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死と豊穣②

 夜叉女神は破壊神の放った光に一瞬で灼きはらわれ、塵となって消し飛んだ。

 世界が暗転するほどすさまじい光に、メイは目がくらんだが──

「!」

 その一刹那に、〈見〉た。


 破壊神の、万物を灼きつくす力にすすがれ昇華してゆく塵の中に、天上の美をまとう、たおやかな女神の姿が立ちあがるのを見た。


 褐色の肌に、豊かな黒髪。そして夢のように美しい、若草色の瞳。


 柔和で心やさしく、いつもさまざまな生き物に囲まれている。

 はだしで歩み、行く先々に豊かな実りをもたらし、幸福に死んだ者の心臓を受け取る。


 彼女のゆくところには雨が降り、緑が萌え出る。

 山が崩れ、雪がすべてを埋め尽くす。

 すべてが次の豊穣をもたらす。


 実り、朽ち、命はめぐる。

 生まれ、老い、病み、死んでゆくものすべてを彼女は愛する。


 それゆえ、みずからの死にも未練はない。

 まったくない。


 この夜叉女神は破壊神と同じ。死を恐れず、生をも恐れない。

 それでも少しでも長く、現世のかたちにとどまろうとしたのは──霊狐のため。


 ──まだ幼い。


 女神の余韻は霊的な、ひきのばされた時間の中で、霊狐の上にかがみこむ。

 霊狐は気づかない。

 一瞬で塵にされてしまった、想い慕う女神の死の光景に、その瞬間に凍りついている。


 女神の余韻は幼子にするようにやさしく霊狐の頭をなで、額にキスした。

 涙はない。ほほ笑んでいる。


 消えた。


 りん──


「!」

 メイは、涼しい音をたてて小さな緑の宝石──霊玉(ウパーラ)が、蓮華細工の台座に落ちるのを見た。


 驚くべきことに台座には、焦げあとひとつついていなかった。

 周囲を囲む薄絹も、持ち主が灼きはらわれたのも知らぬげに、しんと垂れさがっている。

 緑の霊玉(ウパーラ)だけが強い神気を帯びて揺らめき、きらきらと輝いていた。


 第三眼を閉じた破壊神は、霊玉(ウパーラ)に気を惹かれたらしい

 無造作に、薄絹の結界に踏み入ろうとする。


「う……」


 霊狐が、()えた。

 爆発同然に本性をあらわし、燃え輝く九尾の残像を空間に灼きつけて破壊神に襲いかかる。

「!」

 霊狐のすさまじい顕現圧に吹き飛ばされ、メイはなすすべもなく床を転がった。


 その床が身体の下で、突きあげるように揺れる。

 きゃあ、と心の中で悲鳴をあげた時、猫神が巨大な猫姿でふわっとおおいかぶさってきた。

「だいじょうぶ。ごらん」

 猫神にささやかれ、メイは頭をかばったまま、おそるおそる目をあげる。

「あ……」


 九尾の霊狐は破壊神に片手でねじ伏せられ、床に横倒しになっていた。

 衝突の一瞬によほどの痛撃を食らったらしく、四肢が力をなくし、けいれんしている。


 だが意外にも、どこも斬り落とされていないし、血を流してもいなかった。

 獰猛な憤怒のうなりとともに牙の間からめらめらと青い炎を噴きあげ、首に置かれた破壊神の手をふりはらおうともがく。


 見れば蓮華座の囲いは巻き添えでずたずたになり、飛び散ってしまって見る影もなかった。

 破壊神があきれたように言う。

「なんだおまえ、ここは壊したくないんじゃなかったのか」


 しかし怒り狂う霊狐の瞳は真紅に染まり、言葉など耳に入らないようだった。たちまち回復していく四肢で床をかき、燃えあがる九尾に異界を丸ごと吹き飛ばしそうな力がこもる。


