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霊狐、おののく②

 メイはお供えを折っていた。

 丁寧に、しかしすばやく、小さな花を次々に折りあげ、お供え入れの缶に入れていく。


 古典の授業中だった。

 午後いちばんの授業で、教室の三分の一ぐらいがうつらうつらしている。

 年配の先生の古文朗読を子守歌に、机につっぷし、いびきをかいている強者(つわもの)もいた。

 おかげでメイが教科書の上にお供え入れの缶を置き、ずっと折り紙をしていても、あまり目立たない。その時、


「わたあめっ!」


 突然、机の中から小鬼が跳びだしてきて、メイは跳びあがりそうになった。

「大変じゃ! おおごとじゃ!」

 よほど急いで来たらしい。はあはあと息を切らしながら、小鬼はけんめいに訴える。


「とっ……止めようとしたんじゃ! 止めようとしたんじゃが、力およばず……」

「?」

「そなたのばば様が! 無謀にも暗黒神(マハーカーラ)に封印術をしかけ、跳ね返されて倒れたッ」

「えっ……」

 思わず声がもれてしまい、先生が朗読を中断してこちらを見る。

「神納さん、なにか?」

「!」


 メイはとっさに、挙手して言った。

「すみません、早退します!」

「え……」

「祖母が倒れて」


 説明する間も惜しんで立ちあがり、お供えと教科書を片づけるメイに先生は目を丸くした。

 授業中はスマホは切ることになっているし、着信音もなかった。

 いったいどうして知ったのか、さぞ疑問に思ったにちがいない。

 しかし、ふだんおとなしいメイのただならぬ様子を見て、うなずいた。


「わかりました。早退届は明日でいいから、急いで行ってあげなさい。気をつけて」

「ありがとうございます! 失礼します!」

 メイは鞄をつかむと先生に一礼し、教室中の注目を集めて教室を飛び出した。


 廊下を走り、階段を駆けおりながら、飛んでついてくる小鬼にきく。

「キバさん……! おばあちゃん、い……生きてますか?」

「母が救急車を呼んで搬送されたが、その時には生きとったぞ」

「良かった!」

「使うたのが封印術だったのが幸いしたかもしれん。あと、そなたとちがって霊力が強すぎなかったのも、幸運に数えてよかろうな」


 昇降口で靴を履き替えながら、メイはしかしまだ、事態がのみこみきれずにいた。

「それにしても、まさか……まさかうちのおばあちゃんが、霊能者だったなんて……!」

「知らなんだのか?」

「ぜんぜん! それらしいとこ見たことないし……おばあちゃん、ふつうの美容師で、いつもお店で忙しくしてて、おはぎ作るのが上手で……」


「零課の課員ほど力はないが、年季の入ったベテランであったぞ」

「そうなんですか? でもでも、スサノオ封印しようとするなんて、いくらなんでも……」

「玉砕覚悟の意気込みでのう」

「そんな……! どこの病院に運ばれたか、わかりますか」

 小鬼は救急車の中で聞き覚えた搬送先を暗唱、メイは学校を出るなりスマホで検索する。


「ありがとう、見つかりました! これ、零課のお仕事で近所に行ったことある病院です!」

 ここからなら電車一本ですぐ行ける。

 最寄り駅に走り出すメイの横を、並んで飛びながら、小鬼がおずおずと切り出した。

「ところでもうひとつ……そなたに伝えておかねばならぬことが……」


「なんでしょう」

暗黒神(マハーカーラ)が……そなたの家を出て行った」

「……えっ?」

 メイはつんのめるように立ち止まり、あぜんと小鬼をふり返る。


 小鬼は言いにくそうに口もとをもごもごさせ、眉をハの字にしてためらい、しかし言った。

「そなたの母者が、その……追い出したのじゃ」

「ええっ……お母さんがスサノオを? どっ……どうやって!」

「ばば様を助けようとして、あやつに……出て行けと命令しおった」

「!」


「あまりの暴挙に、そなたの母の首が飛ぶのではと、生きた心地もせなんだが……」

 小鬼はごくり、とのどを鳴らした。

暗黒神(マハーカーラ)は窓をぶち抜いて……飛び去りよった。どこへ行ったかはわからん」

「…………」


「すまぬ! ワシはばば様を止めようと……あやつは、ばば様が思っておるほど害はないと説明してやろうとしたのじゃが、情けなくもばば様の術にあっさり封じられてしもうてな、ばば様が倒れるまで動くに動けず、声も出せず……面目ない」

