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我、望むゆえに②

 小さな破壊神は、ぼうぜんとしていた。


 目覚めたのは少し前。

 空は晴れ、朝の日射しに梢が明るい──つまり、目は見えている。

 風が起こす葉ずれの音や、近くの谷の沢の水音がわかるから、耳も機能している。

 だが動くことなど、頭をよぎりもしなかった。

 痛いからだ。


 全身どこもかしこも、バカバカしいほど痛い。

 できるなら呼吸や心臓の鼓動も停めてしまいたいほど。

 血肉の半分が吹き飛んでも平然と無視して動ける破壊神が、自失するほどだ。


 やっと気を取り直し、いったいどこがどう壊れてこうも痛むのか、と観察し──

 さらに驚いた。

 骨が、砕けている。


 万物を断つ刃を生み出す、破壊神の骨。

 この世のなにものよりも硬く、しなやか。必要に応じて変形したり、過熱してとろけることはあっても、かすり傷ひとつついたことはない。それが、粉々に砕けてしまっている。


 なにがどうしてこうなった──? という驚愕に打たれてしばし。

「…………」

 そういえば、ひび割れの音を聞いたっけな、とようやく、思い出す。


 悲しみ。


 不安。


 恐怖。


 慈しみ。


 異質な感情を体験するたびひび割れの音が響いていたが、たいして気にしていなかった。

 矛盾や葛藤を乗りこえて変化、成長するぐらい、人間だってやっていることだ。


 破壊神の器は、いかなる意味でも「硬い」。

 それでも、成長ぐらいできるはずだと考えた。

 未知の感じ方や思考のひとつやふたつ、許容すらできない器なら砕けてしまえ、とも考えた。


 結果、ついに存在が割れ、殺戮と破壊への渇望が、他者のように顕在化した。

 主たる自我から、器の支配権を奪おうとさえした。


 だが同時に、破壊神の心はずっと自由になった。

 あのヘタレのメイに、気を合わせてやることさえできるようになった。

 そして今は──


「!」

 あまりに度を超した痛みに一瞬、気がくじけ、これなら滅びた方が楽だったな、という夜叉神にはありえない思考が脳裏をよぎり──破壊神は、度肝を抜かれた。

 あぜんとし、激怒し、次いで爆笑しそうになった。


 ほんとうに爆笑したら身体がもたないので自制したが、内心、にやりとする。

 悪くない。

 今ならほとんどどんな思考、どんな感情でも持つことができそうだ。

 とはいえ、痛くてかなわない。

 さて、どうするか。

「…………」


 存在が砕けたのに滅びなかったことに、文句は言えない。

 やたらと痛むのも実は、骨格がみずからを修復しようとしているからだ、と観察する。


 もとどおりに、ではない。


 どのカケラもひび割れの過程で変形してしまい、もとの配置におさめることなど不可能。

 それゆえ骨は新しい形でつながろうと全力を尽くしており、その「まとまろう」とする力のすさまじい圧力で、うまくはまらないカケラは、かえってさらに砕かれる。


 骨格が文字通り、粉々にすりつぶされて、再構成中なのだった。


 かたちをたもっているだけで奇跡。

 強度はほぼゼロにひとしい。

 しかも全エネルギーが骨格の再構築に集中している今、血肉の余力もほぼゼロだ。


 今ならそのへんの小妖怪でも、たやすく破壊神の首を落とせるだろう。

 それどころか、隠形(おんぎよう)している破壊神の存在に気づきもしない、ごく普通の生き物に偶然のみこまれただけでも、あっさり塵になれそうだ。


 すべてのエネルギーは内に向かっているから、命が尽きた瞬間、そのまま霊玉(ウパーラ)に吸収され結晶化するだろう。破壊神をのみこんだ生き物は、なにも知らないまま破壊神の霊玉(ウパーラ)を得て、新たな妖異と化すことになる。

