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化け猫の本懐②

「ミーちゃーん。ミーちゃん、どこですかー」

 メイは家の近くの植えこみ、近所のガレージやゴミ集積所のまわりものぞいていく。


 小鬼は、小びんに入れたドライフードをふり、子猫の好きな音をさせながら、

「おやつをやるぞ! ほれほれ、この音が耳に入らんか」

 影伝いに、子猫が入りこみそうなすき間を、片っ端からジャンプしていく。


 塀と塀の間のせまいすき間。

 近所の庭木の上。

 側溝の中。

 雨どい。


 もちろんメイの家のごくごく狭い庭も、隣家の、戸締まりの甘い物置の中も調べた。

 いない。

「ええい、世話の焼けるやんちゃ娘め! ちびのくせにどこまで行きおった」

「大通りまで行っちゃうと車多いから心配……」


「このあたりもそろそろ帰宅の車が増える刻限じゃ。うろちょろしておると()かれてしまう」

「ミーちゃーん」

「うおーい、ちびすけー」

「……キバさん、もしかして猫寄せの術とかありませんか」

「ない! そなたこそ、霊視かなにかで居場所を特定できんのか」


「すいません、千里眼とか透視の講習は受けてなくて……ミーちゃーん」

「うぬぬ、目撃情報をつのろうにも、このあたりは小妖怪もいないしのう」

「え、いないんですか」

「零課のそなたに加え、暗黒神(マハーカーラ)まで居着いとる街に、小物が住めるわけがなかろう!」


「あ、カラス! キバさん、カラスと言葉、通じませんか? なにか見てるかも」

「冗談はよさんか! あやつらはワシのような小物をついばむ天敵じゃ! 喰われとうないから近づいたことはないぞッ」

「カ……カラスって妖怪でも、食べちゃうんですね……」


「鳥も獣も、自分より弱くて小さいものは、なんでも気にせず喰うぞ」

「そういえば子猫も、カラスにつつかれちゃうことがあるって……」

「!」


「ミーちゃーん。ミーちゃん……お願い、出てきて……」

「ええいッ、どこじゃちび猫! かくれんぼはもう終わりじゃ! とっとと出てこんかい! でないともう、遊んでやらんぞーッ」

「あ、あんまり大声は出さない方がいいらしいです。ごはんの時に呼ぶ感じで……」

「そうか。言われてみればそうじゃのう。おーい、おやつがあるぞーい」


 ゴミバケツに植木鉢、回収待ちの粗大ゴミ。

 容器のふたが開いていれば中を確認し、なにかが積みあがっていれば、その陰も確認した。


 小鬼はその間に、あたりの庭木の上をくまなく調べ、万一にもよその家にもぐりこんでいないか、影づたいに家の中まで確認してまわる。


 自宅からはじめて少しずつ捜索範囲を広げ、すでに家から五十メートル以上離れていた。

 日はとっくに沈み、夕闇迫る空に浮かぶ雲も、オレンジから灰色に変わりかけている。

「暗くなってきちゃった……! 懐中電灯持ってくれば良かったかも」


「ワシは夜目が利く。探すのはワシにまかせて、そなたはとにかく呼んでやれ」

「はい! ミーちゃーん、ミーちゃん、どこですかー」

 メイは、うす暗い駐車場に停まっている車の下の暗闇を、順番にのぞいていく。


 その時。


 どこかで「み」という小さい声がした。


「! キバさん、今の……」

「ちびすけの声じゃ!」

「ミーちゃん、むかえに来ましたよー」


 また「み」という小さい声。


 小鬼はとぷんと影にもぐり、次の瞬間、駐車場の向こうから大きな声で呼んだ。

「こっちじゃ! こちらの木の上におる!」

 メイは駆け寄り、暗くて真っ黒なかたまりにしか見えない木の茂みを見あげる。

「そんな……高いところに……」


「あがったは良いが降りられなくなったのじゃな。よしよし、そうおびえるでない、今おろしてやるゆえ……おろしてやると言うておるじゃろ、さように枝にかじりついておってはおろしてやることもでき……いてッ、あててて、ワシにツメを立てるなッ」