「静かにしろ」


 ぼき。


 木の幹が折れるような音がし、急に霊狐の身体から力が抜けた。九尾も力なく床に落ちる。

 衝撃と恐怖に、赤い目を見開いている。

 首を折られたのだった。


 そんなことをされるのは生まれて初めてだったにちがいない。

 霊狐ほどの大妖(たいよう)がこれだけで死ぬことはないが、さすがにすぐには動けない。


 破壊神はおとなしくなった霊狐の首筋を片手でつかみ、虎より大きい巨体を軽々とひきずって、囲いを失った蓮華座のもとへ戻った。

 蓮華座に片足をかけ、つめたい銀の目で、小さな緑の霊玉(ウパーラ)をのぞきこむ。


 霊玉(ウパーラ)は生き生きと明るく、時にまぶしくまたたき、輝いていた。

 時々、陽が射すような光までひらめく。

 かたかたと、みずから揺れはじめた。

 まるで、なにかが生まれようとしているような──とメイが感じた時、


「そうか。血が欲しいか」


 破壊神が言った。

 野山が一瞬で枯れ果てそうなほど、乾いた声音だった。草をむしるより無造作に、手近な生き物の首を──それが人でも獣でも神でも──かき切りそうな声音だった。


 霊狐は瞬間、死を覚悟した。

 猫神でさえぞっと毛を逆立て、その毛に隠れている小鬼も恐怖で動けなくなる。


 破壊神はしかし、ただ空いた手をのばし、霊玉(ウパーラ)の上にかざした。

 ぐっと握りしめる。

 破壊神の拳から鮮血が数滴したたり、小さな霊玉(ウパーラ)にかかった。

 みずからの爪で肉を破り、血をしぼり出して与えたのだと見る者が理解するより早く──


「!」

 小さな霊玉(ウパーラ)の光が、直視できないほどふくれあがった。

 光の中から緑が芽吹いたかと思うと、たちまち台座いっぱいに豊かに茂ってゆく。


 茂みのいただきに、つぼみが生じた。

 最初は緑だった固く小さなつぼみが、見る間に大きく白くなってゆき──

 光粉をまきちらし、ふくよかにほころんだ蓮に似た花の中から、人型の光が立ちあがる。

 その光が(こご)るにつれ、ゆっくりと、あどけない少女神のかたちをとった。


 幼い。

 二歳か三歳にしか見えない、

 簡素な古代の衣をまとい、幼い両手を胸に当てて、目を閉じている。

 褐色の肌につややかな黒髪をたらしていた。足もとははだし。


 ぱち、と目を見開いた。

 荼枳尼(だきに)天そっくりの、若草色の明るい瞳だ。

 だがまだ全身から光の余韻をまき散らしていて、夢見心地の表情──。


「…………」

 破壊神はふと、まだ首根っこをつかんだままだった霊狐が、少女神の顕現にすっかり毒気を抜かれ、瞳の色も金に戻っているのに気づいた。

 放り捨てる。


 霊狐はすでに、首を折られたダメージから回復していた。

 床を転がり、起き直った時には人型に戻っている。

 宮司姿で床にへたりこんだまま、霊狐は光り輝く少女神を、泣きそうな顔でふり仰いだ。


 今にも呼びかけようと手をのばし、口を開く。

 だがそこでためらい、動けなくなった。

 生まれたばかりの少女神に自分から声をかける勇気が、どうしても見つからない──。


「…………」

 幼い少女神は、生まれて初めて、まばたきした。

 にっこりした。

 なにもなくとも、ただ存在しているだけで幸せ、という笑顔だった。


 少女神を生み出し終えた花の茂みがゆっくりと枯れしぼみ、塵になってゆく。

 茂みのてっぺんに乗っていた少女神は、茂みが崩壊するにつれゆっくりと降下し──

 蓮華座に、着地した。


 ちょっとよたつき、人の子のように両手を広げてバランスを取る。

 転ばなかった。

 また、にっこりする。


 それからやっと、そばで見ている破壊神に気づいた。

 目をあげ、破壊神のつめたい銀のまなざしを()じずに受け止めて、まばゆい笑顔になる。

 鈴をふるような声で言った。


「ととさま」


