第五話「カカオ採取のはずが魔王が囮になってるんですけど?」
今日はカカオ採取のはずだった。
だが、森に入った瞬間、想定外の冒険が待ち受けていた。
陽動役として立ち向かうのは、かつて恐れられた魔王――ノア。
彼女は自分の未熟さを隠しつつ、さくらのために全力を尽くす。
小さな勇気と工夫で、二人の絆はまた少し強くなる——そんな一日が、今、始まろうとしている。
朝から、ノアの機嫌が良かった。
良かった、というより——やたらと張り切っていた。
朝食のとき、いつもより早く起きてテーブルに着いていた。アリアに「早いのね」と言われて「余は常に早起きだ」と返していたが、昨日まで毎朝さくらに起こされていた事実は都合よく消えていた。
木剣を、食事の間も手の届く場所に置いていた。
さくらはパンをかじりながらそれを見て、何も言わなかった。
「今日はカカオを取ってくるのだな」
「そう」
「蛇がいるのだな」
「そう」
「余が陽動をするのだな」
「そうする予定」
「……余は準備ができておる」
「うん、見れば分かる」
「見れば分かる、とはどういう意味だ」
「そのままの意味」
「……剣を持っているからか」
「食事中も手元に置いてるしね」
「これは——いつでも動けるようにだ。有事に備えた配置だ」
「うん」
「楽しみにしているわけでは——」
「ノアちゃん、お代わりいる?」
アリアが割って入った。
「……いただく」
ノアはパンを受け取った。
さくらはアリアに目で「ありがとう」と伝えた。
アリアはにこっと笑った。
聖女だ、と改めて思った。
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ひまりのギルドに寄って、カカオ採取の最終確認をした。
「南の森の、大きな岩の近くに生えてます。実は赤くて丸くて、ラグビーボールみたいな形で」
「ラグビーボール……」
「元の世界の言葉で言うとそうなので! とにかく赤くて縦長の丸い実です」
「蛇は?」
「木の根元あたりにいることが多いって聞いてます。大きさは——」
「大人の男の人の身長より少し大きい、でしょ」
「そうです! よく覚えてますね」
「覚えておかないと死ぬから」
「物騒な言い方ですね……」
フロストが静かに地図を差し出した。
「こちらに採取ポイントを示してあります」
「ありがとう、フロスト」
「お気をつけて」
ノアがフロストを見た。
「フロスト」
「はい」
「今日は余が活躍する」
「……そうですか」
「見ておれ」
「私は商会におりますので見られませんが」
「……それでも言っておきたかった」
フロストは一瞬だけ目を細めた。
「……ご武運を」
「うむ」
さくらはその会話を聞きながら、何も言わなかった。
言えなかった、というほうが正しいかもしれない。
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南の森は、北の薬草の森より明らかに雰囲気が違った。
木が太くて、密度が高くて、光が届きにくい。足元がじめじめしていて、苔の匂いが濃い。
「……なんか、じめじめしてるね」
「蛇が好む環境だな」
「詳しいの?」
「魔王軍に蛇系の魔物が多かったから、生態は多少知っておる」
「へえ、それは心強い」
「当然だ。余の知識を頼りにするといい」
「蛇の弱点は?」
「急激な温度変化と、大きな振動だ。変温動物だから、急に冷えると動きが鈍くなる。振動は感覚器が発達しているから苦手とする」
「……なんか本当に詳しいね」
「魔王軍では役立つ知識だった」
「魔王軍ってなんか、大変そうだね」
「大変だった」
「休みとかあったの?」
「……なかった」
「それは本当に大変だったね」
「……まあ」
ノアは前を向いたまま歩いた。
「でも余がいなければ成り立たない組織だったから、仕方がない」
「ワンオペってやつじゃん」
「ワンオペ?」
「一人で全部やること」
「……そうかもしれん」
「フロストとかは?」
「四天王はよくやってくれていたが——最終的な判断は余がしなければならなかった。それは変わらない」
「……大変だったね、本当に」
「…………」
ノアは少し黙った。
「……同情か」
「まあ」
「魔王に同情するな」
「でも大変だったのは本当のことじゃん」
「……まあ、そうだが」
「休みなく働いてたなら、今のこの状況——異世界でのんびり薬草取ったりカカオ取ったりするの、嫌じゃない?」
「……嫌ではない」
「そう」