 はらはらして見守っているうちに、真っ暗な茂みが揺れ、小鬼の姿があらわれた。

 自分の何倍もある子猫にかじりつかれた状態で、ふわふわとゆっくり空中を降りてくる。

「ミーちゃん……!」


 メイはキャリーを地面に置き、ふたを開けた。

 小鬼は子猫を背負ったままキャリーに入り、メイはすかさずふたを閉める。

 小鬼は腹の毛の影からおやつ入り小びんを出し、ふった。

 大好物の音に、子猫は小鬼にしがみついたまま、ぱっと顔を輝かせる。


「やんちゃをしてさぞ腹が減ったろう。おやつをやろうぞ」

 小鬼が小びんを開け、ドライフード数粒をキャリーの床に落とすと、子猫はたちどころに小鬼を放し、フードに跳びついた。

 あっという間にたいらげて、ぺろりぺろりと舌なめずり。もっと! と言いたげにみーみー、元気よく鳴き出す。メイは安堵のあまり涙ぐみ、


「ミーちゃん……良かった! キバさん、ありがとう! ほんとにありがとう! キバさんいなかったら……わたしだけじゃミーちゃん、見つけられなかったです!」

「それより早う母者に連絡して、安心させてやらんか」

「はい!」


 呼び出し音ひとつで母は出た。せきこむようにきく。

『ミーちゃん見つかった?』

「うん! 今見つけて、キバさんがつかまえてくれました! もうキャリーに入ってる!」

『よ……良かったー』


「すぐ連れて帰るね。うちから百メートルも離れてなかったから、ほんとにすぐだよ」

『こんな暗い中で子猫つかまえるなんて、さすが妖怪さん! キバちゃんによくお礼言っといてね! 冷やしまんじゅう、用意しとくから』

「はーい」


 通話を切って、メイはにっこり、小鬼に言った。

「だそうです」

「ともあれ、一件落着じゃな!」

 小鬼はキャリーの取っ手の影からすぽん、と外に出て来た。

 我が物顔でメイの頭に乗ってくつろぐ。


 キャリーの中で一匹になった子猫は不満そうに鳴き始めたが、メイがキャリーを持ちあげ、

「良かったね、ミーちゃん」

 顔を見せて言うと鳴きやみ、小首をかしげた。


「おうち帰ったらすぐ、ごはんですよー」

 子猫は「ごはん」を聞き分けたらしく、うれしそうにみー、と鳴く。

 メイは、子猫の入った小さなキャリーを胸に抱きかかえて歩きだし、すると子猫はその動きが気に入ったらしい。キャリーの中でゴロゴロのどを鳴らし始めた。


「さっきまで木の上で震えておったくせにもうご機嫌とは、大物じゃのう」

「キバさんに助けてもらって、安心したんですよきっと」

「しかし楽しみじゃ、冷やしまんじゅうとは、いかなる菓子であろうか」

 頭の上で、うっとりと言う小鬼に、メイはほほ笑んだ。


「おばあちゃんの地元の冷やしまんじゅうは、外側が透明で、中は粒あんなんです」

「と、透明なまんじゅうとな!」

(くず)もちの仲間らしいですよ。もののけさんのお店にはないんですか?」

「ワシの知っとる店にはなかったのう」


 話しながら歩いているところに、まぶしいヘッドライトが近づいて来た。

 宅配便のトラックだ。

 住宅街で道幅が狭いので、メイはキャリーを抱いたまま、電柱の陰に寄って通過を待つ。


 トラックは法定速度以下の安全運転で、ゆっくり前を通り過ぎた。

 行ってしまうのを見届けて、なにげなく道に戻った、瞬間──


「えっ……?」


 なにかが変わった。

 夕闇の迫る濃い青の空は同じだし、ご近所の、見慣れた家並みもそのまま。

 街灯だってちゃんとついている。ただ──


 音が、消えていた。


 ずっとどこかで聞こえていて、気にもしていなかった街のざわめき。

 遠くの大通りを行き交う車の音、家々からもれるテレビの音、どこかで犬が吠えたり、誰かが誰かを呼んだり、洗濯機やチャイムが鳴ったり、ドアが閉まったりする音。

 人々の生活の音が、なにひとつ聞こえない。


 カラスの気配さえ失せていた。

 風もなく、木々も葉ずれの音ひとつ立てず、置物のように静まりかえっている。

「キバさん……! こ……これって……」

「い……異界じゃ」

 と答える小鬼の声が、畏怖のあまりわなないた。


「信じられんッ! こっ……このようなけたはずれの異界を創れるものがどこに……なんたる広がり……果てが見えん! 生き物こそおらぬが……あたかももとの世界と同じに見え……」

「見えるだけやないで。同じやねん」

「!」

 聞き覚えのある声に、メイは子猫のキャリーを抱いたまま、身体ごとふり向く。


 黄昏(たそがれ)の道に、メイの撮影をサポートしてくれたヘアメイクの青年が、たたずんでいた。

 スタジオで会った時と同じく……いやもっと親しげに、にこにこしている。


「これ、〈はざまの世界〉ゆうてな、大地も空もぜぇーんぶ、星の果てまで! ほんまの世界と同じかたちしとんねん! 生き物おらんし、日は昇りも沈みもせえへんし、太陽も熱くあらへんけど、ものの重さはちゃあんとあんねんで。見かけより簡単に創れるんや。おもろいやろ」