「誰がおまえの父だ」

 眉をひそめる破壊神に、少女神はまわらぬ舌で、たどたどしく答える。

「あなたです。いだいなる、まはーかーら。はかいとさいせいをつかさどるかみよ」

「生まれたてのくせに仰々しい物言いをするやつだ」


 うなる破壊神にも動じず、幼い少女神は簡素な衣服のふところから、なにかを取り出した。

 華奢なつくりの、きらめく金の腕輪。亡き夜叉女神のものにちがいない。

 破壊神に向かって、のびあがるようにしてさしだす。


「かかさまから、ととさまへのおんれいです」

「光り物は好かん」

 にべもない破壊神の拒絶に、少女神はふるふると黒髪を揺らして頭を横にふった。


「これは、れいいです。ととさまにあうかたちになります。きっとおやくにたちます、と、かかさまが」

 なにがなんでも受け取ってほしい、という決意もあらわに、幼い少女神はつまさきだち、蓮華座から落ちそうにふらつきながら、けんめいにさしだす。


 根負けしてか、破壊神は気のない様子で受け取った。

 優美にきらめく黄金の腕輪が、破壊神の手にふれるやいなや沈んだ鉄色に変わるのを見て、メイと小鬼は息をのんだ。


 不思議な腕輪は、命のあるもののようにみずから破壊神の腕をするするとはいあがり、ひじの少し上あたりに武骨な形で巻きついて──静かになる。

 すると破壊神が、驚いたような顔をした。


 なにか、はっきりわかる効果があったらしい。認める。

「こいつは……悪くない」

「なによりです」

 もみじのような両手を合わせて喜ぶ少女神に、しかし破壊神は言った。


「おまえの母が何千年もかけて鍛えた品だろう。おまえが持っておかなくていいのか」

「おさないわたしには、むようのしなです」

 にっこり、晴れやかにほほ笑む少女神をながめて、破壊神はなるほど、という顔をする。


「そういえばそうか。ではもらっておく」

 破壊神の「所有の意思の表明」を受けたとたん、鉄色の腕輪は急に圧倒的なまでに存在感を増し、たちまち無敵の神の気になじんだ。


 (いくさ)神と気を共有する存在となったそれはもはや、ただの飾りではなかった。

 破壊神の刃にひとしい重厚な存在感が、その硬度を証明している。

 おそらく地上最強の防具。

 新たな神器の誕生──と理解して、猫神の目が畏怖と憧憬に真っ黒になる。


 破壊神は用はすんだとばかりあっさり縮身し、空中できびすを返した。

「わあ……!」

 初めて見る術に、幼い少女神は無邪気に顔を輝かせる。


 破壊神はしかし背後には一瞥(いちべつ)もくれず、すべるように飛んで、メイのもとへ戻った。

 あわてて人型に戻る猫神の前で、床にへたりこんだままのメイを見おろして言う。

「帰るぞ」

「え……で、でも……まだお供えをお渡ししてなくて……」


 奇跡の花を詰めたランドリーバッグを探して、メイはあせって周囲を見まわす。

 すわる時、近くに置いたはずのバッグは霊狐の大暴れで吹き飛ばされ、建物のすみの柱の残骸にひっかかって、かろうじて止まっていた。

 猫神と小鬼も我に返り、階段の下に置き去りにしたランドリーバッグを回収しに走る。


 すぐ、持参した四つがきちんとそろった。

「布袋に小分けして入れといて良かったねえ。おかげで花はひとつも、散らばらなかったよ」

「焦げてもおらぬ」

 メイは気持ちだけでもと衣服をはらい、整え、深呼吸して気を鎮める。


 それから猫神、小鬼に手伝ってもらって、四つのランドリーバッグを少女神の前に運んだ。

 まぶしいほどの好奇心に大きな目をきらめかせ、蓮華座の上でわくわくと待っている愛らしい少女神に手を合わせ、心をこめて拝礼する。


「ご誕生のお祝いを申しあげます。おめでとうございます。神納五月と申します。お母さまにさしあげるはずだったお供えを持参しております。おそれながら、姫神様にさしあげてもよろしいでしょうか」