 ぎょろ目をうるませ、べそをかいて謝る小鬼に、しかしメイはほほ笑んだ。


「キバさんのせいじゃありません。それよりキバさん、スサノオをかばおうとしてくださったんですね」

「えっ? あ、いやワシはただ……」

「ありがとうございます。キバさんがいてくださって、ほんとうに良かった!」

「……!」

「おかげでおばあちゃんの病院もわかったし!」


 ふたたび走り出すメイに、小鬼は追いすがりながらきく。

「しかし行って、どうするのじゃ」

「わたし治癒術使えますから、おばあちゃん治せると思います」

「おお、その手があったか!」


 メイは最寄り駅に駆けこみ、路線図を確認して、ふだん乗らない電車に迷わず乗った。

 零課の仕事のおかげで慣れたものだ。

 電車の中で、小鬼がまだなにか話したそうな顔をしているのに気づいて、ハンズフリーのイヤホンを耳にかけた。乗客の少ないコーナーへ移動し、ドアの方を向く。


「なんでしょう?」

 小鬼はメイとドアの間にもぐりこみ、声をひそめた。

「実は……異様な音を聞いたのじゃ」

「?」


暗黒神(マハーカーラ)めが飛び去る前、あやつの内からとてつもない……岩山がひび割れるような、大木が裂けるような、ワシの骨まで震えるほどばかでかい、恐ろしい音がばきばきと響いてな」

「ひび割れる音……!」


 メイは実際にそういう音を耳にしたことはなかったが、なぜか、知っている気がした。

 小さくかすかなひび割れの音を、ずっと、意識の外で聞いてきた気がした。

 数えきれないほど。

 なぜ気にならなかったかと言えば、破壊神が気にしていなかったからだ。でも──


「前からうすうす思っておったが……」

 小鬼は困ったように言った。

「あやつは……調子が悪いのではないかのう」

「キバさんも……そう思われますか」


「いつも眠ってばかりいるであろ? 古い神はえてして、そういうものらしい。しかし……この数日ますます眠そうで、あげくあの音じゃ! あれは……さすがにまずいのではと……」

 メイはうつむいた。

「わたしが……無理させちゃったから」

「いや、そなたはべつに……」


「暴走した霊力、代わりにおさめてくれたのって……すごい無理だったはずなんです」

「そうかのう、たしかに夜叉神にしては味な真似をするとは思うたが……」

「たぶん、やっちゃいけない無理……身体が壊れちゃうほどの無理……だったと思うんです」

 つぶやくメイの目がじわっとうるみ、小鬼はあわてた。


「いや待て、なにも、あやつが壊れると決まったわけでは……」

「……だから食べていいです、って言ったのに」

「ンあ? い、今なんと?」

 驚愕に目をむく小鬼に、メイは涙をぬぐいながら、憤りにちょっと口をとがらせる。


「なのにあんな無理してまで助けてくれて……そこまでして、わたしと戦いたいなんて理解できません……! どうしてあの神さまはいつもいつも後先考えず、むちゃするんでしょう」

「どの口が言うやら」

 小鬼はあきれはてたと言いたげに鼻を鳴らした。


「え?」と戸惑うメイに、小さな牙をむいてぶちまける。

「そなたも暗黒神(マハーカーラ)も、ワシから見れば同じようなもんじゃ! どっちもどっち、無謀でむちゃくちゃで、身の安全もかえりみず、やりたいようにしかせん大うつけじゃッ!」