「なっ……なにやつじゃッ!」


 面識のない小鬼が、たわしのように毛を逆立てて誰何(すいか)する。

 メイはあわてて答えた。


「あ、この方はわたしがモデルさんの代役することになった時、ヘアメイクを担当してくださった方です。確か穂村さん、って……」

「名前、覚えててくれはったんや。わあ、めっちゃうれしいわー」

 白い頬を染め、本気でうれしそうに照れまくる美青年に、小鬼は吠えた。


「ええい、ぬけぬけと白々しいッ! おいわたあめ、さっさと気づけッ! これほどの規模の異界の中にいきなりあらわれたこやつが、ただの人間のわけなかろうが!」

「えっ……でもほんとに……」

「ええい、このポンコツめが! こやつこそ、この異界を創った《《もの》》にちがいないッ……そのへんのヌシなぞ束になってもかなわぬ、神クラスの大もののけじゃぞッ!」


「いややなあ、もう。そないに持ちあげられると、こそばゆいやん」

 どう見ても人間、それもごく普通の現代人にしか見えない青年が、その時初めて、人らしからぬ動きをした。


 動きとしてはただ片手を胸に当て、軽く一礼しただけ。しかし、その動きの非現実的なまでのなめらかさ、時空に線を刻みそうな優雅さに、メイはあっと息をのむ。


 青年は、名乗った。

「わいは正一位(しよういちい)稲荷大明神が神使にして、命婦専女神(みようぶとうめのかみ)……と、人の呼びならわす狐やねん」

「み……命婦専女神(みようぶとうめのかみ)……じゃと?」

 あんぐりと口を開ける小鬼に、メイは小声できく。


「キバさん、ご存知なんですか」

「そなたこそ零課のくせになんで知らんのじゃッ! 命婦専女神(みようぶとうめのかみ)、すなわち稲荷神に仕えし九尾の霊狐! 晴天に雨を呼び、負け戦を勝ちに変え、望んでかなわぬもののない最強の……」

「いたずらものにおざります。あ、女神(めのかみ)呼ばれとりまっさかい、わい、オスやねんで」


 おどけた様子であとをひきとり、青年は威儀を正した。

「わいの名はほむら。当代クシナダ姫、神納五月はんに謹んでご挨拶申しあげる」

 言ったとたん、まばゆい純白の光がその長身を包み、

「!」

 光はたちどころに真っ白な狩衣(かりぎぬ)と化し、そでやすそが微光をはらんでやわらかくはためく。


 黄昏(たそがれ)の世界でそこだけ晴天のように明るい、霊狐の神々しさにメイはすくんだ。

「今宵はクシナダはんにお願いがあって、これなる〈はざまの世界〉にお招きしましてん」

 黄金に輝く瞳でつむぐ、にこやかな言葉にも世界が揺らぎ、魂が揺らぐ。


 あやうく意識をさらわれかけ、メイは必死に踏みとどまった。

 小鬼の言うとおりだ。

 これはふだん見かけるヌシ様たちとは、根本的に次元がちがう。

 むしろ夜叉神に近い。

 子猫のキャリーを抱きしめたまま、メイは死にものぐるいで言葉をしぼり出した。


「あのっ……あの、ご……ご丁寧なご挨拶をいただき恐縮です。で、でもその、わたし……クシナダ姫とかじゃありません……! 人ちがいをしていらっしゃると、思……」

「ああ、人の世の神語りは忘れてもろてかめへんで。要は、千年にひとりの霊力の主、神の(にえ)たる人の子を、クシナダ、言いますねん」


「か……神の(にえ)……?」

「あんさんは神を養う力をお持ちや、ゆうことです。甘い、甘ぁーい気をお持ちのお姫はん」

 人型のままなのに、巨獣が舌なめずりするような気配に圧倒され、メイは凍りつく。

 かろうじて、震える声でききかえした。


「そ……それで……わたしにお願い、とおっしゃるのは……」

「我があるじ様のことです」

 人型の霊狐はうやうやしく頭を垂れた。


「我があるじ様、いと古き女神、荼枳尼(だきに)天様は長年、飢えに苦しまれ、もう何百年もお声ひとつ発しておられません。あるじ様と契約する人間が、のうなってしもうたからです」