「えっ、それ、くれるの?」


 幼い少女神はぱあっと満面を輝かせて小躍りした。

「うれしい! ちょうだい、ちょうだい!」

 幼い手をいっぱいに広げ、小さく跳びはねる少女神に、メイは思わずほほ笑む。


 ランドリーバッグから、奇跡の花を詰めた布袋をひとつ取りだし、少女神に手渡した。

 だがその重さに少女神がよろめくのを見て、あわてて手をそえ、蓮華座の上に置く。

 袋の口をとじているひもも代わりにほどき、袋を開いてさしあげた。

「わあ……! わああ……!」


 たちまちあふれる奇跡の花の芳香、こぼれ出る霊気の光に少女神は頬を染めて歓喜。

 幼い手を無造作に袋につっこみ、つかんだ奇跡の花を上に投げあげる。


「!」

 メイの奇跡の花は少女神の頭上で、まばゆい光となってほどけた。

 その光の中からたちまち何千倍もの光の花が生まれ、とめどなく舞いあがっていく。


 幼い少女神はきゃっきゃとはしゃぎながら次々に花をつかんでは投げ、また投げる。

 たちまちあたりは透明な芳香と、すべてをかすませるような光に包まれ──

「!」


 ひとつめの袋がからになる前に、残りすべての布袋の口が、自然にほどけた。


 開いた。


 どっと花々があふれ、荒々しいほどまぶしい光の滝となってとめどなく舞いあがる。

 世界も、見る者の魂も、たちまちかぐわしい光にぬりつぶされ──


        ◆


「…………」

 ふと我に返ると花も、花を詰めてきた布袋どころかバッグまで、きれいになくなっていた。

 建物の床の塗りのはげはきれいに直り、けれど、柱や屋根はもうない。


 変わらぬ明るい光に照らされた異界の風景に、メイは息をのんだ。

 社殿を包んでいた鬱蒼たる森の紅葉が──

 爛漫(らんまん)と咲きこぼれる、満開の花々に変わっていた。


 見渡すかぎり、花、また花の海。


 まぶしいほど光をふくんだたわわな花々は、桜にも見え、ほかのあらゆる花にも見えた。

 心地よいそよ風が、不思議な花の香を運んでくる。

 ちらほらと花びらが舞い、どこかでミツバチの羽音さえする。


 すべてが息を吹き返したようにいきいきしていた。


 秋は去り、春になったのだ。


 そして──


「……!」

 蓮華座の上に立つ少女神は、ひとまわり大きくなっていた。

 さっきまで二、三歳にしか見えなかったのに、今は五歳か、六歳ぐらいに見える。

 髪ものび、装いも少しおとなびて、胸もとや手首にシンプルな装身具も生じていた。


「ありがとう」


 さっきよりずっと流ちょうに言葉をつむぎ、にっこりほほ笑むまばゆい少女神に、メイは息をのんだ。それどころか少女神は、生まれたてなのにすべてを知っているらしく、

「母の神使が迷惑をかけました」

 と続けた。


 メイはあわてて両手をあげる。

「いえ、どうかお気になさらないでください……! おかげさまで、家族にウソをつきつづけなくて良くなりました。たくさん学びました。ありがとうございました」

 感謝をこめて一礼するメイを蓮華座から見おろし、少女神はにっこりした。

「神饌の姫」

「?」


 自分のことを言われてるとは思わず、きょとんと顔をあげるメイに、少女神は教える。

「あなたのことです。神々の蜜。アムリタ。至高の霊果。千年にひとりのごちそう」

「あ……最後の、言われたことあります」

「クシナダ姫」

「はい」


 霊狐にもそう呼ばれたので、メイはうなずく。すると少女神は、人の心に畏怖をよびおこす、やさしくも厳しい、夜叉神ならではの笑みを浮かべた。

「我が父、スサノオノミコトをどうか、最後まで支えてくださいね」

「もちろんです」

 即答するメイに、破壊神はなにか言いたげな顔をしたが──。


 その時ようやく、まだ離れたところにすわりこんでいた霊狐が、震える声を発した。

「姫神様」

 少女神の視線に耐えられないかのように、目が合う前に平伏する。


 か細い声で謝罪した。

「どうか……どうかお許しを。母君をお守りしきれず……」

「許します」

 少女神はよく響く声で言い、鷹揚にほほ笑む。


「そなたは立派に働いてくれました。母が永きにわたり、つつがなく眠ることができたのは、そなたのおかげです」

 なんというやさしい言葉だろう。

 夜叉神の飢えの苦しみを、片鱗とはいえ知っているメイは胸が痛む──。


 しかしそれは、霊狐とて同様だった。

 最後の最後に破壊神に「焼いてくれ」とたのんだ女神が、延命を望んでいなかったのは火を見るより明らかだ。

 霊狐は痛いほど悟っていた。

 だから平伏したまま、なにも言えずにいた。


 自分がすがったから。早くお元気になってほしいとしゃにむに願いすぎたから、それで愛する女神に、苦しみを強いてしまった。けれど──でも──それでも──!


