第十五話「ポチが神の使いにされそうなんですけど?」
今回は少し賑やかで、少しだけ騒がしい日常回です。
……のはずだったんですが、なぜか一匹の子犬が事件の中心にいます。
クッキーを巡る追いかけっこに、まさかの再会、そして思わぬ展開へ。
いつも通りのコルナの一日――に見えて、少しだけ違う空気も混ざっています。
そんな一話、楽しんでいただけたら嬉しいです。
事件は、穏やかな午後に起きた。
さくらとノアが中庭で魔力の訓練をしていた。
ポチはノアの隣で眠っていた。
いつも通りだった。
いつも通りの午後だった。
アリアが台所の窓を開けた。
「ノアちゃん、おやつ持ってきたわよ」
「……いただく」
「さくらちゃんも休憩しなさい」
「ありがとうございます」
アリアが窓から小皿を出した。クッキーが乗っていた。
ノアが立ち上がった。
その瞬間。
ポチが目を覚ました。
鼻をくんくんさせた。
クッキーの匂いがした。
「……ポチ?」
ポチがノアの横をすり抜けた。
「ケルベロス?」
ポチがアリアの手からクッキーを一枚かっさらった。
「あっ」
「ケルベロス!!」
ポチが走り出した。
ちょこちょこではない。子犬にしては驚くほど速かった。
「待て!!」
ノアが追った。
ちょこちょこちょこちょこ。
「待てと言っておる!!」
ポチは待たなかった。
庭を抜けて、門を抜けて——
「ケルベロス!!!!」
町に出た。
-----
さくらも追いかけた。
ノアとさくらが石畳を走った。
「どこ行ったの!!」
「余の家来が——クッキーのために家来の誇りを捨てた!!」
「クッキー一枚でそんな大げさな!!」
「大げさではない!! 家来が主人を裏切って!!」
「裏切ってないよ、ただ食べたかっただけ!!」
「結果は同じだ!!」
町の人たちが、走る二人を見て道を空けた。
「なんだなんだ」
「また魔王の子が走ってるぞ」
「また魔王の子が、がもう定番になってるじゃん」
「コルナではもう定番だ」
ノアが走りながら叫んだ。
「ケルベロス!!! どこだ!!!」
返事はなかった。
犬に返事を求めるな、とさくらは思ったが言わなかった。
-----
広場の手前まで来たとき、人だかりが見えた。
白いローブ。旗。聞き覚えのある声。
「——そして女神様のお慈悲は、全ての生き物に注がれております!! 大きなものも、小さなものも——」
「……紫苑先輩」
さくらは止まった。
ノアも止まった。
「また集会をやっておる」
「また来てたんだ、この辺り」
「……先輩の宗教は行動範囲が広いな」
「広いね……って、あれ」
人だかりの中心を見た。
紫苑先輩が演説をしていた。
その足元に——
「……ポチ!?」
ポチがいた。
紫苑先輩の足元で、しっぽをふりふりしていた。
口にはまだクッキーがあった。
「ポチ!!」
「シーッ」
隣の信者に止められた。
「今、女神様のお言葉の最中で——」
「でもあれは余の家来で——」
「シーッ!!」
-----
紫苑先輩がポチに気づいた。
目を細めた。
しゃがんだ。
ポチを見た。
ポチが紫苑先輩を見た。
しっぽを振った。
「……あら」
紫苑先輩が微笑んだ。
立ち上がった。
信者たちに向かって、両手を広げた。
「皆さん!! 見てください!!」
信者たちが集まった。
「この子は——女神様が遣わされた使いです!!」
「「「ええっ!!!」」」
信者たちがざわめいた。
「黒い毛並み!! 大きな耳!! そして迷いなくこの場所に飛び込んできた!! これは偶然ではありません!!」
「「「おおおっ!!!」」」
「女神様が、今日この場所に、祝福を——」
「違う!!」
ノアが人だかりをかき分けた。
「余の家来だ!!」
全員が振り返った。
ノアが仁王立ちしていた。
「あの犬は、ケルベロスという名の余の家来だ!! 神の使いではない!!」
信者たちがざわめいた。
「この子が……?」
「でも女神様が——」
「女神様の言葉を否定するの?」
「否定する!! あの犬はクッキーを盗んで逃げてきただけだ!!」
紫苑先輩が穏やかに言った。
「でも、この場所に来たのは事実よ」
「偶然だ!!」
「偶然に見える出来事も、女神様の導きかもしれないわ」
「導きではない!! あの犬は鼻がいいだけだ!! クッキーの匂いを追ってきたに決まっておる!!」
「……クッキーを持ってる信者が、ちょうどここにいたのね」
「そうだ!!」
「それも偶然かしら?」
「偶然だ!!」
「……ふふ」
紫苑先輩が笑った。
ノアが歯噛みした。
さくらが人だかりの外から「ノア、落ち着いて」と言った。
「落ち着けるか!!」
「落ち着いて!!」
-----
ポチが紫苑先輩の腕の中に収まっていた。
きゅんきゅんしていた。
ノアがポチを見た。
「……ケルベロス、こっちに来い」