「え……そ、それほどでも……」

「ええい、なにを照れとるかッ! ほめとらん! これっぽっちもほめとらんぞッ!」


 わめきすぎてぜいぜいと息を切らし、小鬼はなんとか気を取り直して言った。

「そなたが望むなら、ワシは今から暗黒神(マハーカーラ)を探しに行ってもよいぞ」

「いえ、それはいいです。どこまで行っちゃったかわからないですし」


「それはそうじゃが、ほうっておいては……」

「念で呼んでみましたけど返事ないし、なんとなくですけど……眠ってると思います」

 無意識に、言葉に確信がこもる。


 小鬼は気圧された顔でうなずいた。

「そ……そうか。うむ、確かに……なまじ家にいて母者に騒がれるよりは、離れたところの方が……静かに眠れるかもしれんのう」

「それにお供え、ちゃんと届くと思いますから」

「届くのか!」


「今も祈念が届いてる感じがします。だからだいじょうぶ」

「今も? そなた、まさか……四六時中、あやつのために祈っとるのか」

「はい。わりといつも」

「!」


 心底、理解できない、という顔をする小鬼をよそに、メイは、電車がすべりこんでいくホームの、駅名表示に気づいて身を乗り出した。

「あ、着きました! おばあちゃんの病院の最寄り駅……!」


 メイと小鬼は急いで電車を降り、改札を出た。

 スマホの案内をたよりにめざす病院に向かう。その時、画面に着信サインが出た。

「あ」

「なんじゃ」

「お母さんからメッセージが……」


 一瞬ためらい、しかし勇気を出して表示。

 メイの手もとの画面を小鬼ものぞきこみ、読みあげた。

「どれどれ……『おばあちゃんが倒れて入院しました。面会時間は午後四時半までです。間に合いそうならお見舞いに行ってあげてください』あとは病院の所在地のみ……ううむ、ようもここまで、かんじんのところをはしょって伝えられるものよ! 逆に感心するわい」