 霊狐の声音ににじむ悲しみと、主人を想う真心の深さに、メイは息をのむ。


「あるじ様はおやさしい」

 霊狐の声が震えた。

「契約結んだ人間の、寿命を縮めることをよしとされまへん。せやさかい、生きとるかぎりは望みをかなえ、その代わり、その人間が天寿をまっとうしたら、心臓だけ召しはるんや」

「…………」


「神納五月はん、どうか我があるじ様とご契約いただきとう、伏してお願い奉る。ご損はさせまへん! わいの腕によりをかけて、あんさんの願い、望みはること、どないにむちゃな夢物語でもなんでも、あまりあるほどかなえてさしあげまっさかい、なにとぞ……」

 どこまでも純粋な愛と献身の気のまぶしさに、メイは目がくらむ心地がし──


 申し訳なさのあまり、胸が痛んだ。


「……ごめんなさい」


 霊狐がびっくりして金の瞳をあげる。

「なっ……なんでやねん! あんさんに損はさせへんし寿命も縮めへん、ゆうてるのに……」

「わたしの命はもう、スサノオのものなんです。ですから他の方にはさしあげられません」

「あ、そのことやったら心配せんでええで」

「え?」


「安心しぃ、暗黒神(マハーカーラ)とはもう話ついとんねん! あの方はな、もしあんさんがこっちとの契約を選ぶなら、あんさんを手放す、言わはったんや! 神の言あげや、二言はあれへん。あんさんもこれで、暗黒神(マハーカーラ)と戦って死ぬ、ゆう残酷な運命からめでたく解放され……」