「…………」


 闘う力などない、と破壊神は判断する。

 生きのびるだけでも至難の業。

 しかもまわりに、生き物の気配が戻ってきている。


 眠りこんでからどれぐらいの時間がたったかは、定かではない。

 幸い、数キロ四方に妖怪はまだ、一匹もいない。

 だがあまり考えないものたち、虫や小鳥、小動物は戻り、あたりをうろつきはじめていた。


 今の破壊神にとっては、晩秋のクモ一匹でも立派な捕食者。

 危機的状況だ。

 可能なかぎりすばやく、もう少しマシな隠れ場所に退避しなくてはならない。

 だがどこに? と思ったその時、

「……!」


 どこからともなく、メイのぼうだいな祈念がどっと流れこんできて、一瞬、目の前が明るくなり、痛みもやわらいだ。

 質、量ともに、驚くほどのエネルギーだった。


 たぶんメイの「朝のお供え」だろうが、見ちがえるほどパワーを増している。

 花のような芳香が意識を満たし、骨格の修復が加速するのを感じた。

 なるほど、と思う。

 砕けたにもかかわらず生きのびたのは、メイからの祈念のおかげらしい。

 千年も眠ることなく、目覚めることができたのも、だ。

「…………」


 そこでやっと気づく。

 メイの祈念が届いているということは、メイは、霊狐の誘いに乗らなかったのだ。


 なぜだ?


 霊狐の申し出は人間にとって、疑問の余地なく魅力的だったはずだ。

 短い命が縮む心配をすることなく、願いがかなうのだ。

 断る理由などないはずなのに──


 わけがわからない。

 つくづくおかしなやつだ、と思うと同時に──


「……?」

 破壊神の魂を、未知の感情が震わせた。


 深く、広く、強い。

 破壊神の存在を揺るがすパワーがある。


 だがやわらかく、透明で、明るい。

 不思議と心が安らぐ。

 メイがよく、似た波動を放っているのを思い出し、その感情の「名」をつきとめた。


 感謝。


 ふうん、これが「感謝」というやつか──と、破壊神は初めての感情を興味深く観察する。

 だがその間にも、わきあがる感謝の念は輝きを失わなかった。


 自分が生きのびるにはメイが必要だ。

 メイにとってはそうではない。

 にもかかわらず、メイはいつも変わらず、無私の好意を向けてくれる。


 なんと幸運なことだろう。

 もてあますほどの「感謝」に続いて、メイに対する「愛しさ」とでも呼ぶしかないような異質な感慨が甘やかに胸の内に広がり、破壊神は心底、驚いた。

 再構成中の「やわらかい」身体の、異質な感情への許容度の高さに、感動すらおぼえる。


 思った。


 メイの家に戻ろう。


 帰りたい。


 だがその前に念のため、意識を広げ、メイの霊力の安定を確認する。

「…………」

 ほっとした。


 なにがあったかはわからないが、驚くほど安定している。

 これなら、自分が近くに戻っても、暴走させてしまう心配はまずない。


 自分の殺戮本能も、少なくとも今はなりをひそめている。

 骨が砕けている現状では刃を出すことさえできないし、万一、殺戮本能が器を乗っ取ってメイに襲いかかったとしても……と考えて、破壊神はふたたび爆笑しそうになる。


 今の自分なら、メイの護身にはじかれただけで塵になれる。

 小鬼より無害だ。

 帰っても問題ない。

「…………」


 もちろん、運を天にまかせてこの場で意識を切ってしまう方が楽だ。

 だが、メイの家まで戻ることができれば、ここよりはずっと安全なのはまちがいない。

 なにしろ、あの場で自分を襲いそうなのは小鬼だけ──

 と考えて、破壊神はうっすら笑った。

 霊玉(ウパーラ)をやるなら、そのへんの知らない生き物より、あのちび鬼がいいな。


「…………」

 移動先は決まった。

 次は、現状でどれぐらい動けるか知る必要がある。

 破壊神は持ち前の底なしの意志力を発揮、死力を尽くして立ちあがろうとする。


 腕を少し動かすだけで、たっぷり数秒かかった。上体を起こすことはできなかったので、横に転がって身を起こしたが、これには二十秒以上かかった。

 立ちあがるのにさらに十数秒。


 余力ゼロの血肉はたったこれだけの動きで疲れ果て、たっぷり数秒、動けなくなった。

 気を取り直して足を持ちあげ、一歩、進もうとする。

 ()()()()()()()()()