「でもお母さん、妖怪見えはじめたばっかりだし、おばあちゃんがどうして倒れたかも、よくわかってないはずだし……説明したくてもできなかったんですよ、きっと」


 メイは歩きながら、さっそく返信メッセージを打つ。

「『すぐ行く! 知らせてくれてありがとう』あと……ええと……『お母さんも来る?』」

 すぐ返信が来た。


『一緒に病院行って、今、家に戻ったところなの。片づけもあるから、わたしはまた明日』

 という返信を読んで、メイは小さく「良かった」とつぶやく。


 小鬼が驚いたようにメイを見直した。

「病院で母と鉢合わせぬか、確認したのか……! わたあめにしては悪知恵がまわるのう」

「治癒術使うのに、反対とかされたら困るから」


 母に『わかった。おばあちゃんお見舞い行って、すぐ帰るね。手伝えることあったら言ってね』と返信を打ち、メイは、たどりついた病院の建物を見あげた。

「入ります」

「うむ」


 スマホをしまい、ハンズフリーイヤホンもはずして外来受付窓口へ。

 面会用の書類を書き、面会札をもらって服につけた。祖母の病室を教えてもらい、向かう。


「これ! 仕事はするなと零課に言われているのじゃろ」

「えっ? してませんよ」

「ウソつけ。さっきからそなたのまわりでケガレが蒸発しとるぞ」

「そっ……そうですか? すみません、力の『おさめ』方が足りないんでしょうか……」


「やたらとピリピリせず、なにもない時のようにのーんびりした気分になってみよ」

「うーん、この状況ではむずかしいですけど……こ……こんな感じでしょうか」

「お、だいぶマシじゃ」

「ありがとうございます、自分じゃわからなくて……気をつけます」


 教えてもらった病室には、いくつかベッドが並んでいた。

 採光が良くて、室内は明るい。

 ちょうど出てきた看護師さんに「加納キミ子の孫です」と言うと「奥から二番目のベッドです」と教えてくれた。

 若い看護師さんは、なんとなく気の毒そうにメイを見たが、そのまま行ってしまう。


 メイはまっすぐ、教えられたベッドに向かった。

 半分だけひかれた間仕切りカーテンの中に入り、枕もとへ歩み寄る。

「おばあちゃん……?」


 メイは凍りついた。

 元気で、てきぱき立ち働いている姿しか知らない祖母が、真っ白な顔色で横たわっていた。

 いつもよりひとまわり小さく、ずっと年取って見える。

 枕もとの計器の数字は読めないが、どう見ても普通に眠っているわけではなさそうだ。


 おそらく昏睡状態。だからさっきの看護師さんは、気の毒そうな顔をしたのだ──。

「わたあめよ。治してやるのであろ?」

 小鬼のささやき声に、メイは気を取り直した。

「はい……! い……今……」


 ほんとにできるだろうか、という思いが脳裏に閃く。

 自分のような初心者に、ほんとうに? という不安に一瞬、押しつぶされそうになったが、


(できるわ……! 治癒術は効果が弱いことはあっても、副作用はないもの! 落ちついて……落ちついてやれば……だいじょうぶ!)

 メイはぐっとくちびるをひきしめた。


 通学鞄を床に置くと、目を閉じ、深呼吸して気を整える。

 幸い、重症患者ばかりの病室に他に客はおらず、看護師さんもちょうど出払ったところ。

 集中をさまたげるものはない。


「……!」

 小鬼がメイの霊力の高まりに息をのむ気配も、たちまち意識の外に遠ざかった。

 ややあって──


 メイは、とても平らかな気持ちで目を開けた。

 相手が大事な祖母だということも、これまでのいきさつも、もう心を乱すことはない。


 澄みきった集中のもと、祖母の身体にくまなく手をかざして気の「欠け」を探す。

 ちりっ、ちりっとひっかかる感覚とともに、以前ならわからなかった詳細も伝わってきた。


 脳に星みたいに散らばっているのは小さな血栓、無害なもの。

 これは白内障。点眼薬をもらっている。


 これは歯のひび。こっちは差し歯が合ってない痛み。歯医者に行くのを後回しにしてる。

 これは美容師として長年はさみを使ったことによる腱鞘炎と、指のゆがみ。


 腰痛がある。膝の軟骨もすり減っている。歩き方に少し癖があって、かかとも痛む。

 でも内臓に目立った故障はない。身体は、歳のわりにとても健康。


 では昏睡の原因は──? と思った瞬間、

(!)

 メイは初めて、物理的な身体にだぶるように存在する、霊体を「見」た。


 身体よりずっと若く、二十代ぐらいに見える。

 きびきびした感じの、飾り気のない美人。

 身体と同じように眠っているが、少しけわしい表情。そして──


 息をしていなかった。

 死力を尽くし、全力で念じたその瞬間、時が停まってしまったかのよう。

 凍りついている。


 跳ね返った自分の術によって、霊体が封じられてしまったのだ。

 昏睡の原因はこれだ。


 メイは今度は霊体に注意を向け、あらためて手をかざした。

 ちりっ……と感じたのは、目に見えないほど細い、クモの糸より細い、霊妙な針だった。


 刺さっている。たくさん刺さっている。見えないけれど、感じる。

 微細な針の一本一本は、念でできていた。

 針をとりのぞこう、としてみた。

 抜けない。


 と言うより、こちらの念がすり抜けてしまう。針を「つまむ」ことができない。

 すぐ、原因がわかった。

 波長が合っていないからだ。


 たぶんこうした術は本来、術者本人にしか解けないのだろう。

 でも、きちんと気を合わせれば──。


 メイはもう一度、手のひらを霊体の上にかざし直し、ゆっくりとすべらせていく。

(……!)