「……嫌では、ない」
ノアは木剣を握り直した。
「むしろ——いや、何でもない。着いたぞ」
前方に、大きな岩が見えた。
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岩は、思ったより大きかった。
二階建ての家くらいある岩が、森の中にどんと鎮座している。その周りに、赤くて縦長の丸い実がいくつも生っている木が何本か立っていた。
「あれか」
「そうだね、ひまりの言ってた通り」
「実が大きいな」
「カカオってああいうものらしい。さて——」
さくらは周囲を確認した。
蛇の姿は、今のところ見えない。
「木の根元、って言ってたね」
「そうだ。根元か、岩の陰にいる可能性が高い」
「見に行く前に、作戦を確認する」
「うむ」
「私が実を取る間、ノアが周囲を見張る。蛇が出たら、まず私に知らせる。その後陽動に入る」
「分かった」
「陽動は、蛇の注意を引けばいい。攻撃しなくていい。とにかく目立って、蛇をこっちに向けさせる」
「……攻撃しなくていいのか」
「今は戦力が足りないから、長期戦は避けたい。実を全部取ったら、一緒に逃げる」
「逃げるのか」
「蛇を倒す必要はない。ひまりが言ってたのは採取だから」
「……了解だ」
「ノア、一つだけ確認」
「なんだ」
「やらかさないで」
「やらかさん」
「蛇を見て逃げない?」
「逃げん」
「ぴぎゃって言わない?」
「……言わん」
「鷹のとき言ってたじゃん」
「あれは——状況が違う!! 余は準備ができていなかった!!」
「今日は準備できてるの?」
「できておる!!」
「じゃあ信じる」
「……信じるのか」
「少しだけ」
「……少しだけか」
「やらかしたら増やす予定だったのが減る」
「やらかさん!! 絶対にやらかさん!!」
「よろしい」
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さくらが木に近づいて、実に手を伸ばした。
ひまりに教わった通り、実の根元をねじって取る。ずっしりと重い。一個取れた。
「いいね、これ」
袋に入れる。もう一個。
ノアは少し離れた場所で、周囲を見張っていた。木剣を手に持って、目を細めて、草むらと木の根元を交互に確認している。
さくらは作業を続けながら、横目でノアを見た。
ちゃんとやっている。さっきから余計なことを言わずに、ちゃんと見張りをしている。
三個、四個。
袋が重くなってきた。
「さくら」
ノアが低い声で言った。
「何」
「岩の左、草むらが動いた」
さくらは手を止めて、岩の左を見た。
草がゆっくりと動いている。
そこから、出てきた。
蛇だった。
でかかった。
大人の男の身長より少し大きい、と聞いていたが——少しどころではない。二メートルは超えている。緑と茶色の模様が、光を受けてぬめりと光っている。
「……でかいね」
「……でかいな」
「聞いてた話より」
「……でかいな」
「ノア、大丈夫?」
「……大丈夫だ。余は準備ができておる」
「ぴぎゃって言いそう?」
「言わん!! 言わないから作業を続けろ!!」
蛇がこちらに気づいた。
頭を持ち上げて、舌をちろちろと動かしている。
「……ノア、陽動」
「うむ」
ノアが一歩前に出た。
木剣を両手で持って、構えを取った。重心を低く、足幅広く。昨日練習した通りの構えだった。
「余はノクス・アストラ=ノアだ!!」
ノアが叫んだ。
「魔王だ!! こっちを見ろ!!」
蛇が動いた。頭がノアに向いた。
「そうだ!! 余を見ろ!!」
さくらは急いで残りの実を取った。
二個、三個、どんどん袋に詰める。
蛇がノアに近づき始めた。
「……近づいてきたぞ!!」
「もうちょっと待って!!」
「もうちょっとってどのくらいだ!!」
「あと三個!!」
「早くしろ!!」
「早くしてる!!」
蛇が距離を縮めた。
ノアが後退した。一歩、二歩。でも逃げなかった。木剣を前に向けたまま、後退した。
「……さくら、かなり近い!!」
「あと一個!!」
「かなり近いと言っておる!!」
「取った!! 行くよ!!」
さくらは袋を掴んで走った。
「ノア、走れ!!」
「走っておる!!」
二人は森の中を走った。
蛇が追ってくる気配がある。
「速い!!」
「蛇は速いから!!」
「聞いてない!!」
「詳しいって言ってたじゃん!!」
「速いとは言ってない!!」
「蛇の弱点、何だっけ!!」
「振動と温度!!」
「振動!!」
さくらは走りながら、手のひらに魔力を集めた。