 うそだろう、と驚く間もなく、小さな破壊神はなすすべもなく転んだ。

 あるかなしかの微少の「重さ」ゆえに、落ち葉の上に倒れた時、ぱさ、とかすかな音が立つ。


 その、ほんの数センチの落下が砕けた全身に響き、息が詰まった。

 落ち葉の無害なでこぼこが鈍器のように骨身にこたえ、痛すぎて悪態もつけない。


「…………」

 真冬の虫でももう少しまともに動けるな、と、破壊神はひとごとのように冷静に考える。

 つまり、この身体を「動かして」移動するのはほぼ不可能だ。

 では飛ぼう──と力を出しかけたとたん、

「!」

 砕けた骨格全体が爆発的に痛んで、意識がくらんだ。

 うつ伏せに転がったまま、今度はしばらく、まったく動けなくなる。


「…………」

 破壊神は生まれて初めて、自分の力が骨から出ていたことを知った。

 しかしその骨は粉々に砕け、再構成中だ。かろうじてかたちはたもっているが、中味は沸騰しているようなもの。無理に力を引き出したりすれば、その場で爆散しかねない。

 どうしたものか。


「…………」

 破壊神は、まず身体と交渉をこころみた。

 おまえが今、とてつもなくもろくなっていて、最大の配慮を必要としているのはわかった。

 気をつけてやるからもう、やたらと痛みの信号をよこさなくてもいいぞ。

 むやみに痛まなければ、空を飛ばずとも移動できる。問題ないだろう?


「…………」

 しかし身体は、耳を傾ける気はないようだった。

 砕け散る心配をしていた時「砕けていいが、散るな」と命じた時には反応があった。

 だが今は、拒絶と不信しか伝わってこない。

 身体は、器の乗り手である破壊神を、まったく信用していないのだった。


 無理もない。

 破壊神は身体の要求や警告に、耳を貸したことがない。

 もうダメだ、と身体が訴えても気にしたことさえないし、限界だと警告されても右から左に聞き流し、やりたいようにしてきた。

 結果がこれだ。身体はついに砕けてしまった。


「…………」

 破壊神はしぶしぶ認める。

 今度ばかりは身体の要求に従うしかなさそうだ。


 動くな。

 力を使うな。

 すみやかに安全な場所に移動せよ。

 無理難題にもほどがあるが、やむをえない。


 今度は骨が耐えられるぎりぎり、極小の力で身体を浮きあがらせてみよう、とした時、

「……!」

 木の根の向こうに、小柄な野ネズミがあらわれた。


 鼻先を枯れ葉の下につっこんでは、見つけたものを小さな両手で持ち、無心にかじる。

 拾ったものがどんぐりだろうが木の根のはしきれだろうが、気にしない。

 かじってみておいしくなければ手放し、そのへんに落として忘れる。

 適当に数歩走って、また次のエサを探す。

 今の破壊神にとっては立派な天敵だ。


 野ネズミは、隠形(おんぎよう)している小さな破壊神には気づいていなかった。

 だが行動パターンからして百数える間に、きわめて近くに到達しそうだ。


 万一、ネズミの鼻先で浮上に失敗、落下して音など立てようものなら万事休す。

 ゆっくりでも確実に、高さを確保しなくてはならない。


 破壊神は瞬時に、必要最小限、これ以上小さい力はイメージできない、というほど小さな浮力をはじきだし、発動した。

 砕けた骨格はそれでも焼けるように痛んだが、意識がくらむほどではない。

 うつ伏せ姿勢のままゆっくりと、風のない日の雲ほどの微速で、浮きあがっていく。


 野ネズミは気づかず、高速で口もとを動かして食べ、ささっと数歩走り、鼻先を枯れ葉の下へつっこむ──という動きをくりかえしている。

 右に走り、左に走る。

 いいものを見つければ食べる。

 ゴミなら捨てる。


 見つけたものが、ふたつ続けてゴミだった。

 鼻をひくつかせて風のにおいをかぐ。


 来た。


 浮かぶ小さな破壊神の、真下の枯れ葉に鼻をつっこむ。

 どんぐりを見つけて、ぴょこんと起き直る。

 小さな破壊神はぎりぎり、野ネズミの耳の毛に触れない高さまで浮きあがっていた。


 そのまま浮上を続ける。

 ネズミはその気になれば、人の腰の高さぐらいまでは軽々と跳ねあがる。

 跳びつかれてはかなわない。

 その時、背後から、すべるように空中を滑空してくるものを感じた。


 ()()()()