 祖母の思い、祖母の心象が、どっと流れこんできた。


 ──「あたしがきっと、なんとかすっから!」

 母からの相談の電話に、祖母が答えた声がありありと脳裏に響く。

 瞬間、針の何本かが蒸発した。


 だがもう、メイの意識に、針は映っていない。

 見えるのは神納キミ子の心象、感じるのはその思いだけ。

 ──あたしにできるだろうか。

 祖母の内心のつぶやきとともに、しわだらけの手が見えた。


 メイの家の階段をあがっていく足の感覚。

 精進潔斎(しようじんけつさい)し、祈念を高めてある。

 めったに、ここまではしない。


 でも──

 祖母は「見た」のだ。

 メイに「取り憑いている妖怪」を祓うため、ここに来る前に霊視して──「見た」。


 闇より黒い、巨大な悪鬼。

 祖母の「目」には、そう見えた。


 まぶしい、灼けつくような白銀の炎を背景に、黒々とそびえる漆黒の悪鬼。

 人型だが骨と皮ばかりに痩せこけ、闇に塗りこめられた顔には目が三つ。


 白目が黒く、虹彩は血の色。額の目は縦に裂けている。

 その悪鬼が、小鳥より小さくか弱いメイの霊を、今にも喰らおうと握りしめている──。


 絶望した。

 そのへんのもののけとは格が違う。

 強すぎる。

 これは神と呼ばれてあまりあるほどのもの──と察しながら、キミ子はなおも考える。


 ──たとえ神でも、うちの孫を喰うなんて絶対、許さない!


 死んでも祓ってみせる、という覚悟を胸に秘め、

 ──「尊き大神さまに畏れながらご挨拶申しあげます」

 祖母は、本棚の上にいる小さい姿をとった神を拝礼する。


 ──「なんの用だ」

 小さな破壊神の返事は鋼のようで、祖母はその、揺るぎなき無慈悲を確信する。

 確信しながら、切り出す。

 ──「お願いがあってまいりました──」


 メイは、祖母と破壊神のやりとりのすべてを、その場に居合わせたかのように聞いた。

 封印術を放った瞬間、祖母が抱いた感情のすべてを、荒れ狂う嵐のように体感した。


 愛。覚悟。誠実。殺意。喜びと悲しみ。

 同時に手のひらが、祖母の霊体のつま先までたどり終える。


(おばあちゃん……!)


 封印術の針は、一本残らず蒸発した。

 だがことの経緯を知ったメイはそれに気づかないほど、衝撃を受けていた。


(なんてことしたの……! こんな、こんなことされたらスサノオは……)


 今の破壊神は以前とちがい、祖母とメイの関係性を理解する。

 どちらにとっても、相手が代えがたくたいせつだ、ということを理解する。

 だからこそ祖母に、おまえの攻撃は無駄だと警告した。自殺行為はやめてほしかったのだ。


 しかし祖母は退かなかった。

 破壊神は、挑戦を(よみ)する。敵味方も有利不利も関係なく、あらゆる自由意志を愛している。

 だから本気で挑まれたら、止められない。止めない。

 しかしその結果、予想どおりとはいえ目の前でメイの祖母が倒れ、母が取り乱したら──。


「!」


 メイは、小鬼が聞いたという恐ろしいほど大きい「割れる音」の意味を悟った。


 そうでなくてもメイと無理に「気を合わせた」せいで、破壊神は不安定になっていた。

 そこに祖母の、自爆攻撃。


 祖母の術そのものは、まったく効かなかったはず。

 だが、その行動がもたらした異質な感情の爆発は、夜叉神の許容限界をはるかに超え──

 すでにひびだらけの存在に、とどめの一撃を加えてしまったのだ。


 おそらく、このままでは砕け散る。

 死んでしまう──という強烈な直感に圧倒され、メイは頭が真っ白になる。

(ううん! 絶対! そんなことさせない!)