地面に向けて放つ。
ドン、と鈍い振動が地面を走った。
それほど強くない。でも、効いた。
蛇が一瞬止まった。
「今だ、走れ!!」
二人は全力で走った。
ちょこちょこ走るノアが遅れ始めた。
さくらは迷わずノアの手を引っ張った。
「掴まって!!」
「つ、掴まる!!」
引っ張りながら走る。袋も重い。ノアも重い——いや、軽い。軽すぎて逆に心配になる重さだった。
森の出口が見えた。
木の間から、光が差し込んでいる。
「もうちょっと!!」
「もうちょっとと言うな!! 足が——」
「あと少し!!」
「ちょこちょこにも限界があると——」
二人は森から飛び出した。
草原の上に、二人とも転がった。
どさん。
しばらく、空が見えた。
知らない鳥が飛んでいた。
「……」
「……」
蛇は、森の入口で止まっていた。
こちらを見ていたが、追ってこなかった。縄張りの端まで来て、引き返したらしい。
「……縄張りがあったんだ」
「……そのようだな」
二人は草原に倒れたまま、しばらく動かなかった。
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息が整ってから、ノアが口を開いた。
「……余は逃げなかった」
「うん」
「ぴぎゃとも言わなかった」
「言わなかった」
「陽動は成功した」
「した」
「……役に立ったか」
さくらはノアを見た。
草の上に大の字になって、プラチナブロンドの髪が広がっている。薄紫の瞳が、空を向いていた。
「役に立った」
「……少しだけか」
「いや、ちゃんと」
「ちゃんと?」
「ちゃんと役に立った。あの陽動がなかったら全部取れてなかった」
ノアは空を見たまま、何も言わなかった。
「木剣の構え、昨日より全然良かったし」
「……練習した」
「見れば分かる」
「見れば分かる、とはどういう——」
「ちゃんと練習してたの、知ってたから」
ノアが固まった。
「……何を」
「夜明け前に外で練習してたでしょ」
「……見ておったのか」
「窓から少し」
「……なぜ言わなかった」
「言ったら恥ずかしいでしょ」
「……ぐ」
「だから言わなかった」
「……余は別に恥ずかしくはない」
「そう」
「恥ずかしくないが——まあ、その、見られておったなら——」
「頑張ってたじゃん」
「……」
「ちゃんと見てた」
ノアはしばらく黙った。
それから、空を向いたまま言った。
「……次は、もっとうまくやる」
「うん」
「陽動だけじゃなく、攻撃もできるようにする」
「うん」
「魔力も、もっと戻す」
「うん」
「だから——」
「だから?」
「……だから、もっと期待しろ」
さくらは少し笑った。
「分かった。期待する」
「少しだけじゃなく」
「成果に応じて」
「今日の成果は?」
「多め」
「……多めか」
「多め」
「……もっと増やす」
「頑張れ」
ノアが草の上で、少しだけ笑った。
さくらは見えないふりをした。
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休憩の後、アリアに教わった魔力草を探すことにした。
「南の森の奥のほうにあるって言ってたな」
「さっきより奥に入るってこと? 蛇がいるのに?」
「蛇は縄張りがあると分かった。さっきの場所より奥の、別のエリアなら問題ない可能性がある」
「可能性、ね」
「余の知識では、蛇系の魔物は縄張りをあまり重複させない。さっきの蛇の縄張りが分かった以上、その外に行けば——」
「行ってみる?」
「……行ってみる価値はある。魔力草があれば余たちの回復が早まる」
「そうだね」
二人は慎重に森に再入場した。
蛇のいた岩を大きく迂回して、別の道から奥へ進む。
さくらが魔力を薄く広げて、周囲の気配を探った。
「……何も感じない」
「余も」
「大丈夫そう」
奥に進むにつれて、植生が変わった。苔が多くなって、足元が柔らかくなる。木の根が複雑に絡み合っていて、その隙間に光が差し込んでいる。
「……きれいだな」
ノアがつぶやいた。
「そうだね」
「この世界は——自然が、元の世界より豊かな気がする」
「魔法がある世界だから?」
「かもしれん。魔力が自然に干渉して、豊かにしておるのかもしれない」
「詳しいね」
「魔王として、世界の理を学んだ。余の世界もそういう仕組みだった」
「……余の世界、か」
「なんだ」
「帰りたい?」
ノアは少し間を置いた。
「……帰らなければならない」
「帰りたいかどうかを聞いてる」