 しかも数枚。

 どれも不規則な軌跡を描いているが、少なくとも一枚はぶつかりそうだ。

「!」

 必死で、しかし力の出力はあげないよう細心の注意を払いながら、姿勢を変えた。


 現状で落ち葉にまともにぶつかられたら、おそらく骨格への衝撃で意識が飛ぶ。

 そうすれば落ちる。落下すれば──まだ、椅子の座面ていどの高さに浮いているにすぎないが──たぶん地面との「激突」が、命取りになるだろう。

「……!」


 風に舞う落ち葉をかわしきれず、背をかすめた。

 目がくらむほどの痛みが走り──

 かすかに、葉ずれに似た音が響いた。

 一瞬、隠形(おんぎよう)が破れる。


 野ネズミがハッと耳を立てた。

 伸びあがり、頭上を見る。

 そのつぶらな黒い目に、舞い落ちてくる落ち葉に混じって、じりじりと遠ざかっていく小さな神の姿が一瞬、映った。

 すぐに消えた。


 野ネズミはそれがなんなのかわからなかった。すぐ忘れて、エサ探しに戻る。


 小さな破壊神は気配を殺したまま、晩秋の林の梢へと、静かにあがっていった。


        ◆


「神納さん、神納さん……!」

 うしろの席のクラスメイトにつつかれて、メイはやっと目を覚ました。


 この三日、お供えづくりで夜、ほとんど寝ていない。

 折り紙の花が生きた花になる奇跡を、教室で実演するわけにはいかない。それでお供えづくりは夜を徹してがんばり、代わりに学校で寝ることにしていたのだが──


 完全に熟睡していたのでとっさにどこにいるのかわからず、メイは半分ずり落ちた眼鏡もそのまま、ぽかんとあたりを見まわした。

「よく寝てましたね」

 英語の先生が、なんともいえない笑顔でコメントし、教室にくすくす笑いがわく。


 メイはあわてて眼鏡を直し、蚊の鳴くような声でつぶやいた。

「す、すみません……」

「百六十二ページから読んで、訳してください」

 淡々と言われ、メイは跳びあがるように立ち、教科書の言われたページを開く。


 困った。

 最近、予習も復習もぜんぜんしていないので、わからない単語が多すぎる。


「あう……ええと…………わ、わかりません」

「ちゃんと予習しましょう。一年だからって気を抜いてると、受験の時に困りますよ」

「……はい」

 先生は出席番号順に次の人を指名し、メイはうちしおれて腰をおろした。


 まだ眠かったが、今のでさすがに目が覚めた。

 授業の残り時間ぐらい、がんばって勉強に集中しようと気を取り直した時──

「……!」


 破壊神の波長を感じた。

 どこか遠くにいる。

 たぶん山の中。

 目を覚ましたのだ──!


 だが、それだけならたぶん、気づけなかった。

 なにがあったかはわからないが、ほんの一瞬、隠形(おんぎよう)が破れたようだ。

 気配はすぐまた消えた。


 メイは心配でたまらず、開いた教科書を前に、ぎゅっと両手を握りしめる。

 とはいえ教室を飛びだして帰っても、破壊神が家にいるわけではない。

 なら、できることはひとつ。

「…………」


 メイは姿勢をただし、ひそかに深呼吸した。

 目を閉じ、無言のまま、静かに祈念を捧げ始める。

 先生は授業を続けながら、いぶかしげにメイを見たが、注意はしなかった。

 やがて──


 教室の窓際で枯れかけていた鉢植えが、ゆっくりとよみがえりはじめた。新芽を伸ばし、みずみずしく息を吹き返し、授業が終わるころには新しいつぼみまでつけていたが──


 メイをふくめて誰も、この小さな奇跡に気づかなかった。


        ◆


 半日がすぎた。

 太陽はいつのまにか、西に傾いている。

 小さな破壊神は隠形(おんぎよう)したまま、ゆっくりと街の空を移動中だった。


 ゆらゆらとたよりない、小さな羽虫のような飛び方しかできないので時間がかかる。

 ちょっとした風にも流されるし、向かい風なら進めなくなる。

 そのうえ、それほど小さな出力でも、力を出すと砕けた骨格が──なにもしなくても痛いのに、さらに──焼けるように痛む。


 当初、休まず進んでいて意識が飛んで墜落しかけたので、そこからは休憩しながら進むようにした。なにしろ今の破壊神は、鳥の卵よりもろい。

 うっかり落ちることもできない。


 そのうえ「天敵」には事欠かない。

 野ネズミの鼻先でかろうじて浮上をなしとげたあとも、木々の梢を行けばリスに出くわし、鳥もうろついている。すでにあるじがいなくなった、壊れかけのクモの巣でさえ脅威だ。