 罪悪感と慟哭、怒りと後悔に引き裂かれ、霊狐の目は誰にも気づかれないまま真紅に染まった。血涙がにじんだ。そして──


 ぱき。


 と、存在のひび割れる音が鋭く響き、メイと小鬼、猫神はぎょっとする。

 しかし少女神は、気づいたふうもなく穏やかに語を継いだ。

「そなたにたのみがあります」


「な……なんでありましょう」

「そなたさえよければ、これからはわたしに仕えてほしい。わたしの育ちを助け、手足となり、ことの理非を解いてほしい。できますか」

「……!」


 九尾の霊狐。

 事象の揺らぎの申し子にして根っからのいたずら者は、一瞬、自信なさそうにためらった。

 だがすぐ心を決めて顔をあげ、言あげする。

「できます。この命にかえても、やりとげてごらんにいれます」

「!」


 瞬間、霊狐の神気が気圧されるほど、今までとはけたはずれに大きくふくらんだ。

 質までくっきり変化したのを感じ、小さな破壊神はうすく笑い、他の一同は息をのむ。


 霊狐は今や、甘え慕う者ではなく、導き守る者。

 気まぐれに乱す者ではなく、つかさどる者となった。


 霊気も声音もふるまいも、たちまち夜空のように()ぎ鎮まり、平静に問う。

「姫神様、貴女様をなんとお呼びすればよろしいか」


「この地の神語りの言霊(ことだま)にのっとり、スサノオノミコトの助力によって生を受けたわたしはウカノミタマと名乗りましょう。我がつかさどるは死と豊穣」


 名乗りの言あげで幼い夜叉女神は爆発的な霊気を放ち、神々しく光り輝く。

 もう、メイや小鬼、猫神には、少女神のかたちを見定めることさえできない。


「ほむら」


 やさしく、きびしく、美しい声に名を呼ばれ、霊狐を歓喜の震えを抑えて頭をさげる。

「はい」

「お客さまをお送りしなさい」

 霊狐の返事も聞かないうちに──


 一同はもう、メイの家の前に立っていた。


        ◆


「たった今、遠見係が確認しました! 全員無事、現世に戻って来たそうです!」

 スマホをチェックしていたひとりが、明るい顔で報告する。


「あー、良かったあ! さすがにちょっと心配しちゃった」

 白いジャージ姿でばんざいしたのはメイ直属の上司、零課〈お掃除班〉班長、諸淵(もろぶち)千里(せんり)だ。

 そのとなりで、大矢野課長が(つの)ぶち眼鏡を直し、のんびり笑った。

「だからだいじょうぶです、って言ったでしょう」


「そう言われましても、今度ばかりはさすがにねえ」

 年配の課員が、安堵のため息とともに肩を落とす。


「まだお若い龍神様と素戔嗚尊(すさのおのみこと)が戦われただけで、あの嵐に洪水ですよ! 今回は本邦でも指折りの力ある夜叉女神様に、そのお使いであられる名高き霊狐様、そのうえお目覚めになった素戔嗚尊までおそろいときてはもう! なにが起きても不思議はないというか……」


「まあまあ、なんにも起きなくて良かったじゃないですかー」

 千里があっけらかんと笑う。


 からりと晴れた空に、日はまだ高かった。

 色づいたもみじやイチョウが美しい、こぢんまりした稲荷社の境内である。


 あらかじめ設置した結界のおかげで、社の関係者ふくめ、半径一キロ以内に人はいない。

 そこに十人ほどの零課課員が集まっていた。

 大矢野課長以下、現役非常勤問わず、えりすぐりのメンバーである。

 稲荷神の異界でなにかあった時、緊急対処するためだった。


「課長、あの霊狐様、本当に放置しておいてかまわないのですか」

 地味でまじめそうな女性が手を挙げてきく。

「いいんじゃないでしょうか」

 のほほんと答える大矢野課長に、茶髪の課員がちょっと顔をしかめた。


「でもあのお狐様には今回かなり……すごく干渉された印象があります。肝心の時に誰も神納巡査を監視してない、とか、人間に化けて好き勝手してたのに誰も気がつかない、とか」

 まじめそうな女性がうなずいて、続ける。


「因果律を操る神霊に勝手をされたら、人間は手も足も出ません。零課は人の世を守る警察として、神相手でも忖度(そんたく)せず違反は違反ときちんと通達し、一線をひくべきかと……」

「通達しようにも、証拠がありませんし」

「ですが……」


「そもそも因果律って、人はもちろん霊狐様にだって、読み切れないものだと思うんですよ」

 どういう意味だろう、と顔を見合わせる部下たちに、大矢野課長はにっこり指摘した。

「つまりですね、今回なにもかも丸くおさまったのは、霊狐様の気まぐれや干渉があったからこそだった……! という可能性だって、大いにあるわけです」

「あっ……」


 その可能性は否定できない、と気づいて茶髪の課員はううーん、とむずかしい顔になる。

 大矢野課長は笑った。

「霊狐様の心配をする必要がない理由は、まだありまして」

「ほんとですか」


「実は、稲荷神様が先ほど代替わりされました」

「えっ」

 息をのむ一同を見渡し、ひとり、異界の出来事を〈見て〉いたらしい課長は続ける。


「そういうわけで霊狐様には今、命よりたいせつな使命がおありなのです。幼い夜叉女神様をお守りしお育てするのに、少なくとも数百年はかかりっきりになられるはず。今後、現世でわけもなくいたずらをなさることなど、まずないと思いますよ」