「……魔王として、帰らなければならない。組織があって、部下がいて、やらなければならないことがある」
「それは帰らなければいけない理由であって、帰りたいかどうかとは別の話じゃん」
「……お主は、難しいことを聞く」
「そう?」
「……今は、答えたくない」
「うん」
「今じゃなければ?」
「……考えておく」
さくらはそれ以上聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かる気がした。
でも、それも言わなかった。
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魔力草は、大きな木の根元に群生していた。
薄い緑色の、細長い葉。光を受けてほんのりと輝いている。確かに魔力を持つ植物だと、さくらには分かった。体の近くに来ると、手のひらがじんわりとした。
「これだ」
「そうだね、魔力を感じる」
「余も——少し、感じる」
「感じるの?」
「……うっすら、と。でも確かに」
「それって、魔力が戻ってきてる証拠じゃない?」
「……かもしれん」
ノアは魔力草の前にしゃがんだ。
葉に触れた。
「……暖かい」
「うん」
「魔力が、流れ込んでくるような感覚がある」
「それアリアさんに教わって良かったね」
「……そうだな」
「いくつか持って帰って、アリアさんに調理してもらえばいいかも」
「食べると効果があると言っておったな」
「うん。生でも効くかもしれないけど、念のため」
二人で魔力草を丁寧に摘んだ。根っこを残して、葉だけ。
さくらが摘む横で、ノアもちゃんと葉だけ摘んでいた。
「……ちゃんと葉だけ摘んでる」
「学習した」
「薬草のとき根っこから引き抜いたのに」
「学習したと言った!!」
「えらいじゃん」
「当然だ。余は学習能力が高い」
「それはそうかもしれない」
「……本当にそう思うか?」
「木剣もそうだし、今日の陽動もそうだし。覚えるの、早い」
「……そうか」
「うん」
「……魔王として、必要なスキルだったから鍛えた」
「でも今はそれがここで活きてるじゃん」
「……そうだな」
ノアは摘んだ魔力草を袋に入れた。
その横顔が、少しだけ柔らかかった。
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帰り道。
森を出て、草原に入ったとき。
ノアが急に立ち止まった。
「どした」
「……あれ」
ノアが指をさした。
草原の端、森の境目のあたりに、花が咲いていた。
白い花だった。
群生しているわけではなく、ぽつんと、一輪だけ。でも、夕暮れの光の中でそれがやわらかく光っていた。
「……きれいだな」
ノアがつぶやいた。
「そうだね」
「こういう花が、余の世界にもあった」
「どんな花?」
「……名前は知らん。ただ、魔王城の庭に咲いていた。誰も手入れをしていないのに、毎年咲く花だった」
「毎年?」
「余が物心ついたときからあった。魔王城は古いから、百年以上は咲いていると思う」
「百年……」
「余が見ていた花とは、全然別物だろうが」
ノアはその花に近づいた。
しゃがんで、顔を近づけて、においを嗅ぐ。
「……においはない」
「そういう花もあるね」
「魔王城の花も、においがなかった」
「好きだったの? その花」
「……好きというわけでは」
「でも毎年見てたんでしょ」
「……見ていた、というだけだ。余の部屋の窓から見えたから」
「部屋の窓から見える場所に咲く花を、百年間誰かが見続けたんだね」
「……余の前の魔王たちも見ていたかもしれんな」
「なんかいいね、それ」
「何がだ」
「魔王代々の、誰も気にしてないけど毎年咲く花」
「……余は気にしておった」
「だから好きだったじゃん」
「……まあ」
ノアは花を見たまま、少し黙った。
「……摘んで帰っていいか」
「いいんじゃない」
「さくらにあげるとかではない」
「うん」
「余が見ていたいだけだ」
「うん」
「勘違いするな」
「してない」
「…………」
ノアは白い花を一輪、丁寧に摘んだ。
茎を短く折って、手に持った。
それから歩き始めた。
さくらもそれに続いた。
夕暮れの草原を、二人で歩いた。
ノアは白い花を、ずっと手に持っていた。
何も言わなかった。
さくらも何も言わなかった。
言わなくて、良かった。
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アリアの家に帰ると、アリアが玄関で待っていた。