 絶対の決意に全身の霊力が燃えあがりかけた時、


「わたあめッ!」


 小鬼の叫びが耳に突き刺さり、メイはぼんやりまばたきした。

 でもよく見えない。なにもかも霧がかかっているようだ。


「落ちつけバカ者! むやみに気を高ぶらせてはまた力が暴走するぞッ! 暗黒神(マハーカーラ)めが無理を押してまで鎮めてくれたものを、台なしにしてしもうて良いのかッ!」

 小鬼の叱咤(しつた)に痛いところを突かれ、ハッと息をのむ。そのとたん、


「!」


 一気に五感が鮮明になった。

 間仕切りカーテンがばたばたと、風にあおられるようにはためいているのが見えた。

 メイのセーラー服も、ベッドのシーツもだ。

 照明が不安定にまたたいている。

 そして──


「え……?」


 目を疑った。

 祖母のベッドが、浮いている。

 キャスター付きの脚が少なくとも数十センチ、床から離れているのが見えた。


「落ちつけ」

 小鬼が、念の風に飛ばされまいとメイの肩にしがみついたまま、必死に指示する。

「ゆっくりじゃ! 急がず、ゆうるりと、あふれる力の流れをおさめよ! ゆるゆるとドアを閉めるあんばいで……そう、そうじゃ、最後までゆっくり……!」

「……!」


 小鬼の指示は的確だった。

 ほんとうに、ものすごく強い風、もしくはあふれ出る水の流れに逆らって、重たいドアを閉めようとしているかのようだった。


 押して、押して、押した。

 無意識にあげた両のてのひらが、とてつもなく重たいふすまを閉めようとするかのように、じりじりと近づいてくる。

 ゆっくり、近づいてくる。

 ひた、と合わさった。

 瞬間。


 ベッドは水平をたもったまま、音もなく着地した。

 ほっと息をついたとたん残りの力が抜け、すると、それまでベッドと一緒に浮いていた、祖母の体重がかかったらしい。

 マットレスがかすかにきしみ、掛け布団の、最後まで浮いていたすそが、ぱさりと垂れる。

 超常の風も、やんだ。


「やった! やったぞ、わたあめ! ようやった!」

 小鬼が歓声をあげた時、複数の足音があわただしく病室に駆けこんできた。


 手分けして各ベッドの患者を確認、医療機器をチェックする看護師たちのひとりが、メイのいるスペースにも小走りにやってくる。

「神納さん! だいじょうぶですか? 今、病棟全体で電気関係のトラブルが……」

「す……すみません」

 蚊の鳴くような声で謝罪するメイを見もせず、看護師は「ちょっと横、失礼しますね」と機器のチェックをすませた。


「大丈夫、誤作動ありません。ん?」

 クリップボードに書かれた以前の数値と、目の前に表示された数値を、二度確認する。

 くるっときびすを返した。

「先生呼んできます」

「えっ……ま、まさか悪化……」


 青くなってひきとめようとするメイに、看護師はふりかえってちょっと笑顔を見せる。

「いえ、すごく改善してるんです。良かったですね」

 あわただしく走り去る看護師を見送って、メイはほっとしたあまり、よろめいた。


「す、すわった方が良いのではないか?」

 おろおろする小鬼に、メイは感謝の涙でうるんだ目を向ける。

「キバさん、ありがとうございます……! キバさんが声をかけてくださらなかったら……ひとりだったら絶対……た、大変なことになっちゃってました……! わたし……」


「よしよし、わかったから落ちつけ。霊能者たるもの平常心がたいせつじゃろ。なんなら、まんじゅうでも思い浮かべてみてはどうじゃ。おお! そういえば、ばば様がそなたと母者に冷やしまんじゅうとかいうみやげを持参してくれておってな、帰れば冷蔵庫の中に……」


