない」」


 また同時に言った。


 でも今度は、二人とも少しだけ笑っていた。


-----


 夜。


 さくらが寝ようとしていると、ノアが部屋に入ってきた。


 手に何かを持っていた。


 白い花だった。


「……どこで取ってきたの」


「少し前に出た」


「一人で外に出てたの?」


「少しだけ」


「暗いのに」


「余は暗いのが得意だ。魔王だから」


 さくらはノアを見た。


 ノアは花を持ったまま、立っていた。


「……これを」


「うん」


「……前に取ってきた花が、そろそろ枯れそうだったから」


 テーブルの上を見た。確かに、先週ノアが持ってきた白い花が、少しうなだれていた。


「……替えるの?」


「余が見ていたいから、枯れたら困る」


「うん」


「……お主にあげるとかではない」


「うん」


「余の花だ」


「うん」


「ただ、部屋に置いておく」


「うん」


 ノアが古い花を抜いて、新しい花を瓶に挿した。


 白い花が、ランプの光に揺れた。


「……きれいだね」


 さくらが言った。


「そうだ」


「どこで見つけたの、こんな時間に」


「町の外れに咲いていた。この辺りには多いようだ」


「毎回摘んできてくれるの?」


「……枯れたらな」


「ありがとう」


「余のために持ってきたのだから礼は要らん」


「でも部屋に置いてくれてるから」


「……それは——まあ」


 ノアは花から目を離して、布団に入った。


「……おやすみ」


 今日は、さくらから言わなかった。


 ノアが先に言った。


「おやすみ」


 さくらも言った。


 ランプを消した。


 暗闇の中で、白い花の匂いがした。


 においのない花だったはずなのに。


 気のせいかもしれない。


 気のせいじゃないかもしれない。


-----


 翌朝。


 さくらが目を覚ますと、ノアはいなかった。


 また外に出ているのかと思って窓を開けると——


 ノアは家の前の石段にいた。


 いつものように日向ぼっこを……していなかった。


 木剣を持って、一人で素振りをしていた。


 朝の冷たい空気の中で、小さな体が剣を振る。


 ぶん。


 ぶん。


 ぶん。


 昨夜ケンカして、一人で花を摘みに行って、朝から一人で素振りをしている。


 さくらはしばらく、それを窓から見ていた。


「……ノア」


 声をかけると、ノアが振り返った。


「起きたか」


「うん。朝から練習してんの?」


「習慣になった」


「そう」


「……見るな」


「きれいだよ、構え」


 ノアは少し固まった。


「……そうか」


「うん。昨日より良くなってる」


「……当然だ。余は毎日練習しておる」


「知ってる」


「……知っておるのか」


「朝が早いから、気づくこと多い」


「……」


「ちゃんと見てるよ」


 ノアはしばらく黙った。


 それから、また前を向いた。


 ぶん、と剣を振った。


「……朝飯まで、もう少し練習する」


「うん」


「見なくていいぞ」


「見てていい?」


「……見なくていいと言った」


「見てていい?」


「……好きにしろ」


 さくらは窓枠に肘をついて、ノアの素振りを見た。


 ぶん、ぶん、ぶん。


 朝の光の中で、プラチナブロンドが揺れた。


 ケンカした。


 仲直りした——わけでも、多分ない。


 でも、何かが少しだけ変わった気がした。


 何が変わったのかは、まだ分からない。


 分からないまま、コルナの朝が始まった。


-----


**【魔王の小さな冒険 其の七「魔王、一人で花を摘みに行った件」】**


 夜の町は、静かだった。


 のあちゃんはアリアの家を抜け出して、町の外れに向かっていた。


 目的は花だった。


 部屋の白い花が枯れそうだったから。


 それだけだ。


 それだけのはずだった。


 歩きながら、のあちゃんは今日のことを振り返った。


 ケンカした。


 パンから始まって、歩く速度の話になって、チョコの件まで掘り返されて。


 余も言いすぎた、とは思う。


 謝れば済むと思うな、は確かに言いすぎだった。


 でも。


「……無意識で置いていかれたのは、嫌だった」


 誰もいない夜の路地に向かって、のあちゃんはつぶやいた。


 無意識というのが、嫌だった。


 意識してないということは、気にしていないということで。


 気にしていないということは——


「……考えすぎだ」


 のあちゃんは首を振った。


 町の外れに出ると、月明かりの中に白い花が見えた。


 昼間とは少し違う顔をしていた。月の光の中で、静かに咲いている。


「……きれいだな」


 のあちゃんはしゃがんで、花を一輪摘んだ。


 余のために、と思った。


 余が見ていたいから、と思った。


 ピンクにあげるわけではない、と思った。


 三回思った。


「……三回も思わなくていい」


 のあちゃんは立ち上がった。


 月明かりの中で、花を持って歩く。


 誰も見ていない。


 だから、少しだけ正直になれる。


「……明日も、並んで歩けるといい」


 風が吹いた。


 草がさわさわと揺れた。


 のあちゃんは花を持って、アリアの家に帰った。


 部屋に戻ると、ピンクはもう寝ていた。


 古い花を抜いて、新しい花を挿した。


 それだけのことだったが。


 それだけで、少しだけ気持ちが落ち着いた。


 のあちゃんはそっと布団に入って、目を閉じた。


 明日も、並んで歩けるといい。


 もう一回だけ、思った。


-----


第8話に続きます。


一日の終わり、互いの存在を少しだけ意識しながらも、二人はまだ素直になれない。

それでも、無言のやり取りや小さな気遣いの積み重ねが、確実に心を近づけていることに気づかないわけではない。

明日も、また並んで歩けるだろうか──そんなささやかな希望を胸に、二人の夜は静かに更けていった。


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