ポチは来なかった。
「ケルベロス!!」
ポチが紫苑先輩の胸に顔を埋めた。
「……」
「……ノア様ー、神の使いを独占するのはよくないと思いますー!!」
信者の一人が言った。
「神の使いではない!!」
「でもかわいいですよねー!!」
「かわいいのは認めるが神の使いではない!!」
「かわいいのは認めるんですね!!」
「……余の家来がかわいいのは当然だ!!」
さくらが近づいた。
「紫苑先輩、ポチ返してもらえますか」
「……さくら、久しぶりね」
「久しぶりです。ポチ、返してもらえますか」
「でもこの子、神の使いとして相応しい雰囲気があるのよね」
「ないです」
「あるわよ。黒い毛並みは神秘的だし」
「ただ黒いだけです」
「大きな耳は——」
「ただ耳が大きいだけです」
「澄んだ目は——」
「クッキーを狙ってる目です」
「……さくらは夢がないわね」
「現実を見てます」
紫苑先輩が少し考えた。
「……この子、名前は?」
「ケルベロスだ!!」
ノアが即答した。
「ポチです」
さくらが即答した。
「どっちなの」
「ケルベロスだ!!」
「ポチです」
「……ポチ、ね」
紫苑先輩がポチに話しかけた。
「ポチ、こっちに来る?」
ポチがしっぽを振った。
「ポチ、余のところに来い」
ノアが呼んだ。
ポチがノアを見た。
しっぽを振った。
でも動かなかった。
「……裏切り者」
「神の使いには逆らえないわ」
「神の使いではない!!」
-----
結局、さくらが解決した。
アリアから追加でクッキーをもらって、ノアに渡した。
「……ポチ」
ノアがクッキーをポチに見せた。
「こっちに来たらクッキーをやる」
ポチが紫苑先輩の腕から飛び降りた。
一目散にノアに走り寄った。
「……来た」
「食べ物には勝てないわね」
「信仰より食欲が強いのだ」
「……それは神の使いらしくないわね」
「だから神の使いではないと言った!!」
ポチがクッキーをもりもり食べた。
信者たちが少し落胆した顔をしていた。
「……神の使いじゃなかったのかな」
「でもかわいかったよ」
「かわいかった」
「また来てくれるといいな」
ノアがポチを抱き上げた。
「……余の家来を神の使いにしようとするな」
紫苑先輩に言った。
「ふふ。でも縁があれば、また来るかもよ」
「来させない」
「……来るかどうかは、ポチが決めることじゃない?」
「……」
「ポチは自由よ。神の使いかどうかはさておき」
「……余の家来は余のものだ」
「家来でも、自分の足で動くのよ」
ノアは少し黙った。
「……うるさい」
「ふふ」
紫苑先輩がさくらを見た。
「さくら、入信は?」
「しません」
「そう、残念ね」
「残念じゃないです」
「ノアは?」
「しない!!」
「ポチは?」
「ポチは——」
ノアが固まった。
「……犬は入信できるのか?」
「女神様はすべての存在を愛してらっしゃるから」
「……入信させない!!」
「ふふふ」
-----
帰り道。
さくらとノアとポチが並んで歩いた。
ポチはノアの腕の中で満足そうにしていた。
「……次は繋いでおく」
「ポチを?」
「勝手に走り出すから」
「繋いだら可哀想じゃない?」
「可哀想でも仕方がない。余の家来が神の使いにされかけた」
「神の使いにはならなかったから」
「なりかけた」
「食べ物には勝てなかっただけで」
「……余の家来が食べ物に負けた」
「ただの子犬だもん」
「ケルベロスだ」
「ポチだよ」
「……今日だけは、ポチでもいい」
「今日だけ?」
「今日は特別に許す」
「寛大だね」
「余は寛大な魔王だ」
さくらが笑った。
ノアが「笑うな」と言った。
「笑ってない」
「笑っておる」
「……少しだけ」
ノアもわずかに笑った。
石畳が午後の光を受けてきらきらしていた。
-----
そのとき。
さくらは気づいた。
視線だった。
笑いながら、ふと、横の路地に目が向いた。
何もいなかった。
でも——いた気がした。
一瞬だけ、確かに何かがいた。
さくらは立ち止まった。
「どうした?」
「……なんでもない」
「なんでもなくない顔だ」
「……なんでもない」
さくらはもう一度、路地を見た。
誰もいない。
ただの路地だった。
でも。
魔法少女として鍛えた目が、確かに何かを捉えていた。
視線の質が、普通ではなかった。
敵意でも、好奇心でもない。
観察していた。
冷静に、計算して、こちらを見ていた。
「……さくら?」
「……行こう」
「何かいたか?」
さくらはノアを見た。
ノアの顔を見た。
「……気のせいだと思う」
「気のせい、か?」
「……分からない」
ノアが路地を見た。
魔力を薄く広げた。
「……何も感じない」
「うん」
「ただ——」
「ただ?」
「……少し前まで、何かいた気がする。魔力の残滓がかすかに」