 絶句する。


 メイの見開いた目からいきなりぽろぽろと、大粒の涙があふれはじめたからだ。

「う……うれし涙……やねんな? そら、命助かれば誰かてうれし……」

 自信なさそうにつぶやき、なだめようとするかのように手をあげる霊狐に、メイは涙をぬぐいながら首を横にふった。


「ちがうんです。これは、そういうんじゃなくて……」

「せやかて……」

「感動してるんです」

「え……」


「スサノオは最近、わたしのために、してはいけないムリをしてしまいました。今はたぶん……生きるか死ぬかの瀬戸際だと思うんです」

「……!」

「今こそ、ほんとうに今こそ、スサノオにはわたしという(にえ)が、わたしとの約束が絶対必要なんだと……痛いほど感じています。なのに……そ、それなのに……」


 どっと勢いを増す涙をぬぐいきれないまま、メイは泣きながらほほ笑んだ。


「わたしを手放したら滅びてしまうのに……本人がいちばんわかってるはずなのに、つまらない人間のわたしなんかを優先してくれる神さまを……見捨てるなんてできません」

「!」

「わたしの命はスサノオのものです。恐れ入りますが、どうかおひきとりください」

 メイは子猫のキャリーを抱いたまま、せいいっぱい丁寧に一礼した。


 霊狐は答えない。

 凍りついているのが気配でわかる。

 衣のはためきさえ停まっている。


「さよか」


 ようやくつぶやいた。

 暗い声だった。


 胸騒ぎがして、メイはそっと顔をあげる。

 霊狐はまだ人の姿のまま、白い衣にも変わりはない。だが──


「!」


 黄金だった瞳が、鮮血の真紅に染まっていた。

 ぞっと背筋に戦慄が走る。


「ほな、しゃあない。力ずくで連れてくしかないやんか」

 霊狐はむしろ退屈そうに白い人さし指をあげ、軽く、宙空をはじいた。

 瞬間。


「!!!」


 防御の「一線」が間に合ったのは奇跡。

 青白い猛火の津波を、メイはかろうじて目前で食い止めた。


 しかし凄まじい熱気で息が詰まり、肌がちりちりと痛む。

 どっと汗が噴き出した。

 霊狐の炎は消えず、祈念の「一線」を乗り越えようと天高くたちのぼり、「一線」の向こうではアスファルトが蒸発。砂利も溶鉱炉に放りこまれたように赤熱し、とろけていく。


「心配せんでええで」


 青白い炎ごしに、白く輝いて見える人型の霊狐は、あっけらかんと言った。


「ヤケドしようと手足がのうなろうと、この〈はざまの世界〉で死ぬことはあらへん。消し炭になってもよみがえらせて、宮様の御前(おんまえ)に連れてったるさかい」

「!」

「おとなしゅう、うちの宮様と契約する、言わはった方が、楽やとは思うけどなぁ」

 にんまり、紅い目で笑う。


「あ……(あつ)……ッ」

 小鬼があまりの熱気に目を回し、メイの頭から転げ落ちた。

 メイはあわてて小鬼を子猫のキャリーで受け止め、そのまま路上にへたりこむ。

 まだ足もとのアスファルトはつめたかった。

 でも空気が熱すぎて息苦しい。


 キャリーの透明なドア越しに、子猫が目を真っ黒にし、恐怖に固まっているのが見えた。

 火と熱が怖いのだ。

 当然だ。

 メイはとっさに子猫のキャリーの上におおいかぶさり、あえいでいる小鬼にささやいた。


「影使って、ミーちゃんのキャリーに入ってください……!」

「そ……それは良いが……」

「早く!」

「!」


 小鬼は従った。

 メイは子猫が、キャリーの中にあらわれた小鬼に必死でくっつくのを感じた。

 小鬼は子猫をなでさすり、なだめてやりながらきく。

「そ……それでどうし……」

「ミーちゃん連れて影を抜けて、この異界から脱出してください」


 小鬼は息をのんだ。

「ムリじゃ!」

「なぜですか」

「ワシは、じ、自分以外の生き物を連れて影を出入りしたことなぞ、一度も……」


「初めてなんですね。でもだいじょうぶ。キバさんならできます」

「そ、そんな……」

「やって」

「!」


 小鬼は子猫の毛皮をひっつかみ、決死の形相で足もとの影を踏んだ。


 もう一度踏んだ。


「……どうしました?」

「影に入れん! キャリーに入るだけならくぐれたというに、外へ出ようとすると……」

 ごくり、と緊張にのどを鳴らした。

「山神の蔵の時と同じじゃ! 口惜(くちお)しいがワシには、異界の結界を抜ける力はないようじゃ」

「では、結界に穴を開けます」


 メイの即答に、小鬼はあっけにとられる。

「でっ、できるのか」

「……やります。でも……その瞬間、(まも)りが手薄になりそう……な気がします」

 メイはくちびるを噛んだ。


 討伐術を起動しながらでは、治癒術を使えないのと似ている。

 ただしこれは、攻撃と防御。

 治癒ほどかけ離れてはいないから、ベテランならきっと、同時に使いこなせるのだろう。

 でもメイにはまだできない。


「焼かれちゃうから、異界の結界に穴が開いたら、すぐ逃げてください」

「そっ……そなたはどうなるッ!」

「消し炭になっても狐さんが助けてくれるそうですし、わたしのことは気にしないで」


「バカな! ワシに異界の仕組みはわからんが、いかに名高き九尾の霊狐といえど、死者に命を取り戻せるとは信じられんッ! 消し炭からよみがえったとて、それが真正、もとどおりのそなたである保証はどこにも……」

「だいじょうぶ。死んだことも、よみがえったこともありますから」


「いや待て、待てい! ムチャをするなッ! かまわんではないか、おまえの神が許すと言っとるのじゃ! ここはおとなしゅう狐について行け!」

「死んでも、イヤ」

「!」


 猛火の熱に朦朧(もうろう)となりながらも、メイはためらわず討伐術を起動した。

「わたしは……異界に穴をうがちます」

 宣言したとたん集中が分割され防御が弱まり、炎熱が勢いを増す。


 髪が焦げるにおいがした。

 痛い。熱い。熱すぎて、もうあまり息を吸えない。

 命をかけます、と胸の内でつぶやき、メイは祈念をふりしぼる。

 小鬼に、かすれ声でささやいた。


「いきますよ、三……二……」


        ◆


 子猫は極大の恐怖に凍りついていた。

 小鬼にかじりついているのにまだ怖い。

「おねえちゃん」が大きな身体でかばってくれている。

 でもまぶしい炎の揺らめきと、身が縮むような熱気がどんどん寄せてくる。


 怖い!


 怖い!


 不吉なにおいが鼻を刺す。

 獣の毛が焦げるにおい。

「おねえちゃん」が焼けている。

 死んじゃう。

 そう気づいた、瞬間──


(!)


 子猫の魂の中で、鮮烈な記憶が閃いた。


 轟音。

 爆音。

 炎。

 ものすごい熱。


 悲鳴。

 焼けていく毛のにおい。

 肉のにおい。

 母だ。


 母が、子猫と、そのきょうだいたちを大きな身体でかばって、焼けていく。


 だいじょうぶ、だいじょうぶだからね、おまえたちはだいじょうぶ……

 くり返しささやきながら、なめてくれる。

 熱でやられてしまわないよう、濡れた舌でくりかえし、そうして……


 おかあさん! おっかあ! 死なないで!


 子猫は必死で叫ぶ。

 泣き叫ぶ。


 いやだ、死なないで、助ける、あたいが助けるから……あたいが……今……!






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