 稲荷社の境内がしん、と静まりかえった時、


「そのとおりや、安心しい」

 人型の霊狐が忽然とあらわれ、みなの間に立った。

 全員がぎょっと凍りつく。


 幻術か分身か、あるいは本体か。課長をふくめて誰ひとり、見分けられない。

 霊狐はにこにこと大矢野課長に近づき、親しげにぽん、と肩をたたいた。

「あんた、好きかもしれへん。盗んだ運、返しとくわ」

「え……」


「いやあ、かんにんな。あんさんにだけは邪魔されとうなかったさかい、念を入れてちょい、せわしなくさせてもろてん」

「ええー、道理で……」

 脱力顔でうめく課長に、千里が思わずささやく。

「なにかあったんですか」

「あったもなにも……」


 はああ、とため息をついて大矢野課長はぼやいた。

「お隣さんはぼやを出すし、やたらと緊急案件が重なるし、夜中に湯沸かしが壊れて水しか出なくなってお風呂でカゼひくし、買ったお弁当が傷んでておなか壊して……」

「えええ、そ、そんなに?」


「ずっと体調悪いし霊力も絶不調で、何度も目的地に飛びそこなうし、ほとほと困って……」

「……課長がいちばん、迷惑かけられたんじゃないですか」

 やっぱり霊狐に反則つけて罰則を科すべきだ! という顔になる茶髪の課員をよそに、大矢野課長はひと息ついて背をのばした。


 気を取り直して合掌し、折り目正しく霊狐──の幻かもしれないが──に一礼する。

「それでも、ありがとうございました。おかげさまで万事丸くおさまりました。感謝申しあげます。あわせまして姫神様のご誕生を、心よりお祝い申しあげます」

 そのまま、しばし黙祷する。


 零課最強。

 希代の霊能者の拝礼にたちまち場の空気がぬぐわれ、聖域のように澄みわたる。

 メイの祈念にまさるとも劣らないまばゆい祈念を受け、霊狐は透明な瞳をやわらげた。

「挨拶、たしかに受け取った」

 という声の余韻も消えぬ間に、すでに姿がない。


 一同はほっと緊張を解き、次いで女性陣がもりあがる。

「えええー、今のが九尾の霊狐様?」

「イケメン! すっごいイケメンだったよね!」

「さすがお狐様」

「九尾のお姿も見たかった!」


「まあ、霊狐様はいいとして……」


 ぼそっと口をはさんだのは、少し離れて立っていた、背の高いパンクロッカーだ。

 男性で、頬骨が目立つほど痩せ型。

 肌はあくまで青白く、目の周りを黒々とくまどり、黒いリップまでぬっている。


 脱色した短髪を逆立て、金属のアクセサリーをじゃらじゃらとつけているが、実のところ、化粧が濃すぎて年齢さえよくわからなかった。

 どう見ても、コスプレイヤーかパンクロッカー。少なくとも、警察官にだけは見えない。


「ぼくは、暗黒神(マハーカーラ)様の方が心配です」


 誰とも目を合わさず、ひとりごとのように言うのを、千里が笑い飛ばした。

「またまたー、湯木(ゆき)さんってば心配症! メイちゃんの守護神様はだいじょうぶ! 何度も会ってるわたしが言うんだから信用してよ。うちの班なんか、すごくお世話になってるし」


 しかし千里の発言をほとんど無視して、感情表現の薄いパンクロッカーは淡々と続ける。

暗黒神(マハーカーラ)様は現存する中で最古の部類の、稲荷神様より古い夜叉神様です。非常に安定しておられた。あのままであれば安心でした」

「…………」


「しかし霊玉(ウパーラ)を失われて以降、急激に変化しておられる。心配です。あの方が万一、壊滅的崩壊を起こした場合は、この地方どころか、国が丸まる消し飛んでしまいます」

「あ、それでしたら心配は無用です」


 大矢野課長の明るい横やりに、パンクロッカーはやっと目をあげた。

「そうなんですか?」

「あの方は、すでに砕けてしまわれたので」

「!」

 一同は息をのんだ。


「えっ? えええっ? いつ? だって、たった今、メイちゃんと一緒に行動してて……」

「いや課長、砕けた夜叉神様はふつう、その……亡くなられるはずでは」

「それなら大変な被害が出ているはずですよ!」

 血相を変える部下たちをなだめるように、大矢野課長はちょっと手をあげる。


「あの方は神納さんの願いに応じて、人を殺さない、と言あげなさっています。人をひとりも殺さずに散ることは不可能なので、命が尽きても決して散ることのないよう、全力で工夫してくださったんですよ。ありがたいことです」