 カラスとトンビが群れている河原を横切るのは、ほとんど不可能に思えた。

 やっと市街地に入ったところで、好奇心旺盛な子スズメに存在を察知され、しつこく追い回された時は死ぬかと思った。

 その街がまた、行けども行けども、はてしない。


 地上はこんなに広かっただろうか。

 メイの家は今や、無限の彼方にあるように感じられた。

 月より遠い。

 だが、進むしかない。


 用心深く、周囲の生き物の動きを常に把握し、ゆらゆらとしか飛べない身の安全を確保する。

 風、飛来物、人間の道具や建物から出る、排気の流れにも気を抜けない。

 意識が飛ぶ前に、降りて休む。


 すわったら立ちあがれなくなりそうなので、立ったまま休む。

 なにものの注意も惹かないよう、音は立てない。

 そしてまた進む。

 無限にも思われるくり返しの果てに──


「…………」


 小さな破壊神は、ついにたどりついたメイの部屋の窓を、当惑してながめていた。

 すっかり忘れていた。

 自分はメイの母親に、出て行けと言われてこの家を出たのだった。


 窓は開いている。

 しかし無事に中に入れる気がしなかった。

 屋根に降り立つことができるかどうかさえ、怪しい。


 ごく普通の人間の言霊(ことだま)とはいえ、言われて従ってしまった以上は、破れない。

 ふだんでも、はじかれるだろう。

 まして今は羽虫同然の身。

 言霊(ことだま)にはじかれたりしたら、塵になってしまう。


「…………」

 だがもう、余裕がなかった。

 二階の窓の外に浮いているだけでせいいっぱい。

 今から、たとえば一階の玄関前に、墜落せずに降り立つ自信はなかった。


 浮いている位置がすでにゆっくり、さがりはじめている。

 限界だ。意識が飛びかけている。このまま落ちれば確実に死ぬ。

 ならば──

 どうとでもなれ、という思い切りの良さで、小さな破壊神は開けっぱなしの窓につっこんだ。

「……!」


 はじかれなかった。

 なにごともなく窓の敷居を越え、見慣れた室内に入って、魂の底からほっとする。

 どういうわけかメイの母は、破壊神への命令を取り消したらしい。


「…………」


 室内には、メイのつくるお供えの芳香が、たちこめていた。

 おかげでふらふらとだがふたたび高度をあげ、本棚の定位置に戻ることに成功する。

 降り立った。


 浮遊するための力を完全に鎮めたとたん、やかましく鳴り続ける警報のように意識を圧迫していた、焼けるような痛みが消える。

 代わりに、砕けた骨格そのものの痛みが、轟くばかりの存在感で戻ってきた。

 目的地にたどりついて気がゆるんだせいか、ことさら耐えがたい。

「…………」


 小さな破壊神は初めて、本棚の天板を、硬すぎる、と感じた。

 硬すぎて、立っている足指やかかとの骨に響く。

 もろい枯れ葉でさえ、ぶつかれば凶器のように感じた。こんな硬い板の上に寝たくない。

 せめてもう少し、やわらかい──


「あの寝心地のいい猫はどこだ」

 思わずもれたつぶやきに、背後から声が答えた。

「お呼びですか」


        ◆


「!」

 ふり返る前に、破壊神は窓のすぐ外に大型の妖怪の気配をとらえた。

 こちら同様、声を発する寸前まで隠形(おんぎよう)していたようだ。


 かたちは四足の獣。

 強い。

 いつかメイが鎮めた、イノシシ神ぐらいの力はありそうだ──。

 一瞬、小さな破壊神は本気で死を覚悟した。

 今、このレベルの妖怪に襲われたら、さすがに生き残れる気がしない。


 だが、砕けた骨格が許すぎりぎりのすばやさでふり返り、窓をふさぐほど大きい猫神の頭と、その金の瞳を見たとたん、気づいた。

 大きすぎるし、強すぎるが、こいつは──

「おまえ……まさか……」


 三毛の毛並みの猫神は、敵意がないことを示す猫の流儀で、ゆっくりとまばたきする。

「はい。スサノオ様ご存知の、つまらない化け猫でございます」


「なにを賭けた」

「力と記憶、世界に刻まれた命の痕跡……存在のすべてを」