 メイはたまらず吹き出した。

 緊張の反動か、発作的なくすくす笑いが止まらない。

「なにがそんなにおかしいのじゃ」

 へそを曲げた顔をする小鬼に、メイはベッドのフレームで身体を支え、笑い涙をぬぐう。


「す、すみません、そうじゃなくて……おまんじゅう、帰ったら一緒に食べましょう」

「うむ、冷やして食うまんじゅうなぞワシは初めて聞く。楽しみでならん」

「キバさんったら、よだれ出てますよ」

「知らぬものゆえ期待倍増なのじゃ! 色は何色か。甘いのか、辛いのか」

「甘いよ」


 しわがれ声が横から答え、小鬼とメイは驚いて祖母を見た。

「ばば様!」

「おばあちゃん! 良かった、目が覚めたんだね!」

 歓声をあげて枕もとに駆け寄るメイと小鬼を、祖母は戸惑ったようにながめる。


「ここは……病院? あたしは……死ななかったのかい?」

「だいじょうぶ! 跳ね返った術のせいで少し具合悪かったけど、もう消しちゃったから」

 祖母の手をとり、やさしくなでながら言うメイを、祖母は驚きの目で見た。


「メイちゃんが?」

「うん。初めてだったけど、なんとかできたよ」

「……順子さんは?」


 祖母は突然、家で倒れる寸前に引き戻されたかのように動揺し、起きあがろうとする。

「だいじょうぶ! お母さんは元気です。いったん家に帰ったけど、明日また来るって」

 あわててなだめるメイの腕をつかみ、祖母は恐怖の色もあらわにきいた。


()()は? あの恐ろしいものはどうなったんだい? メイちゃんの部屋にいた……」

「…………行ってしまいました」

 メイは力なく答える。


 しかし祖母に、メイの笑顔がかげったことに気づく余裕はなかった。

「いったいどうして? あたしの術はぜんぜん通用しなかった……なのにどうして……」

「お母さんが出て行け、って言ったみたい」

「なんて恐ろしいことを! じ、順子さんにケガは?」

「ないよ」


「そんなバカな! そ、それでほんとうに、()()はもう、メイちゃんの部屋にいないのかい」

「…………うん」

 メイは涙をこらえてうなずく。

 祖母はしばしぼうぜんとし、なおも信じられない様子でつぶやいた。


「……驚いたよ。()()は絶対、居すわる気だと思ったのに」

「…………」

 メイは、()()とか言わないで、わたしの大切な神さまなんだよ──! と言いたくてたまらなかったが、口を開いたら泣き出してしまいそうでなにも言えず、うつむく。


 祖母は孫の動揺を見てとり、ほとんど自動的に、なだめるように手をあげた。

 いつものように、孫の顔にかかる後れ毛をそっとよけてやろうとしたが、メイはその手から反射的に身をひき、顔をそむける。


 目覚めたばかりの祖母はしかし、まだ、恐ろしい神がなにもせずに去ったという驚きで頭がいっぱいだった。

 ややあって、衝撃と不信がゆっくりと、安堵と解放感に置き換わってやっと──

 長い、長いため息をつく。


 やっと表情も明るくなり、メイを見あげて、喜びに目をうるませた。

「良かったねえ。ほんとに良かった……! これでメイちゃんを食べようとするものはいなくなった……! がんばったかいがあったよ」

「…………」

「それにしても、あの恐ろしいものが、順子さんのひと声で出て行くなんてねえ……」

「…………」


「けど油断するんじゃないよ! ああいう()()は生まれつき無慈悲で残酷で、そのうえ狡猾なんだ! 人の気持ちなんかなんとも思ってないくせに、つけいるのだけはうまかったりする。絶対、隙を見せちゃいけないよ。二度と関わらないよう、しっかり縁を切っ……」


「あのひとのこと……なんにも知らないくせに……」


 メイの押し殺したつぶやきに、祖母はぽかんと口を開ける。

 小鬼が小さく「ひとではなかろう」とツッコんだが、メイの耳には入らなかった。

「おばあちゃん、な、なんにも知らないくせに……スサノオのこと悪く言わないでっ……!」

 憤りのあまり声がわななき、どっと涙があふれる。


 そのうえ霊光(オーラ)が爆発して炎のように荒れ狂い、小鬼が動転した声を出した。

「待て、待てわたあめっ、落ちつけ!」

 まばゆい霊光(オーラ)は祖母の目にも映り、祖母はあぜんと目を見開いたまま、ききかえす。


「メイちゃん、い、今なんて? スサノオ……?」

「おばあちゃんのバカあっ!」

 泣きながら叫んだとたん、室内の照明がふたつショートして消えたのにも気づかず──

 メイは病室を飛びだした。




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