「!」


 あぜんとする一同をよそに、パンクロッカーは、それでほんとうに問題が解決したのかどうか──と冷静に考察する面もちで宙に目をやり、とがったあごをなでる。


 上品な着物姿の老婦人が、発言を求めておっとりと手を挙げた。

「そういえば先月、少し……気になることがございまして」

「なんでしょう」


「夜遅く、お掃除班のお手伝いにうかがう途中……とてつもない力を発して飛ぶものを見かけたんです。しかも何度〈見〉ましても、いつまでもいつまでも、飛んでおりましてね。もののけさんのお祭りでどなたかが超弩級の術でも打ち上げたか、でなければヌシ様がたが大勢で、夜通し競争でもしてらっしゃるのか、などと思っていたのですけれど……」


 着物姿の老婦人はごく、と緊張にのどを鳴らした。

「でもさきほど霊狐様を拝見いたしまして、あれはもしかして神様だったのかしら、と思い当たりましてね。わたくし、素戔嗚尊を存じあげませんので、確かなことは申せませんが……」


「十月二十三日のことですか」

 にこやかにきく大矢野課長に、

「二十三……あ! はい、はい、確かその日でした」

 こくこくとうなずく老婦人の横から、別の課員が目を丸くして割りこむ。


「二十三日の晩? じゃあ、オレが感じたのもそれかなあ。夜空をまっつぐあがってくヘンなもんを感じたんですよ。大地震みてぇなどえれぇ霊気に、たたき起こされちまって」

「それ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)です」

「夜中にいってぇなにごとで? 月へでも行けちまいそうなぶっ飛んだパワー出してたけど」

「行ったんですよ、月に」


 けろりと答える大矢野課長に、場の全員が目をむいた。

「え……つ、月に……?」

「妖怪って宇宙でも飛べるの?」

「空気なくても平気なんだ! うわあ……」

「い……いったいなんのために神様が、わざわざ月になんか!? わけわかんない!」

 いっせいに詰め寄られ、大矢野課長はたじたじたと後ずさる。


「言っても信じないと思いますけど……」

「?」

「その日が誕生日だった神納さんに、月の石をプレゼントするためです」

「………………は?」

 誰かが気の抜けたような声を発したが、誰も笑わない。

 大矢野課長だけが目もとをゆるめた。


「神納さん、持ってますよ。神様の熱で溶けてガラス玉になっちゃった月の石を。お守り袋に入れて、肌身離さず首にかけて」

「…………」


 夜叉神の中の夜叉神、最強の破壊神が、人の少女に誕生日プレゼントをあげた──?

 なにか、聞いてはいけないことを聞いてしまったような、居心地の悪い沈黙が場に満ちる。

 千里がぶはっ、と吹き出した。


「やだ、なにそれ可愛い! どうしよう、夜叉神様、可愛い!」

 何人かがつられて吹き出し、くすくす笑いが広がる。

 しかし茶髪の課員は「可愛い」とは思わなかったようだ。きまじめに身を乗り出し、


「いや、その石、じゃなくてガラス玉か……危険なんじゃないですか? そんなふうに気軽に持ち歩いてだいじょうぶなものかどうか、ちゃんと調べて確認した方がいいと思……」

「それはできません。核爆発レベルの霊気が焼きついてるので、たとえ神納さんの許可があっても、不用意に見たりさわったりしたら死にますよ、って中富さんが」

「!」

 遠見係のエース、零課最高の千里眼の忠告とあって、茶髪の課員もしぶしぶひきさがる。


 あるかなしかの風が木々の梢をなでた。

 はらはらと、赤や黄色の落ち葉が舞い落ちてくる。

 大矢野課長は課員一同の顔を見渡し、あらたまって一礼した。


「なにはともあれ、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございました。なにごともなくすみましたのは、みなさんのふだんの行いの良さのおかげも多分にあるかと」