「やっぱり」
「何者だと思う?」
「……分からない。でも」
さくらは空を見た。
「……また来るかもしれない」
「次は捕まえる」
「捕まえられるといいけど」
「余の魔力が戻れば——」
「うん、戻れば」
二人は少し黙った。
ポチがきゅんと鳴いた。
「……行こう」
「うん」
二人は歩き出した。
さくらはもう一度だけ、後ろを振り返った。
誰もいなかった。
ただの、静かな路地だった。
でも——何かが始まっている気がした。
気のせいであってほしい、と思いながら、さくらは前を向いた。
-----
夜。
アリアの家で夕飯を食べて、ポチに叱ってから、布団に入った。
「……ポチ、次はクッキーを盗むな」
ポチはぺろっとノアの手を舐めた。
「反省しておらん」
「してないね」
「……来月は繋いでおく」
「可哀想」
「仕方がない」
「まあ、今日は帰ってきたから良かったじゃん」
「……帰ってきたから良かった、か」
「うん」
「……余も、そう思う」
ノアがポチを撫でた。
「……さくら」
「何」
「さっきの視線」
「……うん」
「本当に気のせいだと思うか」
さくらは少し間を置いた。
「……思わない」
「余も、思わない」
「うん」
「……何かが、動き始めているかもしれない」
「うん」
「そのときは——」
「そのときは一緒に対処する」
「……一人でやろうとするな」
「やらない」
「約束か?」
「……約束」
ノアが少し黙った。
「……余も、一人でやろうとしない」
「約束?」
「……約束だ」
ポチがくるりと丸まった。
ランプを消した。
暗闇の中で、さくらはまだ路地のことを考えていた。
何者だったのか。
なぜ見ていたのか。
なぜ、消えたのか。
答えは出なかった。
出なかったけれど——ノアが「一人でやろうとしない」と言ってくれた。
それで、少し楽になった。
「……おやすみ」
「おやすみ」
今夜は、さくらが先だった。
-----
**【魔王の小さな冒険 其の十五「魔王、家来の反乱を鎮圧できなかった件」】**
のあちゃんは布団の中で、今日のことを振り返っていた。
ポチがクッキーを盗んで逃げた。
紫苑という魔法少女に神の使いにされかけた。
クッキーで取り戻した。
「……情けない」
誰もいない暗闇に向かって、のあちゃんはつぶやいた。
「神の使いと余の家来を天秤にかけて、クッキーを選んだ」
ポチが胸元で眠っていた。
のあちゃんはため息をついた。
「……まあ」
でも、ポチは戻ってきた。
クッキー目当てだとしても、戻ってきた。
「……帰ってきたから、いい」
のあちゃんはポチを撫でた。
温かかった。
それから、さくらのことを考えた。
帰り道で、さくらが立ち止まった瞬間。
あの目。
魔法少女として何かを捉えた、鋭い目。
のあちゃんも魔力で確認した。何かがいた痕跡があった。
「……誰かが、余たちを見ていた」
静かな声でつぶやいた。
誰だろう。
余の魔力がまだ不安定だから、痕跡だけでは分からない。
でも——ただの通りすがりではない。あの観察の仕方は、目的を持った者の目だった。
のあちゃんは目を閉じた。
何かが動き始めているなら、時間がない。
魔力を、早く取り戻さなければ。
でも——さくらに言うべきだろうか。
言えば、さくらは警戒する。
確証もないのに、心配をかけたくない。
「……今はまだ、言わない」
のあちゃんは決めた。
確証が出たら、その時はさくらと一緒に対処する。
今夜の約束を思い出した。
一人でやろうとしない、と言った。
「……一人でやろうとしない、か」
のあちゃんは少し笑った。
余は魔王だ。一人でやるものだと思っていた。
でも今は——一人でやらなくていいかもしれない。
「……もう少し、待ってくれ」
誰にも聞こえない声で言った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ポチが一度だけ鳴いた。
のあちゃんは目を閉じた。
-----
第十六話に続きます。
第十五話、読んでいただきありがとうございます。
今回はポチ回でした。
……のはずなんですが、途中から妙な方向に転がりました。
神の使いにされかけるポチと、それを全力で否定するノア。
この構図、書いていてとても楽しかったです。
ただその一方で、ほんの少しだけ“違和感”も混ぜています。
さくらが感じた視線。
ノアも感じた、わずかな魔力の残滓。
まだはっきりとはしませんが、確実に何かが動き始めています。
それでも今回、一番大きかったのは二人の約束かもしれません。
「一人でやらない」
この言葉が、この先どう効いてくるのか。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。