「ふうん」

 小さな破壊神は、素直に感嘆してうなった。


「やるじゃないか、ミコ」

「!」

 ずっと聞きたかった言葉、呼ばれたかった名を呼ばれた猫神は、ゴロゴロと窓枠が震えるほどの音量で盛大にのどを鳴らしながら、うやうやしく頭をたれる。

「もったいないお言葉、光栄でございます」


 破壊神は銀の目を細め、うすく笑った。

 鷹揚(おうよう)に言う。

「俺を喰ってもいいんだぞ」


 本気だった。

 ちび鬼に喰われてやるつもりだったが、この化け猫は自分を見つけたのだから、喰う権利がある、ぐらいに考えている。


 しかし猫神は、言下に答えた。

「そんなことはいたしません」

「そうか」

 ならまあいいか、と思うと同時に気力が尽き、小さな破壊神は崩れるようにすわる。

 瞬間。

 猫神は相手に合わせて子猫サイズに戻り、するりと風のように寄りそい支えた。


「!」

 小さな破壊神は、猫神の火伏せの力で耐えがたい痛みがやわらぐのを感じ、瞠目(どうもく)した。

 あまりにもひどかったぶん、ほとんど消えたとさえ感じた。

 とたんに極限の疲労に圧倒され、感謝のため息とともにたちまち眠りこむ。

 その無言の「感謝」に感激し、子猫姿の猫神ののどがふたたび、ゴロゴロと鳴り響いた。


 猫神は、小さい破壊神の、現状のもろさを正しく把握。壊れ物をあつかうように丁寧に、やさしく自分の身体に乗せた。長い尾でかばって丸くなる。

 そこへ、玄関の引き戸が開く、がらっ、という音がした。


 荷物を投げ出す音に続き、メイの軽い足音が、ぱたぱたと二階へ駆けあがってくる。

「スサノオ!」

 ドアを開けるなり、本棚の上の定位置で、小さい破壊神が猫神に守られて眠っているのを目にして、メイは安堵のあまり涙ぐむ。


「良かった! ミコさん……美夜古さん! ほんとうに、ほんとうにありがとうございます」

 子猫姿の猫神は、ゆったりとのどを鳴らし続けながら、金の目を細める。

 あんたにお礼を言われるようなことはなんにもしてないよ、これはあたしがしたいだけなの、と言いたげな顔だ。その表情をきちんと理解し、メイはほほ笑んだ。


「そうですよね! そのとおりです。でも……でも、それでもわたし、ありがたくて、うれしくてたまらないんです……! 猫神さま、ありがとう。心から御礼申しあげます」

 猫神に向かって手を合わせ、心をこめて拝礼する。

「!」


 猫神は、メイの「正式な拝礼」を初めて受け取り、金の目をみはった。

 ただ一礼しただけで──奇跡の花、二十個ぶんはありそうな霊力が一気になだれこんで全身に力が満ちあふれ、一瞬、三毛の毛皮が黄金に光り輝く。


 これほどの力を、破壊神はずっと受け取っていたのかと、その底なしの器に、猫神はあらためて畏怖をおぼえた。メイが顔をあげるのを待って、口を開く。

「メイ」

「はい」


「あんたの拝礼はあたしには身にあまる。一度でじゅうぶん。あとはスサノオ様のためにとっておおき」

「あ、はい。お供えの花はさしあげてもいいですか?」

「もちろん」

 子猫姿の猫神ののどがゴロゴロ鳴る音が、うれしさにますます大きくなる──。



 その晩メイは、眠る小さな破壊神と、幸せそうな猫神、両方にお供えをした。

 破壊神のぶんのお供えは、いつものようにメイが燃やした。


 一階の居間で寝落ちしていた小鬼は、帰宅した母が見つけ、二階に運んできた。

「キバさん、どこか具合でも悪いんでしょうか」

 心配するメイと母に、子猫姿の猫神は笑った。


「それはただの食べすぎだね。早く大きくなりたい一心で、メイにもらったお供えの花を、無理して一気に飲みこんだんだろうよ。明日には目を覚ますさ」

 メイは小鬼を専用スペースに寝かせ、窓にありあわせのビニールを張った。


 もう開け放しておく必要はない。

 メイの神さまは、帰ってきた。


 そっと窓を閉めた。




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