「おかえり、二人とも。大変だったんじゃない?」
「まあ色々と」
「カカオは取れた?」
「取れました。あと、魔力草も」
「あら、見つけられたのね。じゃあ今夜のスープに入れましょうか」
「お願いします」
アリアがノアに気づいた。
「ノアちゃん、手に何か持ってるの?」
「……花だ」
「きれいね、白い花」
「……そうか」
「どこで摘んだの?」
「草原で見つけた」
「誰かにあげるの?」
「……余が見ていたいだけだ」
アリアはにこっと笑った。
「花瓶に挿してあげましょうか」
「……頼む」
アリアが花を受け取った。台所から小さな瓶を持ってきて、水を入れて、花を挿した。
テーブルの上に置いた。
白い花が、ランプの光の中で揺れた。
ノアはそれをじっと見た。
さくらもそれを見た。
「……余の世界の花に似ておる」
「そう」
「似ておるが——別物だ」
「うん」
「でも——」
「でも?」
「……悪くない」
ノアはテーブルに腰掛けた。
花から目を離さないまま。
さくらはため息をついた。
今日一日分の疲れが、じわりと出てきた。でも、悪い疲れではなかった。
「アリアさん、夕飯まだかかりますか」
「あと少しよ! お腹空いたでしょ」
「空いた」
「余も空いた」
「じゃあもう少し待ってて」
ランプの光の中で、白い花が揺れた。
コルナの夜が、始まっていた。
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**【魔王の小さな冒険 其の五「魔王、蛇と対峙した件の内幕」】**
のあちゃんは蛇を見たとき、正直、ぴぎゃと言いそうになった。
言いそうになった。
でも言わなかった。
これは大事なことなので、もう一度言う。
言わなかった。
言わなかったのは——なぜか。
のあちゃんは構えを取りながら、素早く考えた。
ここでぴぎゃと言えば、さくらに笑われる。笑われるのは癪だ。でも笑われることより大事な問題がある。
さくらが実を取り終わるまで、時間が必要だ。
自分がへたれたら、時間が稼げない。
時間が稼げなければ、さくらが困る。
さくらが困るのは——
のあちゃんは考えるのをやめた。
とにかく、言わなかった。
そして蛇に向かって「こっちを見ろ!!」と叫んだ。
蛇が向いてきたとき、内心は冷や汗をかいていた。でかい。でかすぎる。こんなの聞いてない。聞いていたが、実物はもっとでかい。
後退しながら、のあちゃんは木剣を前に向け続けた。
さくらに教わった構えで。
昨夜、誰にも見せずに練習した構えで。
蛇がじりじりと近づいてくる。
のあちゃんは後退しながら思った。
これが陽動だ。
目立って、注意を引いて、引きつける。攻撃しなくていい。ただ、向こうの視線を自分に向け続ける。
それだけでいい。
それだけで、さくらの役に立てる。
——なんか、悔しいな。
のあちゃんは思った。
もっと派手に戦いたかった。魔王らしく、圧倒的な力で蛇をねじ伏せたかった。
でも今はできない。
だから陽動をする。
今できることを、する。
「さくら、かなり近い!!」と叫んだとき、正直かなり怖かった。
「取った!! 行くよ!!」と聞こえたとき、正直めちゃくちゃほっとした。
全力で走ったとき、正直ちょこちょこが限界だった。
さくらに手を引っ張られたとき、正直助かったと思った。
草原に転がったとき、正直もう動けないと思った。
でも。
さくらが「役に立った」と言ったとき。
「ちゃんと役に立った」と言ったとき。
のあちゃんは空を見ながら、思った。
また、やろう。
次は、もっとうまくやろう。
魔力が戻ったら、陽動じゃなくて、ちゃんと戦おう。
そのときさくらが「ちゃんと役に立った」と言ってくれるなら——
のあちゃんは考えるのをやめた。
空に向かって、小さく言った。
「……次は、もっとうまくやる」
誰にも聞こえない声で。
草原の風が、さわさわと揺れた。
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第六話に続きます。
森の戦いが終わり、二人は草原に倒れ込む。
陽動を務め、恐怖に耐え、さくらを守り抜いたノア。
その小さな努力は確かに役立ち、二人の信頼を育んだ。
魔力を少しずつ取り戻しながら、次はもっと強くなる――そう決意するノア。
白い花のように控えめでも確かな存在感を放つ魔王の一日。
今日の冒険は、また新たな成長の始まりに過ぎない。