 さざ波のように広がる笑いを受けて、いたずらっぽい笑顔をあげる。


「ちなみに今回、私たちは豊穣神のお使いに貸しをつくりましたので、今、宝くじとか買ったら当たるかもしれません。試してごらんになっては」

 と言ってさらにみなを笑わせ、背をのばす。

「ひきつづき、通常業務の方、どうぞよろしくお願いします。お疲れさまでした」

「お疲れさまでした!」

 一同は声をそろえ、なごやかに解散する。


 それぞれ敷地の外に停めた車や自転車、原付に乗って立ち去り、ほどなく境内には大矢野課長と千里、そしてパンクロッカーが残るだけになった。


 話を切り出すタイミングをねらってじりじりしている千里を、課長はおかしそうに見る。

「ご要望をどうぞ」

「神納五月巡査を、正式に鎮静班にくださいっ!」


「このあいだも言いましたが、それは本人が決めることです」

「そこをなんとかー」

 文字通り、拝むようにしてたのむ千里に、大矢野課長は笑った。


「まあまあ、あせらず神納さんの決心を待ちましょう。それに配属先を決める前にまず……」

 と、黙ってたたずむパンクロッカーに目を向ける。

「湯木君にも一度、神納さんと守護神様を見てもらいませんと」


 パンクロッカーはしかし、無言で目をそらした。

 大矢野課長はかまわず、にこにこと続ける。

「先週、お願いしましたよね」

「…………」

「サポート係からも、依頼がいってるはずです」

 という課長の言葉に、千里が不服そうに割りこんだ。


「メイちゃんが……討伐術を発動したからですか」

「そうです。中富さんが〈見た〉ものを見せてもらいましたが、すごい威力でしたよ」

「ええー」


「ただ、神納さんはまだやり方を知りません。あれでは強い妖異には通用しませんし、一発しか撃てませんし、猫神様のサポートがなければ、本人が真っ先に灰になっていたでしょう」

「!」


「使わないのが前提の、威嚇用討伐術ではなく、実地で使える術を学ぶ必要があります」

 言われて、パンクロッカーは足もとに目を落としたまま、ぼそぼそとつぶやく。


「真悟さんが……教えてあげればいいじゃないですか」

「湯木君にお願いしたいんです」

「……お断りさせてください。これをお伝えするために残ったんです」

「そう言わず、ちょっとだけ、ふたりを見るだけでもいいですから」

「…………」


 背の高いパンクロッカーは黙って、課長と千里に背を向けた。

 ざくっざくっと砂利を踏み境内の植えこみをかきわけ、駐車場とは逆の敷地裏手へ向かう。

「ちょっ……湯木さんったら!」

 あきれる千里の横で、大矢野課長はのどかな声をはりあげた。

「お願いしましたからねー」


 パンクロッカーの後ろ姿が木立の向こうに消えるのを見送って、苦笑まじりに頬をかく。

「あれは……どうかなあ、ちゃんと会いに行ってくれるかなあ」


「いいんですよ行かないでも。メイちゃんの霊力は絶対、討伐術向きじゃないですもん」

「だからこそ、ですよ」

 パンクロッカーの去った方を見つめる課長のまなざしが一瞬、戦場の指揮官のそれになる。


「だからこそ、S級妖異をひとりで討てる討伐班班長、湯木十蔵(じゆうぞう)の意見を聞きたいんです」

「うう……」

 死ぬほど不満そうな千里に、大矢野課長はなごやかな笑顔を向けた。


「でもそれまでは神納さんは千里さんの部下です。しっかり鍛えてあげてください」

「はいっ、喜んで!」

 勇んで敬礼する千里に、課長は気さくに手をふり──

 空間移動でかき消えた。


「……何度見ても、見慣れないわー。課長って人間なのに、妖怪みたい」

 千里はポニーテールを揺らして小走りに駐車場に向かい、愛車に乗りこむ。


 敷地を出た千里の車のエンジン音が、聞こえなくなるまでじいっと耳をこらして──

 神社裏手の農道で、黒い大型バイクにまたがったパンクロッカーが、ため息をついた。


「ぼくはね……怖いんですよ」

 もうそこにいない上司に、なおも言い訳するかのようにぼそぼそとつぶやく。

「見たら……見られるわけですし」

 サングラスをかけ、ヘルメットをかぶった。几帳面にグローブもはめる。


「それにやっぱり……」

 手慣れたひと蹴りでバイクを始動、ドッドッドッと低いエンジン音を響かせる大型バイクののハンドルを握りながら、ヘルメットの中でつぶやく。

暗黒神(マハーカーラ)様は、信用できない」


 警察庁霊能局討伐班班長、湯木十蔵は、小道に積もった色鮮やかな落ち葉を巻きあげ、たちまち走り去った。

  



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